私は、そんなわけで20世紀をやめました

20世紀のシッポを切り落とすために出来ることを考えます。 20世紀を辞めたら、もしかすると21世紀に就職出来るかもしれない。 いや、もう一度20世紀をやり直せばいいのさ。 もしも、20世紀をやり直せるとしたら、きっと面白いことに成るよ!

『今の世の中はチョット・オカシイよ!』について

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社会批判などをするときに、わりと簡単に『今の世の中はチョット・オカシイよ!』と言ってしまうことがありますよね。
(自分自身もよく言っていると思いますけど)
でも、『じゃあ、「いい世の中」ってどういう世の中なんだ?』とか『そもそも、「いい世の中」って、いつ、どこの国にあった世の中なんだ?』ということになると、たぶん、誰も答えられないんじゃないでしょうか?


要するに、実を言えば、「いい世の中」なんて、今までに一度も実現されていないわけです。
というか、今までにあったのは「悪い世の中」と「非常に悪い世の中」だけであって、「いい世の中」はおろか「まぁまぁ、いい世の中」ですら、『本当に、そんな時代があったのかぁ?』とずいぶん怪しい感じもしてくるほどなわけですねぇ。
(「いい世の中」とされるのが、「バブル期」のような「ややイカレタ時代」だったりしますよね)

 ※こういう話をすると、『いやいや、昔に比べればゼンゼン・マシですよ』
  という人がいますが、そういう人に『えっ!?子供から大人まで自殺や
  イジメが蔓延するこの世の中が、あなたにとってはそんなにマシな世の
  中なんですか?』と聞きたくなってしまいますね。

要するに、「社会」とか「政治」というものに対して「理想」とか「信頼」を持ちすぎてきたんじゃないでしょうか?
だから、『きっと、いつか「いい世の中」が実現されるに違いない!』という思い込みが出来上がってしまって、その「思い込み」が独り歩きしてしまっているような気もするわけですね。

まぁ、こういうことを言うと、『なんでも悲観的に考えてはいけない』とか『そういうマイナス思考は何の役にも立たない』と思う方もいるんでしょうね。

でも、やっぱり『魚のいないところで釣りをしても、釣れないでしょ?』
『というか、それを釣りと呼べるのかどうかも怪しいんじゃないの?』と思ってしまいますね

まぁ、それぐらい、「いい世の中」は実現不可能なものなんじゃないのかなと。
そんな風に思ってしまうわけですね。


まず、なんといっても、「社会」が「個人を阻害するもの」であるということが認識されていないわけです。
だから、「社会の完成度」を高めていけば「いい世の中」になると思われているわけです。

でも、実際には「社会の完成度」が高くなると、むしろ「社会」は「人間」に対して高い要求を突き付けてくるようになるわけで、そういう「社会の要求」や「社会からの使役」についていけない人が出てきてしまうわけです。

こう言うと、いかにも「劣等な人間」が置いて行かれるというイメージになってしまいそうですが、実を言えば、『ついて行かれなくなる』のは「人間的な人間」であって、「劣等」かどうかは関係ありません。
逆に、『ついて行かれる』のは「機械的な人間」であるか、または「動物的な人間」であるわけです。
こちらも、「劣等」であるか「優等」であるかは関係ありません。

 ※これは、必ずしも「社会に適応できる人」が「人間性」において劣るという
  ことではありません。
  つまり、「人間性」が「その人の社会への適応度」に比例しているのではな
  く、「その人が社会から受けるストレス」に比例しているということです。

  要するに、「社会的なストレスを受けている人」というのは、その人の中の
  少なくとも一部分が、「社会」から置いて行かれているということに成るわ
  けですね。

ということは、「いい(完成された)社会」を目指せば、必ず「人間」が阻害されるということです。
つまり、「いい社会」であればあるほど、人間にとっては「いい世の中」から離れていってしまうモノだということなんですねぇ。

これは、「いい社会」だけでなく「いい政治」でも「いい経済」でも「いい制度」でも、ほとんどの「社会的秩序」に当てはまると思います。
でも、それでいて「秩序」も必要ではあるわけですから、そんなわけで「いい世の中」が実現しないというわけです。


それから、もう一つ大きいのは、「人間」は常に歴史とともに「社会に対する期待値」を上げてしまうということです。
例えば、「戦乱の世の中」から「平和な世の中」になっても、『いや、まだまだ、本当の平和とは言えない!』というように、どんどん「社会に対する期待値」を高いところへ持ち上げてしまうわけです。
(この話も、そういう話の一つですけどね)

ただでさえ、「社会」には「人間を阻害する性質」があるのに、その「社会に対する期待値」を、どんどん上げていってしまうわけですから、人間が満足するような「いい世の中」なんて実現できるわけがないですよね。

まぁ、それで、いつもいつも『今の世の中はチョット・オカシイよ!』と言っていなければならなくなるわけです。

それは、たぶん仕方ないことだと思うわけですが、そんな中でも、少しづつ「マシな世の中」が出来ていけば、渋々ではあってもそれはそれでいいのかな?とも思うわけで、それ以上を望むつもりはないわけなんですが、それにつけても、やっぱり『今の世の中はチョット・オカシイよ!』と言いたくなるような「今の世の中」って、いったいどうなのよ?とも思うわけで、どうして、こんなに豊かなのにこんなに貧しくて悲しいのだろうか?と言わざるを得ないわけなのです。


で、『なぜ、そうなってしまうのか?』と考えてみるわけです。

やっぱり、「カネ」をすべての原理にしてしまっていることに、一番の問題があるような気がしますねぇ。
前述のように、「いい世の中」は実現不可能だとしても、ある意味で、どんどん悪くなっているところがあるのも否定できないのは、やはり「カネという妄想」にとらわれてしまっているからではないのかなと、そんな風に思ってしまうわけです。

とにかく、「カネ」を原理として生み出されるものが、ことごとく「人間の幸福」を削ぎ取ってしまう性質があるわけです。
なぜなら、「人間」は絶対に「カネ」には逆らえないからです。

現在、「カネ」に逆らうということは、ある意味で「死」を意味するところがあって、「世の中で生きていくための絶対価」として設定されてしまっているものこそが「カネという妄想」なわけですね。
(個人的に「カネに振り回されない人」もいるということとは別の話です)

だから、絶対に逆らえないし、逆らえば、その人の中の一部分が死んでいくわけです。
当然、逆らい続けていけば、本当に生きられなくなるということですね。
だから、『服従するか?』・『殺されるか?』の二者択一になるわけです。

そして、その「二者択一」が、人間に耐えられる範囲を超えつつある状態が「今」なんだと思うわけです。
つまり、世の中が二極化してきていると思うんですね。

「カネに服従する側」を選択した人は、極端に「カネ」に執着した生き方をしています。
(例えば、「IT系の起業家」の人などですね←まぁ、そういう人ばかりではなないんでしょうけどね)

「カネに逆らう側」を選択した人は、「生きること」自体を解脱しようとする生き方に向かう傾向があります。
(例えば、「スピリチュアル系」の人などですね←まぁ、そういう人ばかりではないんでしょうけどね)

といっても、実際は、時と場合によって「服従する側」と「逆らう側」を行ったり来たりしている人がほとんどなわけですが、そういう人達ですら、「服従する側」にいるときには、かなりな「カネの亡者ぶり」だし、そうかと思うと、一転して「逆らう側」に回ったときには、『えっ、聖人?』というようなことを言っていたりするわけです。
つまり、一人の人の中でも「二極化」が起きてしまっているということだと思いますね。

そんな感じで二極化してしまっていますから、いつも、どちらかに一方的に偏った極端なことしか起きなくなってきています。
ところが、とんでもなく偏った人以外の多くの人間は、その極端についていけないわけで、ここでも、また、「置いて行かれる人」が出てしまうわけです。

しかも、この場合は、ほとんどの人が「置いて行かれる側」になってしまいます。
ごく一部分の「成功した人」や、それとは反対に「物欲から解脱した人」以外のすべての人たちが、全部置いて行かれてしまうことになるわけです。

しかも、「解脱できる人」なんてほとんどいませんし、「成功する人」は居ても、それが続くことはやっぱりほとんどありませんから、だれも残れないのかもしれません。

そういうことで、「カネ」を原理にしていくと、「人間の幸福」がそぎ取られて行ってしまうんだと思いますよ。
そういうの、だれにとっても、なんのトクもないという気がしますね。

だから、もう「カネ」は二の次にした世の中に成って行って欲しいなと。

そんな風に思います。


 ※もしかすると、この記事を読むと、一見、「物欲を捨てる側」の話のよ
  うに見えてしまうかもしれないんですが、「人間」が「物欲」を捨てる
  という話ではなくて、「社会全体が支配されてしまっているカネという
  妄想」からナントカシテ解脱しましょうよ!という話です。
  つまり、解脱するのは「個人」ではなく「世の中」ということですね。
  人間は、そこに方向づけをするだけで十分なんじゃないでしょうか?
  でも、それも簡単ではないでしょうね。

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※この記事は私がメインでやっている

 

と言うブログからの転載です。

「ストレス社会」

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「ストレス」は現代最悪の「病」だと思っています。

ほとんどすべての病気が「ストレス」と無関係ではないと思います。


そう言っても、ただ単なる「負荷」という意味で、この言葉を使っている場合もありますから、その場合は、これに当てはまらないこともあると思います。
でも、それとは違って、逃れられないような「ストレス」や、そこから逃れると、また違う「ストレス」が発生するような「ストレス」と言うのは、正に「万病の素」であって、『百害あって一利なし』だと思いますねぇ。


そして、恐ろしいことに現代と言う時代は、その「ストレス」がはびこった、まさに「ストレス社会」であると言わざるを得ないわけなのです。


社会や経済というものが、あまりにも効率や能率、採算性等を重視してきたために、「ユルサ」がまったく無くなってしまったということだと思います。

ある時点から、「ユルサ」をマイナスと捉えてしまったわけですね。
それは、つまり工業化が始まってからなんでしょう。

まぁ、いわゆる「産業革命」が起きてからということだと思いますけど、全てのことが効率によって判断されるようになってしまったわけですよね。

要するに、機械化が進んで、機械の方が「主」に成り、人間の方が「従」になってしまったということです。
効率的である機械に、人間が合せさせられてしまっているんだと思うのです。


でも、「機械の正確さ」、「機械の速さ」、「機械の”疲れを知らなさ”」
そんなものに合わせていたら、人間は参ってしまうわけですから。

人間が”楽”をするために機械を使ったはずなんですけど、いつの間にか、廻り巡って、人間が機械に合わせるような仕組みになってしまっているというのは、どんなもんなんでしょう?

それで「ストレス」が蔓延して、その「ストレス」が、また「ストレス」を生み出してしまっているわけですからねぇ。


そして、現在はそういう「ストレス」を、誰かその辺に居た他の人になすり付けて、その瞬間に息を継いで、やっと生き延びているような状態なのだと思うのです。
なすり付けられたら、その人もまた誰か他の人を見つけてそれをなすなすり付ける。
そして息を継いで、やっと生き延びる。

そんな状態ではないでしょうか?


でも、きっといつかは、誰か要領の悪い人が、まともにこの「ストレス弾」を食らってしまうでしょう。
もし、受けた「ストレス」を人になすり付けずに、自分で受け止めてしまえば、一気に「病」へ引き込まれます。
それが現在の状態なのだと思います。


要するに、機械と人間の主従関係を逆転させて、元に戻す必要があるんじゃないでしょうか?


なんと言っても「オートメーション」と言うのがいけないような気がします。

要するに「無人」であることがよくないと思います。
人が居ないと成り立たないシステムが必要んですよね。

人が居なくても成り立ってしまうシステムを増やし過ぎたために、人が蔑(ないがし)ろにされるようになって、いつの間にか機械が「主」に成って、人間が「従」にされてしまったのだと思います。

その辺を、人間主導に修正していかなければいけないと思うわけです。


人が関わらずに運行されるようなシステムを制限する必要があるんじゃないでしょうか?
そうしなければ、決してこの「ストレス社会」から抜け出すことは出来ないように思います。

「ストレス」があるということは防ぎようのないことですが、それが社会の主流と成ってしまっていることは、防ぐことが出来る」ハズだと思います。


気が付いた時点でそれをやる。
それが人間にできる事なんじゃないのかなと。


そんな風に思いますよ。

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※この記事は私がメインでやっている

 

と言うブログからの転載です。

「健康」について

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何かにつけて、「健康」の大切さが身に染みている今日この頃なわけです。


「健康」が大事なのは当たり前のことなのかもしれませんが、人間の場合「体の健康」と「心の健康」の両方に気を配らなければならないので、そこの所が特に難しくなっているように思うわけです。


ただ、言葉の上で「健康」と言ってしまうと、「完全な状態」が「健康」で、「不完全な状態」は「不健康」のようになってしまうのですけれど、「完全な状態」などは、ほとんどないわけですから、実際は、「不完全な状態」の中での健康を「健康」と言っているわけなのでしょう。

「一病息災」みたいな感じですか?

でも、実体としては「二病」でも「三病」でも「息災」であればいいように思うのです。


「息災」って何なんだかよくわからない言葉なわけですが、それでも、取り敢えず「息災」ならいいんじゃないの?と言うところですかね。


重い病気の人に関しては、可哀相だと思うのもかえって失礼なようにも思いますし、逆に、そう思わないのも非道なことのようにも思えて、そこの所の判断は付きませんけれど、少なくとも、かなり重い病気の人の中にさえ「息災」はあるのだと思うわけです。


そして、「体の病気」についても「心の病気」についても言えることだと思いますけれど、病気であることを自覚していることは、とても「健全なこと」のように思うわけです。
もっとも「病的」なのは、「病気」を自覚できないことだと思うのです。

そして、そこには「息災」はないように思います。


自分の「病気」を自覚できている人と言うのは、どこか「健康」な気がしてしまうのです。
それは、ただ「頑強」ではないというだけで、「健康」に近いのかなと。
そんな風に思ってしまうわけなのです。


「病気」と言うのは、完全に克服しなくても、自覚して把握してしまうと「病気」とは言い切れなくなってしまうようなところもあると思うわけですね。


もともと、全ての命は、生まれた瞬間から「死」に向かっているとも言えるわけで、「病気」があってもなくても はじめから「余命〇〇年」なのだと思うのです。

ただ、若いうちはその「〇〇年」が長いと思っているというだけのことなのでしょう。


だから、どんなに健康な人でも生まれたときには、もう「余命100年ぐらい」なわけで、その人が50歳なら「余命50年ぐらい」なわけです。

それと「余命3年」というのとが、どれほど違うことなのかはわかりませんけれど、少なくとも、みんな”期限付きの人生”を生きているのは同じなわけなのです。


つまり、全ての人が「余命〇〇年」の「病気」の人生を生きているとも言えるし、逆に、全ての人が、”不完全な”「健康」の人生を生きているとも言えるわけです。


だから、そういう感じで「病気」を把握してしまうと、あとは人生の期間が長いか短いかと言うだけの問題なわけです。


人生の長さは絶対的なことでもないと思いますけれど、「健康」を大切にしていないと、「病気」を把握することもできないので、やっぱり「健康」は大切にする方がいいのかなと。


そう思う、今日この頃なのであります。

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※この記事は私がメインでやっている

 

と言うブログからの転載です。

「娯楽」は多い程いいのか?

※この記事は私がメインでやっている

 

と言うブログからの転載です。

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「娯楽」は、人間にとって必要なものだと思うわけです。
やはり、「娯楽」が一切なくなってしまうと、殺伐として”心がスサンデ”きてしまうのだと思います。

でも、それは”多い程いい”のでしょうか?


「昔は娯楽が少なかったから」などと言うとき、『娯楽は多い方がいい』と言う前提で言ってしまったりするわけですけれど、『本当に娯楽って多いほどいいのか?』と考えることがほとんどないわけです。

でも、最近になって多種多様な「娯楽」がある割には、『”楽しさ”は増えているのだろうか?』と思うときがあるわけです。

そこで、『娯楽は多い方がいいのか?』
いや、それ以前に『娯楽というのは増やせるものなのか?』と考えるわけなのです。


実は、「娯楽」や「楽しさ」は増やしたりできないんじゃないのかなと。

実際、若いころを振り返って『昔は娯楽が少なかったからねぇ』と語る人は、いつも決まって、懐かしそうな目をしているわけです。
そういう人が、「娯楽の海」の中を泳いでいるような今の子供や若者を見て、心の底から、羨ましそうにしているのを、あまり見ない気がします。


本当に「娯楽」や「楽しみ」が増えているならば、それらが少ない時代に生まれたことを”損した”と思うでしょうし、そのことが顔に出るはずだと思うのです。


要するに、その時代、「娯楽が少ない」ということ自体が、一種の「娯楽」だったということなんじゃないのかなと。
そして、それは十分に”楽しくて”、十分に「すばらしい娯楽」だったということなのだと思うのです。


つまり、「娯楽」の種類を増やすことは出来ても、「娯楽」や「楽しみ」の量を増やすことは出来ないのかなと。

そして、もしかしたら、「娯楽が少ないこと」っていうのは「究極の娯楽」だったりするのかなと。


そんなことを思いました。

 

 

 

現在の「多数決」は「伝言ゲーム」のように成っていると思うのです

この記事は私がメイン・ブログにしているトップページ - 「芸術の20世紀 喪失宣言」からの転載です。

 

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前の記事で、「現在の多数決は機能していない」と書いたのですけれど、どう機能していないと思うのかについて書いてみたいと思います。


まず、「代議員制度」です。

これが、現在の国家規模での「多数決」のほとんどの部分を占めていると言ってもいいと思います。
しかし、この「代議員制度」には、かなり無理があると言わざるを得ません。


「民衆(国民)」は、自らの意思を反映させるために、選挙に投票します。
つまり、その「民衆の意思」は”票”と言う「伝言」となって伝えられるわけです。

その結果選ばれた代議員が、その”票”から受け取った「伝言」を議会に伝えます。
その議会でも、また「多数決」で議決が下され、そこで決定されたことが、さらに~、さらに~と延々と、受け継がれていった「伝言」が、人から人へと伝えられて行ったその最後の所にやっと「国家行政」が出て来るわけです。


これは、もう「伝言ゲーム」に成ってしまっているわけです。


もともと、「伝言ゲーム」が面白いのは、はじめの話が、思いもよらないほど”バカげた”ところに行き着いてしまうからなわけですが、それと同じようなことが「社会」や「政治」の場で行われているということに成るわけです。

そこでは、とても”一票の価値”などあったものではありません。

もともと、現在の巨大化した「社会」において”一票の価値”はあまりに希薄です。
そのあまりに希薄な価値ですら反映されないわけです。


だいたい、現状では”一票の価値”を実感できる機会は全くありません。
このような状態の中で、いくら『真面目に考えて投票しましょう』と言っても、それが意味のあるものに成ることは無いでしょう。

つまり、「多数決」と言っていますが、実際にやっているのは、「誰のものでもない意思」を作り出す「伝言ゲーム」に他ならないわけです。


そして、それを「民主主義」と言っているわけです。

いったいどこに「民衆」が居るのですか?

どこの所に「民衆」が参加しているといえるのでしょうか?


「世論」と言っているものだって、結局「与えられた教育」や「与えられた報道」と言ったマスメディアによって作られた半ば”お仕着せ”のもののように見えますし、そこには、本当の意味での「個人」が見えてこないわけです。


と、まぁ、こういう感じで「多数決」は機能していないんじゃないのかなと。

そんな風に思ってしまうわけですが、「個人の判断」に身を委ねる勇気を持つことが出来れば、そして、それが間違いを犯したときには、それは「必要な誤り」であると認めることができれば、「多数決」そして「民主主義」は、初めて意味を持つものとなるような気がします。


現在は、政治家が間違いを犯したことにしてしまいがちですが(そして実際にも、そうとしか言いようのないケースは多いわけですが)、「民衆が間違えること」が必要なのだと思うのです。

現状において、「民衆」には「正しい選択の権利」はおろか、「間違える権利」さえ与えられていないということです。


もともと、「民主主義」は成り立ってなどいなかったように思うのです。

それは、世界の中の”不均衡な力関係”に支えられていて、一見成り立っているかのような体を成してはいましたが、実体としては、「奴隷制」や「植民地政策」さらには「労働搾取」と言った、「民主主義」の理念とはどう見ても相反していると思われるようなものの上に成り立っていたのだと思うのです。


つまり、貧しい国から吸い上げた利益で潤った「先進国」では、「民主主義」や「多数決」に不備があっても、豊かさでカバーされていたということです。

そして、都合のよいことに、「豊かな国」からは「貧しい国」が見えず、「貧しい国」からは「豊かな国」が見えないようになっていたわけです。

ところが、それが、どちらからも見えるようになってきてしまったわけです。


そんな風にして、それらの”不均衡な力関係”が崩壊してきて「民主主義」自体も、そのメッキが剥がれてきたのだと思います。


実は、「民主主義」はこれから始まるのだと思っています。

そして、それは恐らく”ラクチン”なものではないように思うのです。

「自由」・「平等」と言うものは、そして「平和」でさえも、結構”ツライ”ものだと知るべき時が来ているのかも知れません。


それでも、それをやりますか?
それとも”野蛮”な時代に逆戻りしますか?

ということなのかなと。


そんな風に考えています。

 

 

 

人は「価値」ではなく「意味」に感動する

 この記事は私がメイン・ブログにしているトップページ - 「芸術の20世紀 喪失宣言」からの転載です。

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「有名な絵」と「無名な絵」だったら、どっちで感動する人が多いんでしょうねぇ。

いや、あくまで、「有名な絵」=「スバラシイ絵」かつ「無名な絵」=「スバラシクナイ絵」ということを抜きに考えた場合ですよ。
だいたい同じくらいにスバラシイ絵が、「たまたま有名だった時」と「たまたま無名だった時」という条件でですね。


実際は、たぶん「有名な絵」で感動する人が多いんじゃないかと思うわけですが、『それ、はたして本当に感動してるんですか?』とも思ってしまうわけなのです。


つまりです。

『なんだかんだ言っても、ただ単に「有名な絵」だから感動したと思い込んでるだけなんじゃないの?』
ということです。

もっと言えば、「有名な絵」を見るときに、『見る前から、きっと感動するに違いないと決めてかかってるんじゃないの?』
ということですねぇ。


そういうの、実際に多いと思いますよ。

というか、ほとんどの「感動」って、その手の「感動モドキ」なんじゃないでしょうか?
(すいません!、言い過ぎです!でも、たぶんホント)

まぁ、それも「一種の感動」なんだと思いますから、否定するつもりなんか全然ないですけど、でも、そういう「予定調和」を含まない「純粋な感動」と言うのもあるんじゃないかと思ったりもするわけです。


で、そういう「純粋な感動」について言うと、「無名な絵」の方が「純粋な感動」に出会える確率が高いんじゃないかなと思うわけなんですねぇ。


たとえば、『ゴッホ』ですけど(まぁ、他の貧乏絵描きの人でもいいんですけど)、『ゴッホ』が生きている間には、絵がチョットしか売れなかったというのは有名な話ですけど(1枚~数枚までの説があるらしい)、その時『ゴッホ』の絵を買った人たちって、どうしたんでしょうね?

大事にしてたんでしょうか?それともホッタラカシでしょうか?
捨てちゃった人なんかもいたんでしょうか?


まぁ、それはともかくとして、もしも、その『ゴッホ』の絵を買った人たちの中に、その絵を非常に気に入って大事にしていた人が居たとします。

その後、『ゴッホ』は大ブレイクして、その絵は一躍「無名な絵」から「有名な絵」に成るわけです。

確かに、「有名な絵」に成った『ゴッホの絵』は、その後、美術展などでたくさんの人を感動させることに成るわけです。
でも、それは、もしかしたら全部「感動モドキ」かも知れませんよね。


それに対して、「有名な絵」に成る前の「どこの誰だかわからないヤツが描いた絵」だった『ゴッホの絵』を買って、後生大事に持っていた人が、『この絵、なんだかいいんだよなぁ』と言って眺めている時の「感動」って、おそらく「感動モドキ」ではないだろうと思うわけです。


さらに言えば、もし仮に、その後も『ゴッホ』が売れることなく、その絵が「無名な絵」のままだったとしたら、そして、その人が、それでも、その絵を手放さずに後生大事に持ち続けていたとしたら、そして、物置や蔵の中に大切にしまっていて、時々出して眺めては、やっぱり、『この絵、なんだかいいんだよなぁ』と言っていたとしたなら、その時の「感動」こそが、本当の「予定調和」を一切含まない「純粋な感動」なんじゃないのかなと。

そんな風に思ってしまうわけです。


たとえば、その家にお客さんが来るたびに、その人が、自慢の「無名な絵」を見せていたとします。


客人が薄暗い物置部屋に入って行くと、主人がパチンッと照明をつけます。
(時代的にはランプか?)

そこに浮かび上がるのは、まったく無名で誰が描いたかわからないけど、間違いなく『ゴッホの絵』であるわけです。


客人の中には、『へっ!誰の絵かもわからないような絵じゃね』と思う人も居るでしょう。
でも、その絵の持ち主と同じように『なんだかわかんないけど、この絵イイよ!』と思う人も居るんじゃないですか?

いや、きっといるに違いないじゃないですか?
だって、そこにあるのは間違いなく『ゴッホの絵』なんですから。

そういうのを「感動」と言うんだと、私は思っているわけです。


つまり「想定外の美しさに出会った時の衝撃」ですね。


「有名な絵」はどうしても先に「想定」が入ってくるわけです。

なにせ「有名」ですから。

そこら辺に転がってないし。


要するに、『ゴッホの絵』が、たまたま「無名な絵」としてそこら辺に転がっていた時に、「そういうモノに出会った人が受ける衝撃」を「感動」と言うんじゃないかと思うわけです。


これを言い換えるならば、『人は「価値」ではなく「意味」に感動する』とも言うことが出来ると思います。


「有名な絵」には、ハズレなく「価値」があります。
でも、その分「意味」は薄くなってしまうわけです。
(「想定外の衝撃」が無い分ですね)


「無名な絵」にはあまり「価値」はありません。
少なくとも、「一般に通用する価値」はかなり低くなってしまいます。
でも、そこには「意味」があるかもしれません。

つまり、そこに「想定外の衝撃」があるかもしれないということです。

そして、本当の「純粋な感動」とは、そういう所にしかないモノだと思うわけです。
(まぁ、めったに無いってことですけどね)


だから、「有名な絵」ばかり見ていても、『それじゃ、本物の「純粋な感動」からは、どんどん遠ざかってるのかもよ?』と。


そんな風に言いたいわけなのです。

 

 

 

「意味」と「価値」

この記事は私がメイン・ブログにしているトップページ - 「芸術の20世紀 喪失宣言」からの転載です。

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「意味」と「価値」の二つを、日ごろ、同じように使っていることが多いような気がするわけです。


たとえば、『そういうのって、「意味」ないですよね』と言うのと、『そういうのって、何の「価値」もないですよね』と言うのが、ほとんど同じことに成ってしまっているわけです。


でも、実は「意味」と「価値」は、けっこう大事なところが違うような気もするんですね。
そして、その「意味」の方が「芸術」に深く関係していると、私は思っているわけなのです。

まぁ、「価値」の方は『そうでもない』ということですね。


要するに、「価値」には利益的な性格があるんだと思います。
それに対して、「意味」は非利益的という印象があるわけですね。

とは言っても、「意味」にも利益的な面がないわけではありませんから、「利益」と「非利益」の比率のチガイと言うことなんだと思います。

つまり、「価値」は利益重視で、「意味」は利益軽視な感があるということです。


たとえば、「食べ物」と「芸術」や「音楽」を比べた場合、「価値」は「食べ物」の方が高くなるでしょうが、「意味」においては対等だったり、「芸術」や「音楽」の方が上回っていたりするということに成るわけです。


人間は、「芸術」や「音楽」が与えられない場合でも、嫌いな「食べ物」ですら生きのびられますが、「食べ物」が与えられない場合は、好きな「芸術」や「音楽」でも生きのびられません。

嫌いな「芸術」や「音楽」では、命が縮まるかもしれません。
つまり、それだけ、「食べ物」は利益的で、「芸術」や「音楽」は非利益的だということですね。

「食べ物」の「価値」は絶対的ですが、「芸術」や「音楽」の「価値」はそれに比べれば大したことがないということです。


それなら、「芸術」や「音楽」なんてどうでもいいのか?と言うことに成りますが、そこで「意味」が出てくるわけです。


「価値」においては低くなりますが、「意味」においては高く成ることもあるだろうということですね。

生きるだけなら、「価値」だけで十分でしょうが、もしも、生きているだけで他にはなにもないということなら、そこに生きている「意味」がありません。

やはり、「食べて・寝て・死んでいくだけ」だったら、「意味」があるとは言えないでしょう。
そこで、「幸福」とか「喜び」とか言う人間にとって必要不可欠のものになりつつある心の状態が、求められるように成るわけです。

つまり、「意味」と言うのは、「価値」の中でとくに、人間の「心の豊かさ」や「知性」や「感性」などを満たしてくれるものと言うことなんだと思います。


それで、「芸術」との関係が深く成るんだと思います。


そんなわけですから、「芸術」においては「価値」よりも「意味」を創り出していきたいもんだなと。

そんな風に思うわけです。


「売れるモノ」には「価値」がありますが、「意味」においては「売れるモノ」の方が「売れないモノ」よりも高いとは限りませんし、「売れないモノ」の方に「意味」があることもあるわけです。


そういう「意味性」が強いモノを創り出せたらいいんじゃないかなと。

そんな風にも思うわけなのです。

 

 

【民主主義=多数決】 と言う公式は、もう考え直した方がいいのでは?

この記事は私がメイン・ブログにしているトップページ - 「芸術の20世紀 喪失宣言」からの転載です。

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現在までの民主主義の歴史においては、常に『多数決で決める』と言うことが大原則であったわけですけれど、これは、もう成り立っていないことが、はっきりして来ているんじゃないのかなと思うのです。


多数決と言っていますけど、実際に多数決をとることが全くできていないわけで、実態としては、今行われている政治がどれだけの人に支持されたものであるのかは、もう誰にもわからないものになってしまっていると思いますね。

それでも、そのシステムに頼り切っているために、「多数決」と「民意」はどんどん乖離していく一方なわけです。

だから、何か代替案を導き出さなければいけないと思うわけです。
それをすることが、いま政治にできる数少ないことではないでのでしょうか?

政治家や学者が寄り集まって、一生懸命考えれば、きっと?、何らかの策が浮かんでくるのではないかと思います。
正直言えば、それらの策にはほとんど期待が持てないわけですけれど、それを考えることや実行してみることで、現行の民主主義と言われているものが、如何に民意からかけ離れたものであるのかが、洗い出されて来れば、どこが問題なのかぐらいはわかってくるんじゃないでしょうか?

そして、そこからどう対処するのかが本題なわけです。

その具体策については、私などが考え付くようなものではないでしょうが、私がいま思いつくことは、「投票の義務」と「投票の匿名性」を両立させなければ【多数決=民主主義】も成り立たないということなのです。

「全員投票」を強制的に行おうとすれば、結果的に「匿名性」が失われてしまうでしょうから、「政治的な意思の表明」を個人に対して強要することに成ってしまいます。

 ※強制であるということは、投票が実行されたことが確認できなければ意味がない
  ので全員が投票したことが確認できるようなシステムが必要に成るでしょう。
  おそらく、そこから「匿名性」が崩れていってしまうように思います。

でも、「多数決」は基本的に全員が投票することを前提に成り立っている制度なわけですから、全ての人が投票しなければ、「多数決」でも、なんでもないわけで、そこを何とかしなければ、「民主主義」とは名ばかりで実体は無いも同然なわけですね。

そう考えた場合、「民主主義」は立ち上げられたまま、まだ実行に移されていなかったとも言えるのではないでしょうか?


そこで、思い当たるのは「裁判員制度」や「陪審員制度」のようなものです。
もしかすると、人数を限定して、形だけに成っている「全員投票」を捨てれば、「投票の義務」と「投票の匿名性」を両立できるのではないのかなと。

 ※こちらも「匿名性」については、完全には確保できないかも知れませんが、
  少なくとも「投票の義務」については、ほぼ確保されるでしょうし、確実に 
  限られた人数の中での「全員投票」だけは確保できます。

とまぁ、そんなことも考えるわけですが、もしかすると、今の状態が、国を動かしている人たちにとって、結構都合がいいのかもしれませんよね。

だとしたら、『変わるわけないじゃん』ですよね。

そして、これが一番濃厚な説なのかも知れません。

 

 

 

「才能に頼らない」と言う選択

 この記事は私がメイン・ブログにしているトップページ - 「芸術の20世紀 喪失宣言」からの転載です。

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これは「芸術」に限らない話ですけど、現在、どんな分野でも、「才能」と言う言葉がかなり絶対的なものに成っていて、何をするにも、「才能」を見つけ出したり、「才能」を伸ばしたり、「才能」を磨いたりと、ありとあらゆる形で、「才能」を引き出そうとするわけです。

でも、そういうの、もうやめたほうがいいんじゃないかと思うわけですね。


私の場合、「才能」と言う言葉自体、無くしてしまってもいいんじゃないかと思っているくらいなんですけど(「個性」と言う言葉も同じですね)、少なくとも、「才能に頼らない」と言う「選択肢」があってもいいんじゃないかなと思ってしまうわけなのです。


これは、このブログで何度も書いていることなんですけど、要するに、「才能」と言うと、「才能がある者」と「才能lがない者」と言う捉え方をする人が非常に多いんですね。

そういう考え方が、いろいろなものを『殺している』と思いますね。


言ってみれば、ナニカが「できないこと」も「一つの才能」なわけで、『「才能がない人」なんて居るわけない!』と思うんですがどうなんでしょう?

それを、ただ単に「社会にとって有用であるかどうか」ということで、「才能がある」と「才能がない」に分けているだけだと思いますね。


だったら、最初から「才能」なんて言う言葉じゃなくて、「社会にとって有用」とか、「誰かにとって有用」とかと言ったほうがいいんじゃないかと思いますね。
それを「才能」と言ってしまうから、「才能がある人」がエラクて、「才能がない人」はパッとしない、という感じに成ってしまうわけです。

要するに、「才能」という言葉が、「才能」をつぶしているということですね。


だから、現在、「芸術」に関わる人間は、「才能を持っている人」も「才能を持っていない人」も(「有用」っていう意味での「才能」ですね)、「才能に頼らない」と言う「選択肢」を持つべきではないのかなと。


所詮、「才能で描かれた絵」なんて、もう出尽くしてしまっているわけですね。
もう、トックノトウにスッカラカンに成ってます。

「コンセプト」や「ヒネリ」や「アイデア」なんかも全部ヒックルメテですね。
そこまで含めても、もう、とっくに「打ち止め」に成ってますよね。


だから、『今だけ売れたい!』って言うんなら、それでもいいのかも知れないですけど、ナニカ『これっ!』というものを残したいなぁと思うなら、「才能がある人」も「才能がない人」も(これも「有用」と言う意味の「才能」です)、「才能に頼らない創作」を心掛けてみるという「選択肢」が必要なんじゃないかと思うわけです。


いま、「才能に頼らないで創られたモノ」こそが、本当の「その人の作品」なんだと思いますね。
「才能で創られたモノ」は、「社会にとって有用な作品」ということです。

それが悪いということは無いですが、私はそれを「芸術の中心」から遠い位置にピン止めするということです。


そういう「才能に頼らない姿勢」で創作することで、自分の中の「自分性」や「自分力」と言うものが見えて来るんじゃないかと思っています。

要するに、「技術」や「センス」みたいな、ひとから「才能」と言われやすいモノを取り除いたときに、自分の中にどれだけのモノが残るのか?ということですね。


そして、どうせ「磨いたり、伸ばしたり」するんなら、そういうところを「磨いたり、伸ばしたり」したほうがいいんじゃないのかなと。


そんな風に思うわけですね。

 

 

「差」はない、「違い」はある

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いろいろなものごとにおいて全般的に言えることですけど、「差」はないけど「違い」はあると私は思っているわけです。


つまり、全てのモノゴトは、どんなことであっても「上・下」の「差」はなく、「横並び」の「違い」はあるということです。


そして、もう一つ、『「差」は自分の中にだけあって「違い」は自分の外にもある』ということもあると思います。


これは、自分がやったことの中には、『これはいいなぁ』と『これはダメだなぁ』ということがあるけど、自分以外のことで、そういう「上・下の差」をつけてもあまり意味がないということです。

それは、ただの「好み」ですからね。
やっぱり、「好み」は「上・下」というよりも「横並び」のチガイなんじゃないかと思います。

お互いの「好み」を

『こっちが上だ!』

「いや、こっちはもっと上だ!!」

と言い合ってしまったら、ほとんどの話ができなく成ってしまいますからね。


それを「横並びの違い」ということにすれば、「上・下の差」がなくなりますから、お互い理解し易くなって話が出来そうな気がしてくるわけです。


そして、尚且つ「違い」については、ただ単に『ある』というだけでなく、『ほぼ必ずあるモノだ』ということにしてしまえば、そういう「相互理解」の幅が広くなるだろうと思うわけです。


人と交流する場合に、どうしても「共通点」を見つけ出そうとしてしまうわけですけど、実際には、そういう「共通点」がある人と話が合うとも限りませんし、「共通点」が無い人とは話が合わないというわけでもありません。


多くの人が、「共通点」を通して人と交流しようとしていますし、実際にそうしていることも多いでしょうが、そういうのは、世間一般に刷り込まれている情報を受け入れている「度合」が一致している人同士が、その「植え付けられた共通概念」を「自分たちの共感」と誤解して、ごく表面的な付き合いをしているだけだと思いますね。

そして、それを「友達」だとか「親友」だとか、場合によっては「夫婦」のような「深い関係」に置き換えてしまっているんだと思います。


実際、「友達」だからと言って、その人が考えていることをどの辺まで理解しているのか?ということに成ると、『よく考えたら、その人の内面は全然わかっていなかったのかも?』っていうことはよくあると思うわけですね。

それは「夫婦」だって同じだと思います。


「夫婦」でも「友達」でも「共通点」の部分は良く知っているでしょうし、それなりに理解しあっているかもしれませんが、ここで言っている「違い」についてとなると、『サッパリわかりません』と言うことが多く成ってしまうわけです。
(というか、わかろうという気がない)


そして、実際には、その「共通点」というのは「誰かから刷り込まれた情報」だったりするわけで、本当なら、人の考えが合致することなどあり得ないことだと思います。


その「違い」を「横並びの違い」と考えれば受け入れられますが、「上・下の差」と考えれば、「見下すか・ヘツラウか」という二者択一しかないわけで(あくまで、厳密に言えばということですけど)、、そうなると、もう「友達」という関係とも言い切れなく成ってしまうわけですし、「夫婦」の中は「ビミョーな冷戦状態」に突入していくわけです。

だから、そういう「一触即発」を避けるために「刷り込まれた共通概念」を「自分たちの共感」であるということにして、なんとなく「友達」や「夫婦」を演じ続けていくわけです。

でも、「違い」は必ずあるモノであって、そこに「上・下の差」はないんだということにしてしまえば、その辺のところが、とてもフレンドリーになるんじゃないのかなと。


やっぱり、人間というのは一人で生きるのが難しく出来ているように思いますから、「人と人の違い」を「上・下の差」としてではなく「横並びの違い」として受け入れていった方が、少しイイんじゃないのかなと。


そして、「自分の中の違い」については、ちょっとガンバッテ厳しく「上・下の差」を見ていけば、もう少しイイのかなと。

ワタクシは、そういう風に思いますです。

 

 

「才能」とは「世間的な評価」のこと

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私は、いま言われているところの「才能」とか「個性」という言葉が、非常に無意味なものに思えるわけなのです。


だから、『この二つの言葉はもうやめてしまってもいいんじゃないか?』と思っているくらいなんですね。


とにかく「才能」とか「個性」と言うときに、それが「ある人」と「ない人」に分けられてしまうんですねぇ。

これは現在「才能」や「個性」という言葉に与えられている設定を無視していて、その為に、この二つの言葉の中に自己矛盾が発生してしまっているわけです。


その設定と言うのはどういうことかと言うと、現在言われているところの「才能」とは、「全方向への才能」を意味しているという設定であり、「個性」などはもともと「全方向的な性質」を持った言葉なわけですが、その「全方向性」がさらに強調されているのが、現時点的な「個性」の設定であるといって差し支えないと思います。

だから「ある人」と「ない人」が居るハズがないわけです。


それを「ある人」と「ない人」に分けてしまいますから、当然、これらの言葉から「全方向的な性質」は失われて、「特定方向的な性質」を持つようになってしまうわけです。

しかも、実際には「特定方向的なモノ」に成ってしまっているのに、建前上は『全方向的なんですよ』と言う形をとってしまっていますから、矛盾が出てきてしまうわけですね。


『皆さんの才能が輝いていますよ』と言っている割には、「特定方向に沿っていないモノ」には見向きもしないという感じですね。


そして、その「特定方向」っていうのは、つまるところ、「世間的な評価」に過ぎないわけです。


昔は、「技術」とか「見識」とかと言った、ワカリヤスイ「特定方向」が「公認の方向」として設定されていましたから、『技術が高い人は才能がある』とか、『豊かな見識を独自に表現できる人は個性的』と言うように、ある程度「目指すべき方向」が決まっていたようなところがあったんでしょうが、その「ワカリヤスイ目標」を外されてしまったので、何を「才能」とか「個性」と言っていいのかわからなくなってしまったんでしょうねぇ。


ワカラナイので、「誰かがイイと言ったモノ」が「才能」であり「個性」であるということに成ってしまったんだと思います。

ところが、その「誰かがイイと言ったモノ」を「イイと言った人」も、、実は「誰かがイイと言ったモノ」を『イイ!』と言っただけだったりするわけですから、そこでの「才能」や「個性」という言葉には、もう、まったくと言っていいほど「実体」も「意味」も無く成ってしまっているわけです。


実際、現在「才能」と言う場合に、まったく「世間的に評価されていないモノ」を「才能」とは言いません。
というか、言っても「ジョーク」や「コント」になってしまいます。


これは実例を示せばわかりやすいと思います。


『うちの子はとっても絵がウマイんですよ』

「なるほど、お宅のお子さんには絵の才能があるんですね」

この場合「絵がウマイ」が「世間的な評価」です。
だから、この会話が「才能の話」として成り立っています。


ところが、

『うちの子は鼻くそホジルのがウマイんですよぉ』

「ほほう、それはすごい才能だ!!」

この場合、「鼻くそ」がネックになっています。
それで「ウマイ」が「世間的評価」につながりません。

だから、「才能の話」ではなく、「才能のコント」に成ってしまうわけです。

   注:「鼻くそ」を、他の「〇〇くそ」に置き換えても、大丈夫です。

   例:「目くそ」・「耳クソ」 など

   質問:『「〇〇ゲロ」も使えますか?』

   答え:『それは下品です。却下します!』

こういうのは極端な例ですが、『あの人は才能がある』と言われて、大方の人が納得できるような人というのは、「世間的に評価されている人」に間違いありません。

これを、「才能」があるから『世間的に評価されるんだ』と言えばもっともらしく聞こえますが、もしそうなら、「鼻くそ堀り」もウマければ一種の「才能」ですから、『世間的に評価されるハズ』です。

実は逆で、「世間が評価したモノ」を、盲目的に「才能」と言っているだけだったりするわけです。


『そんなこと言ったって「才能がある人」も「個性的な人」も居るだろ!?』という固定観念が邪魔してるんですね。


実際は「才能」も「個性」も、人によって「質」が違うだけで、持ってる「量」はあまり変わらないと思いますね。

それが事実だと思います。


それでも、まだ「才能」や「個性」を、「あるモノ・ないモノ」と考えたい方は考えればいいと思いますけど、

私は無理ですね。
どう考えてもオカシイんで。


こんなこと言うと『ナニを言うか、このインチキ野郎が!』と言われそうですけど、

『いや、そこは「この鼻くそ野郎が!」でお願いします!!』

そんな風に思っているわけです。

 

『本物はあとに成ってから評価される』と言うのは今も成り立っているのか?

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前の記事と似たような話です。

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『本物っていうのはだねぇ、何十年も経ってから評価されるモノなんだよ、キミィ』
これ、今でも言えることなんでしょうか?


「今でも」と言うか、これが通要したのは、意外と短い期間だけなんじゃないかと思うわけです。


まず、200年以上前の時代だと、何十年も経った後で評価された人なんてあんまり居なかったような気がします。

昔は「芸術」も職人仕事の一つと考えられていたところがあったわけで、「いい仕事」をする人は最初から評価されていたでしょうし、「いい仕事」をしない人は、いつまでたっても評価されなかったわけです。
(今だって「職人さん」が何十年もたってから評価されることなんか無いですよね)

つまり、今みたいに「十年後を見越した作品」なんて求められていなかったということでしょうね。

 ※一人一人の作家の評価が上がったり下がったりするということはどの時代にも

  あったでしょうが、「全く見向きもされない作家」がいきなり「ブレイクす

  る」と言うような意味での「あとに成ってから評価される」は無かったんじゃ

  ないでしょうか? 

 

それに、昔は十年や二十年たっても「評価の規準」が変わることなんて無かったわけですから、「十年後」くらいではほとんどのことが変わらなかったんだと思います。

だから、「十年後」を見越してもあまり意味がなかったということかもしれませんね。
でも、百年たったら忘れられちゃいますからね。

そういうことで『本物はあとに成ってから評価される』は通用していなかったと思いますね。


これが通じたのって、実はけっこう短い期間で、19世紀中ごろあたりから20世紀の中頃まで、つまり、「印象派」の前あたりから「ポップ・アート」の前後ぐらいまでじゃないかと思います。

その時代、「芸術」に「あたらしさ」が求められていたんでしょうね。
それで、「十年先の作品」を作った人が「十年後」に成ってから評価されるように成って、その後、それが伝説化して今に残っているわけです。


でも、これ、「いま」でも通用するんでしょうか?

私は、これ、「いま」ではもう通じなくなっているような気がするんですねぇ。


20世紀の中ごろまではこのことが通じていたんだと思います。
しかし、今はもう「あたらしさ」が出尽くしてしまったわけです。

いま「あたらしい」と言われるモノとはどんなモノなのかと言えば、

「あたらしいスタイル」や

「あたらしい素材」や

「あたらしいメディア」や

「あたらしいテクノロジー」を使ったモノであって、

それらはどれも「本質的にあたらしいモノ」ではないわけです。


それに、「素材」にしても「メディア」にしても「テクノロジー」にしても、「芸術以外の場」で開発されるモノであって、「創作者」自身が生みだしているわけではありませんから、「十年後の素材」や「十年後のメディア」や「十年後のテクノロジー」を使うことは出来ないわけです。

つまり、「十年先」を見越すことは出来ないということですね。


従って、現在唯一「あたらしさ」と言えるのは「スタイル」だけだと思いますが、その「スタイル」とて、「芸術の本質」とはチョットずれたところにあるモノなわけで、本当の意味での「あたらしさ」とは言い切れない所もあるわけです。


でも、実を言うと、これは『本物はあとに成ってから評価される』ということが通用していた期間の中でも同じで、本当のことを言えば、「あたらしさ」は「芸術」にとってそれほど重要な要素でもないんだと思うわけです。

ただ単に、その時期、人々が「あたらしさ」を「芸術の本質」であると勘違いしていたというだけで、その幻想によって『本物はあとに成ってから評価される』ということが成り立っていたんだと思うわけです。
(本当に本質的なモノであれば、「いま」でも「十年後」でも同じように評価されるはずです)

その後、あまりにも「無理矢理なあたらしさ」がたくさん創り出されたことで、『もういいだろ』ということに成ったんでしょうね。
だから、現在は、もうみんな「あたらしさ」に見飽きてしまっているんだと思います。


ところが、「新しくなくてはいけない」と言う呪文に縛られてしまっていますから、そこから抜けられなくなっているわけです。


『本来は「あたらしさ」よりも「芸術の本質」に近い所にあるモノとはナニなのか?』ということを考え直す時が来ているような気がするんですが、「新しさ」と「流行」がいつの間にか入れ替わってしまっていることを見ようとする人がほとんどいませんから(そこに向き合ってしまうと「芸術の場」に居づらくなるというシステムになっていますから)、けっきょく「流行を追うこと」に終始する羽目に成るわけです。

つまり、『十年先を行っている』ということも『十年先の流行を追っている』にすぎないわけですね。


まぁ、取り敢えず、『本物はあとに成ってから評価される』と言う伝説はもう「迷信」に成っているということですね。

ただ一つ言えることは『今、評価されているモノは本物の芸術ではない』ということだけですね。
目的が違ってしまっているわけですから、当然といえば当然です。


いま評価されているモノは「流行」ですね。

まぁ、そう言って間違いないんじゃないですか?

そこを目指しているわけですから。


そんな風に思いますね。

 

「圧倒的な絵」って、まだあるんでしょうか?

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「絵」の話において、『必ずしもイイ絵が評価されるとも限らないんだよねぇ』という話になった時には、『いやいや、「圧倒的な絵」の場合には必ず評価されるんだよ!キミィ』と言う言葉が返って来ることに成っているわけです。


でも、本当に、今でもまだ「圧倒的な絵」ってあるんでしょうか?


そもそも、昔は方向性が一つだったたわけで、その方向性に基づいてすべての判断が下されていたわけですから、「圧倒的な絵」は存在できたわけですが、現在はその方向性自体が多様化していて、すべての人の判断基準が、ぜんぜん違うといってもいいほどに成っているわけです。


そんな中で、「圧倒的な絵」は存在できるでしょうか?

「ある人にとっての圧倒的な絵」が、違う人にとっては「カス」のように見えるかもしれない状態で、はたして「圧倒的な絵」は存在できるものなんでしょうか?


まぁ、無理ですよね。


現在は「圧倒的な絵」が評価されるかどうかと言う以前に、「圧倒的な絵」は存在することすら出来ないんだと思うわけです。


それなのに、昔の時代の印象が残ってしまっていて、『きっと「圧倒的」であれば評価されるに違いないんだ!!』と思ってしまうわけです。


このことによって、『自分が評価されないのは「圧倒的」じゃないからなんだろう』と言うように自分を卑下してしまう人や、『あの人が評価されたのはきっと「圧倒的」だったからだろう』と言うように、権威に媚びへつらってしまう人や、『あの人は評価されていないんだから「圧倒的」じゃなくて、大したことないんだろう』と言うように、人を見下して安心するというような人たち、つまりは、「芸術の中心から離れてしまう人たち」が大量生産されてしまっているわけです。


この状態を続けていれば、「芸術」とは「最も腐り果てた分野」であるということに成りかねないと思うわけです。

「本来の芸術」が「もっとも純粋な分野」であるとするならば、その「中心」からドンドン遠ざかって行けば、最終的に行き着く先は、最も純粋性のない「腐り果てた分野」ということに成ってしまうに違いないわけですね。


そういうことに成れば、「芸術」に興味のない人にまで悪影響を及ぼすようになるでしょうし、最後には、世の中全体が「純粋さ」を完全に失って、腐り果てて行くことに成るでしょう。

「言い過ぎ」でしょうか?


現在の世の中を見て『それは言い過ぎだよ!』と言えるでしょうか?
『いつの世もそんなもんなんだよ』といつまで言い続けられるでしょう?
(まぁ、そういう人は「ナチスの時代」にも、そう言ってるんでしょうね。ええ、自分がユダヤ人でなければ)


「20世紀」を起点にした「現在」という時代が、人類の歴史の中でも「やや特殊な時代」であることは、かなりはっきりしてきていると思います。
(『じゃなきゃ有り得ないでしょ』と言う出来事が世界的に頻繁に起きていませんか?)

その「20世紀」から「現在」に至る過程において、「芸術の20世紀」の持っている意味は、さらに特殊です。


全てのことを「破壊」し「逆転」したのが「芸術の20世紀」です。
そして、それなのに「偶像」や「権威」と言った「本当に破壊すべきだったモノ」だけは、破壊されませんでした。


その「偶像」や「権威」」を象徴するものが「天才」だったと思いますが、その「天才」と同じように、人々の中の「絶対性に対する願望」が生み出してしまっているのが、この「圧倒的な絵という幻覚」なわけですねぇ。 


だから、『「圧倒的な絵」なんて、もうどこにもないんだよ』と言う必要があると思うわけです。


『あの大先生の絵と、あの隣のオッサンがやたらと一所懸命になって描いた絵とは同じくらいのモノだね』
と無理なく言えるように成れば、少しだけ、いいんじゃないのかなと。
(はい、私のことです。もちろん「大先生」じゃなくて「隣のオッサン」ですけど)


そんな風に思うわけなのです。

 

いま『芸術がわかる』とはどういうことなのか?

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いわゆる「芸術好き」の人が、「ごく一般的な人」に対して『あなた、まったく芸術がワカッテないよね!』と言っているのはよくあることだと思いますが、それじゃあ、いったい『いま、芸術がわかっている』とはどういうことなんでしょうか?


たとえば、「美術史的な知識」が豊富であることなんでしょうか?
それとも、『現在形の芸術に通じている』ということなんでしょうか?
または、『非常に鋭敏な感性を持っていて、常に芸術の良し悪しを見分けることが出来る』ということなんでしょうか?
これらは、どれも違うという気もしますし、どれも当たっているという気もします。

でも、個人的な意見で言わしてもらいますと、『いま、芸術がわかる』というのは、そう言うことではなくて、「いま芸術の置かれている位置」をワカッテイルということなんじゃないかと思っているわけです。

つまり、「現在」という時代において「芸術」がどういう意味を持っているのか?
「時代」や「社会」、そして「人間」にとって「現在形の芸術」がどういった位置を占めているのか?ということを理解している人こそが「いま、芸術がわかっている人」なんだと思うわけです。

こんな言い方をしてしまうと、『へぇ~、難しいんだねぇ』とか『それで自分はそれがわかっていると言いたいのね、ハイハイ』などと言われそうですが、そうとも限らなくて、むしろ「知識」や「教養」や「感性」などは必要ないわけですから、「誰でもできること」でもあるわけです。

それから、これは「芸術」以外のことでも、だいたい同じことが言えると思います。

たとえば、「いま、科学がわかっていること」というのは、「いま科学が置かれている位置」をわかっていることだと思いますし、「いま、宗教がわかっていること」とは「いま宗教が置かれている位置」をわかっていることなんだと思うわけですね。

だから、「いま、科学がわかっていること」に「科学の勉強」が必要とは限らないと思いますし、「いま、宗教がわかっていること」に「信仰」が必要であるとも思いません。

例えばの話、いまでも「科学万能」を信じている人は、『いま、科学がわかっている』とは言えないということですね。
もし、その人が「科学者」であったとしてもです。
(よく居るような気もしますけど)
また、今でも、日照りの時に「雨ごいの踊り」や「生贄の儀式」をやってる人は、『いま、宗教がわかっている』とは言えないということに成ります。
(めったに居ないでしょうけど)

それらと同じで、「いま、芸術がわかっていること」と言うのは、「芸術に関する知識」とも「芸術的な感性」とも関係なく、ただ単に「いま芸術が置かれている位置」をわかっていることなんじゃないかと思っているわけです。


で、その「いま芸術が置かれている位置」ってどこなんだ?ということです。

「現在形の芸術」においては「作者の自己表現であること」が最も中心にあると思うわけですが、その「作者の自己表現」が「時代」や「社会」や「人間」にとってどういう意味を持っているのか?ということです。

昔は「技術」と「芸術」は、ほぼ同じような位置にあるモノだったと思いますが、現在は「技術」は「芸術」の中心的な部分ではなくなっているわけです。
つまり、現在「芸術」において「技術」を中心に置いた考え方をしているということは、いまだに「雨ごいの踊り」を踊っているようなもので、「やや時代遅れ」と言わざるを得ないわけです。

しかし、その逆に「反技術」が「いま芸術の置かれている位置」に近いか?と言うとそうでもなくて、半世紀ほど前まではそうだったのかも知れませんが「反技術」や「反芸術」的な考え方も「いま芸術が置かれている位置」とは言えなく成っているわけです。
だから、いま、意識的に「技術」を捨てようとしたり「芸術っぽくないモノ」を見せようとしたりするのは、やっぱり「雨ごいの踊り」になってしまうわけです。

それじゃあ、どういうのが「いま芸術が置かれている位置」なのか?と言えば、私は「努力」を挙げますね。
つまり、「世の中で最も努力を明確に示すもの」というのが「現在の芸術の位置」だと思うわけです。

「芸術」と言うと、なにかにつけて「才能」や「個性」ということだけが言われてしまいますが、実は「才能」や「個性」で出来ることはかなり限られていて、「現在の芸術の位置」はその範囲を超えたところにあると思うわけです。
ということは、いまだに「才能」や「個性」に依存しているということも、また「雨ごいの踊り」に成ってしまうわけで、あと残っているのは「努力」以外にないということです。

「いま、芸術の置かれている位置」は「努力を示すモノ」という位置であり、「もっとも純粋に労力を費やすもの」という位置だと思います。


いま、そう言うことが出来るのは「芸術」しかないでしょう?
「才能」や「個性」はほかのことでもイヤというほど示されているわけですが、今、「無目的の努力」を示すことが出来るのは、おそらく「芸術」しかありませんね。

それから、これは「創作者」にだけ言えることではなく「鑑賞者」や「批評者」にも言えることで、「鑑賞者」は「単なる美しいモノ」ではなく、作品の中にある「努力や労力」を」鑑賞することを要求されるようになっていくでしょうし、「単なる好み」で鑑賞することにも意味が無くなっていくでしょう。
「批評者」も作品の「個性」や「センス」などではなく、「作品の中に示されている努力や労力」を抽出してそれを分析し批評を加えるようになっていくと思います。

そして、「創作者」・「鑑賞者」・「批評者」の三者がそれぞれの立場において、「努力」して「労力」を費やすことが「芸術の目的」に成って行くんだと思っているわけです。

つまり、「個性」や「才能」もまた、「技術」と同じように「芸術の中心課題」ではなく「単なる手段」に成るということです。

こんなことを言っても、誰一人聞き入れてくれる人はいないでしょうが、それじゃあ、お聞きしたいのですが、『あなたは、今、無条件に気持ちよく「努力する機会」を持っていますか?』と。
『利益と無関係に気持ちよく「労力を費やす人」を最後に見たのはいつですか?』と。
『「芸術」以外で、そんなものに出会えると思いますか?』と。


そんな風にお聞きしたいわけなのです。
(まぁ、「芸術」でも、あまりお会い出来ませんけど。『いや、まだこれからなのさぁ~』)

 

 

「芸術」においては「好み」で鑑賞する時代は終わっていくと思います

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「芸術」を鑑賞する時、ほとんどの人が「好きなモノ」を見に行くでしょうし、「嫌いなモノ」は見に行かないでしょう。
つまり、「好み」で鑑賞しているわけですね。


でも、「芸術」を「好み」で鑑賞する時代は終わっていくんじゃないかと思うんですねぇ。


こんな風に言うと、『好きなものを見て何がワルイんだ?』と言われるでしょうが、別に『ワルイ』ということじゃありません。
ただ、そう成って行くだろうということです。

『好きなモノを見る』=これは当然。
『嫌いなモノは見ない』=これも当然。

なんですが、問題は『当然なモノだけだと、ややツマラナクないですか?』ということなんです。


これは「芸術」のことだと話が通じにくくなりますが、他のことだと、わりと当たり前のこととして通じることなんじゃないかと思います。


たとえば、「食べ物」のことで言うと、少なくとも「食」を文化として考えた場合は、「好み」だけですべてを決めてしまうことは、「ややツマラナイこと」なんじゃないのかなと思ってしまうわけです。


それじゃ、「カップ・ラーメン」が好きな人は、「懐石料理」や「フランス料理」を理解することも出来ないでしょうし、どこか知らない国の「ジャンク・フード」のことですら、その国の食文化としてのその「ジャンク・フード」の意味をを理解することは出来ないでしょう。

『なにがワルイんだ!そんなに気取ったものを喰わなきゃいけないのか?』

いや、だから、ワルイということじゃありません。
でも、『ツマラナクないですか?』ということですよね。


少なくとも「食べること」を一つの文化として考えた場合、「好きなモノ」だけ食べ続けるというのは、「ややツマラナイこと」じゃないかなと思うわけですね。


海外旅行に行っても、その国の料理を食べないという人が居ますけど、そういうのって、旅行に使った費用の何分の一かを捨てているようなものだと思いませんか?
(ツアーであてがわれた観光客向けの「その国の料理」も「ツマラナイモノ」だとは思いますが)


これは「芸術」でも同じで、やはり、「好み」だけで「芸術」を判断してしまうことと言うのは、「ツマラナイこと」なんじゃないかと思いますし、それは、芸術鑑賞に使った費用や時間を無駄にしてしまうことだと思うわけです。

と言うか、「芸術」の場合は、そこのところが「食べ物」なんかよりもずっと大きくて、「芸術」を「好み」だけで判断してしまうことは、「非常にツマラナイこと」なんじゃないか?

いや、それどころか、『それじゃあ「芸術」を鑑賞したということに成らないんじゃないのか?』とすら思うわけです。


もちろん、「嫌いなモノ」を無理して食べろとか、無理してでも見て勉強しろということじゃないですよ。
そうじゃなくて、「食べ物」を「料理」として考えるのか、それとも「餌」として考えるのかということです。

「芸術」で言えば、「単なる絵」として見るのか「自己表現としての芸術」として見るのかということですね。


「現在の芸術」が「自己表現」として成り立っているものだとすれば、「芸術」を鑑賞するということは、すなわち、「作者そのもの」を見せつけられるということです。

その「作者そのもの」が「鑑賞者にとっての心地よいもの」であることは、むしろ稀だと思います。


基本的に「他者」と言うのは「他者」であればあるほど強い違和感を与えるわけで、それが、「ただ単に好きなモノ」であることは、ほとんど無いといっていいんじゃないでしょうか?

つまり、「好み」だけで判断していれば、「自己表現としての芸術」に出会うことは出来ないということです。


しつこいようですが、ワルイということじゃありません。
どういう見方をしてもいいと思います。

ただ、それが「ツマラナイ見方」に成っているとしたら、また、それを「ツマラナイ見方」だと思う人が居るとすれば、それにも、それなりの意味があるだろうということです。


べつに、「カップ・ラーメン好きの人」を低く見るつもりもありませんし、「懐石料理」や「フランス料理」がエライとも思いませんが、「好み」だけで物事を判断することは意外と「了見の狭いこと」だということを言いたいわけです。


『「あなたの好きなモノ」を見ればいいんですよ』と言えば、自由な考え方に聞こえるかもしれませんが、それは「偏見」と紙一重の「了見の狭さ」を含んでいるということですね。

そして、当然、そうした「好み」だけで選ばれた「居心地のいい芸術」と言うのは、「現在の芸術」としての意味が薄いわけですから、
結果的に「そういう芸術の在り方」は終わって行くんだろうなと思うわけですね。
(「現代の芸術」としての意味が薄いモノの方が、現在、評価されているという矛盾がありますけど)


「芸術作品」を鑑賞する時に、そこに「とてつもないチカラ」が注ぎ込まれた作品と、ただ単にサラっと作られた作品を比べて、『こっちの方が好き!』っていう見方をすることに、大した意味があるとは思えませんし、そういう鑑賞の仕方も終わって行くんだろうなと。

だって、それじゃあ「芸術である意味」がありませんから。

テレビや雑誌を見ていればいいわけです。
(まぁ、それらも広い意味では芸術でしょうが)


要するに、これからは「その作品に注ぎ込まれた力」を鑑賞するように成っていくと思うんですね。
つまり、「その力」の「量と質」を鑑賞するようになると思うわけです。

それは、むしろ、当然の成り行きなんじゃないでしょうかと。


そんな風に思っているわけです。