現在の「多数決」は「伝言ゲーム」のように成っていると思うのです
この記事は私がメイン・ブログにしているトップページ - 「芸術の20世紀 喪失宣言」からの転載です。
前の記事で、「現在の多数決は機能していない」と書いたのですけれど、どう機能していないと思うのかについて書いてみたいと思います。
まず、「代議員制度」です。
これが、現在の国家規模での「多数決」のほとんどの部分を占めていると言ってもいいと思います。
しかし、この「代議員制度」には、かなり無理があると言わざるを得ません。
「民衆(国民)」は、自らの意思を反映させるために、選挙に投票します。
つまり、その「民衆の意思」は”票”と言う「伝言」となって伝えられるわけです。
その結果選ばれた代議員が、その”票”から受け取った「伝言」を議会に伝えます。
その議会でも、また「多数決」で議決が下され、そこで決定されたことが、さらに~、さらに~と延々と、受け継がれていった「伝言」が、人から人へと伝えられて行ったその最後の所にやっと「国家行政」が出て来るわけです。
これは、もう「伝言ゲーム」に成ってしまっているわけです。
もともと、「伝言ゲーム」が面白いのは、はじめの話が、思いもよらないほど”バカげた”ところに行き着いてしまうからなわけですが、それと同じようなことが「社会」や「政治」の場で行われているということに成るわけです。
そこでは、とても”一票の価値”などあったものではありません。
もともと、現在の巨大化した「社会」において”一票の価値”はあまりに希薄です。
そのあまりに希薄な価値ですら反映されないわけです。
だいたい、現状では”一票の価値”を実感できる機会は全くありません。
このような状態の中で、いくら『真面目に考えて投票しましょう』と言っても、それが意味のあるものに成ることは無いでしょう。
つまり、「多数決」と言っていますが、実際にやっているのは、「誰のものでもない意思」を作り出す「伝言ゲーム」に他ならないわけです。
そして、それを「民主主義」と言っているわけです。
いったいどこに「民衆」が居るのですか?
どこの所に「民衆」が参加しているといえるのでしょうか?
「世論」と言っているものだって、結局「与えられた教育」や「与えられた報道」と言ったマスメディアによって作られた半ば”お仕着せ”のもののように見えますし、そこには、本当の意味での「個人」が見えてこないわけです。
と、まぁ、こういう感じで「多数決」は機能していないんじゃないのかなと。
そんな風に思ってしまうわけですが、「個人の判断」に身を委ねる勇気を持つことが出来れば、そして、それが間違いを犯したときには、それは「必要な誤り」であると認めることができれば、「多数決」そして「民主主義」は、初めて意味を持つものとなるような気がします。
現在は、政治家が間違いを犯したことにしてしまいがちですが(そして実際にも、そうとしか言いようのないケースは多いわけですが)、「民衆が間違えること」が必要なのだと思うのです。
現状において、「民衆」には「正しい選択の権利」はおろか、「間違える権利」さえ与えられていないということです。
もともと、「民主主義」は成り立ってなどいなかったように思うのです。
それは、世界の中の”不均衡な力関係”に支えられていて、一見成り立っているかのような体を成してはいましたが、実体としては、「奴隷制」や「植民地政策」さらには「労働搾取」と言った、「民主主義」の理念とはどう見ても相反していると思われるようなものの上に成り立っていたのだと思うのです。
つまり、貧しい国から吸い上げた利益で潤った「先進国」では、「民主主義」や「多数決」に不備があっても、豊かさでカバーされていたということです。
そして、都合のよいことに、「豊かな国」からは「貧しい国」が見えず、「貧しい国」からは「豊かな国」が見えないようになっていたわけです。
ところが、それが、どちらからも見えるようになってきてしまったわけです。
そんな風にして、それらの”不均衡な力関係”が崩壊してきて「民主主義」自体も、そのメッキが剥がれてきたのだと思います。
実は、「民主主義」はこれから始まるのだと思っています。
そして、それは恐らく”ラクチン”なものではないように思うのです。
「自由」・「平等」と言うものは、そして「平和」でさえも、結構”ツライ”ものだと知るべき時が来ているのかも知れません。
それでも、それをやりますか?
それとも”野蛮”な時代に逆戻りしますか?
ということなのかなと。
そんな風に考えています。