「芸術」においては「好み」で鑑賞する時代は終わっていくと思います
この記事は私がメイン・ブログにしているトップページ - 「芸術の20世紀 喪失宣言」からの転載です。
「芸術」を鑑賞する時、ほとんどの人が「好きなモノ」を見に行くでしょうし、「嫌いなモノ」は見に行かないでしょう。
つまり、「好み」で鑑賞しているわけですね。
でも、「芸術」を「好み」で鑑賞する時代は終わっていくんじゃないかと思うんですねぇ。
こんな風に言うと、『好きなものを見て何がワルイんだ?』と言われるでしょうが、別に『ワルイ』ということじゃありません。
ただ、そう成って行くだろうということです。
『好きなモノを見る』=これは当然。
『嫌いなモノは見ない』=これも当然。
なんですが、問題は『当然なモノだけだと、ややツマラナクないですか?』ということなんです。
これは「芸術」のことだと話が通じにくくなりますが、他のことだと、わりと当たり前のこととして通じることなんじゃないかと思います。
たとえば、「食べ物」のことで言うと、少なくとも「食」を文化として考えた場合は、「好み」だけですべてを決めてしまうことは、「ややツマラナイこと」なんじゃないのかなと思ってしまうわけです。
それじゃ、「カップ・ラーメン」が好きな人は、「懐石料理」や「フランス料理」を理解することも出来ないでしょうし、どこか知らない国の「ジャンク・フード」のことですら、その国の食文化としてのその「ジャンク・フード」の意味をを理解することは出来ないでしょう。
『なにがワルイんだ!そんなに気取ったものを喰わなきゃいけないのか?』
いや、だから、ワルイということじゃありません。
でも、『ツマラナクないですか?』ということですよね。
少なくとも「食べること」を一つの文化として考えた場合、「好きなモノ」だけ食べ続けるというのは、「ややツマラナイこと」じゃないかなと思うわけですね。
海外旅行に行っても、その国の料理を食べないという人が居ますけど、そういうのって、旅行に使った費用の何分の一かを捨てているようなものだと思いませんか?
(ツアーであてがわれた観光客向けの「その国の料理」も「ツマラナイモノ」だとは思いますが)
これは「芸術」でも同じで、やはり、「好み」だけで「芸術」を判断してしまうことと言うのは、「ツマラナイこと」なんじゃないかと思いますし、それは、芸術鑑賞に使った費用や時間を無駄にしてしまうことだと思うわけです。
と言うか、「芸術」の場合は、そこのところが「食べ物」なんかよりもずっと大きくて、「芸術」を「好み」だけで判断してしまうことは、「非常にツマラナイこと」なんじゃないか?
いや、それどころか、『それじゃあ「芸術」を鑑賞したということに成らないんじゃないのか?』とすら思うわけです。
もちろん、「嫌いなモノ」を無理して食べろとか、無理してでも見て勉強しろということじゃないですよ。
そうじゃなくて、「食べ物」を「料理」として考えるのか、それとも「餌」として考えるのかということです。
「芸術」で言えば、「単なる絵」として見るのか「自己表現としての芸術」として見るのかということですね。
「現在の芸術」が「自己表現」として成り立っているものだとすれば、「芸術」を鑑賞するということは、すなわち、「作者そのもの」を見せつけられるということです。
その「作者そのもの」が「鑑賞者にとっての心地よいもの」であることは、むしろ稀だと思います。
基本的に「他者」と言うのは「他者」であればあるほど強い違和感を与えるわけで、それが、「ただ単に好きなモノ」であることは、ほとんど無いといっていいんじゃないでしょうか?
つまり、「好み」だけで判断していれば、「自己表現としての芸術」に出会うことは出来ないということです。
しつこいようですが、ワルイということじゃありません。
どういう見方をしてもいいと思います。
ただ、それが「ツマラナイ見方」に成っているとしたら、また、それを「ツマラナイ見方」だと思う人が居るとすれば、それにも、それなりの意味があるだろうということです。
べつに、「カップ・ラーメン好きの人」を低く見るつもりもありませんし、「懐石料理」や「フランス料理」がエライとも思いませんが、「好み」だけで物事を判断することは意外と「了見の狭いこと」だということを言いたいわけです。
『「あなたの好きなモノ」を見ればいいんですよ』と言えば、自由な考え方に聞こえるかもしれませんが、それは「偏見」と紙一重の「了見の狭さ」を含んでいるということですね。
そして、当然、そうした「好み」だけで選ばれた「居心地のいい芸術」と言うのは、「現在の芸術」としての意味が薄いわけですから、
結果的に「そういう芸術の在り方」は終わって行くんだろうなと思うわけですね。
(「現代の芸術」としての意味が薄いモノの方が、現在、評価されているという矛盾がありますけど)
「芸術作品」を鑑賞する時に、そこに「とてつもないチカラ」が注ぎ込まれた作品と、ただ単にサラっと作られた作品を比べて、『こっちの方が好き!』っていう見方をすることに、大した意味があるとは思えませんし、そういう鑑賞の仕方も終わって行くんだろうなと。
だって、それじゃあ「芸術である意味」がありませんから。
テレビや雑誌を見ていればいいわけです。
(まぁ、それらも広い意味では芸術でしょうが)
要するに、これからは「その作品に注ぎ込まれた力」を鑑賞するように成っていくと思うんですね。
つまり、「その力」の「量と質」を鑑賞するようになると思うわけです。
それは、むしろ、当然の成り行きなんじゃないでしょうかと。
そんな風に思っているわけです。