私は、そんなわけで20世紀をやめました

20世紀のシッポを切り落とすために出来ることを考えます。 20世紀を辞めたら、もしかすると21世紀に就職出来るかもしれない。 いや、もう一度20世紀をやり直せばいいのさ。 もしも、20世紀をやり直せるとしたら、きっと面白いことに成るよ!

「枠」と「表現の多重化」についての話

この記事は私がメイン・ブログにしているトップページ - 「芸術の20世紀 喪失宣言」からの転載です。

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※上の画像は、私が「枠」と呼んでいるスタイルを創り出す過程で使ったコピー画像です。
 フイルム写真を二度コピーしているので画像が荒く見にくいと思います。ごめんなさい。

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※この記事は、私がメイン・ブログとしてやっているFC2のブログの中で、8回に分けて書いた記事をもとにしています。

長いので、一件の記事ごとに区切りを入れてあります。

また、つなぎの部分に不自然な所があると思いますが、ご容赦ください。

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【記事 No.1】


見ている方からすると、私の絵の中の「枠」=「ストライプの部分」については、どんな風に見えているんでしょうか?
ぜんぜん、想像がつきませんねぇ。
たぶん、あまり重要な部分ではないと思っておられる方が多いのではないかと想像するんですが、実を言うと、これは私の絵にとってはとても重要な部分で、これで、かなり絵の出来不出来が決まっていると言ってもいいかもしれません。

もちろん、一番重要な部分は「キャラクター=フィギュア」の部分であることは確かなんですが、そちらは、どう頑張っても、いい時も悪い時もあるという感じで、いいと思えるモノばかりは出来ません。
(と言っても、自分でいいとか悪いとかと思っているだけなんですが)
本当のことを言えば、たまたま、いい時もあるという感じですね。

それに比べると、この「枠」はよく言えば「当たりはずれが無い」というか、悪く言えば、「ルーティンの作業」と言うか、決まりきったパターンの繰り返しなんですが、それでいて、画面全体に対する影響はとても大きくて、全体の出来不出来を左右してしまうところがあるので、私は、けっこう重視しているんです。

もともと私はこの「枠」からの発想を広げて行って、自分の作品の制作にたどり着けたところがあって、これが無かったら、きっと『これが自分の絵だ』と思えるような絵は描けていなかったと今でも思っています。
(と言うか、どんな絵を描いても、そう思うことは出来なかったような気がします)

つまり、言い換えるなら、この「枠」こそが、私の「スタイル」と言える部分だと言ってもいいと思います。

だから、というわけではないんですが、この部分には意外と時間をかけていて、何度も色を変えたりもしますし、合わなければ形も変えることがあります。

それから、この「枠」は私にとっては、「絵の世界」と「現実の世界」を仕切る境界線のような役目もあって、また、それとは逆に「絵の世界」と「現実の世界」をつなげる役目も持っています。
(こういったことを、私は「表現の多重化」と呼んでいます)

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【記事 No.2】


この「枠」は、完成した絵を見ると、それほど印象的な部分ではないのかも知れませんが、背景だけの時点で見ると、それなりの存在感があるんじゃないかと思います。

昨日の記事にも書いたんですが、「枠」は私にとってはけっこう重要な部分で、私が「芸術表現の多重化」と呼んでいるものの中でも、一番初めにあった要素で、その後「詩のような題」=「ポエティック・タイトル」と呼んでいる長い題や、「音楽」と「絵」と「題」を合わせるという考え方の一番基礎の部分に成っているものです。

もともと、私は、「額」についての考えの行き詰まりから、自分の作品が描けなくなっていたところがあって、30歳の時に絵を始めてから20年以上行き詰った状態だったんですが、ある時唐突に、この「枠」と言う発想が出てきて、「絵の中の額」として、この「枠」を設定してやれば、自分が行き詰っていた「絵」と「額」と「絵の外側の世界」との関係を割とクリアーしやすく成るような気がしてきて、少し、気持ちが軽くなって、それで、自己作品と向き合うことが出来るように成ったんだと思います。

そんな経緯から、この「枠」は、私にとっては重要な部分なんですねぇ。 
だから、なるべく手を抜かずに描くようにしています。

今描いている絵の場合は、白(主にチタニウム・ホワイト)とローアンバーで形だけをつくっています。
こういう時の色は、特に決めているわけではなくて、その時余っている色を使うこともけっこうあります。

ひどい時は、前の日に残った絵の具をぐちゃぐちゃっと混ぜたのを使っています。
(ケチくさい?・・・・いいえエコロジーです)

クセのない色、例えばローアンバーや黒などだとあとで色を変えるときには対応しやすいですね。
でも、背景部分との色の兼ね合いで、『この背景には、この色しかないだろう』と思った時は初めからハッキリした色を使う場合もあります。
ハッキリした色を使うことで、その絵のイメージが創りやすく成るということもありますし、逆に『ダメだ、ぜんぜん違った』と思う時もありますね。

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【記事 No.3】


「枠」は、決まりきったパターンなんですが、それでも、それなりにそのパターンにはバリエーションがあります。

まず、一番スタンダードなの(と言うか初期の)が、

 

こちらや、

 

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こちらのタイプですね。

で、その次に出てきたのが、

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こちらのタイプ。
シッポみたいなのが出て来ました。

そのシッポのような部分が伸びて行って、糸みたいに細長く伸びた尻尾があるパターンが下のようなパターンです。
これは、自分では「ストリング・テール」と呼んでいます。
(一応、「枠」に限らず自分の絵の中の特徴的な部分には名前を付けていることが多いんですね)


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一番下のは「ダンシング・ストリング・テール」ですね、踊ってます。

その後、だんだん同じパターンに飽きてきて、変形させていくことが多く成っていきました。










こういうのを「ビヨンド・ザ・ヒル丘を越えて)」と言っています。
上の二つが原型の「ビヨンド・ザ・ヒル」で、一番下はその上下を逆転させたパターンです。

それから、それまではほとんど絵の四辺のうち二辺にだけ「枠」を描いていたんですが、三辺や四辺すべてを囲むパターンも出て来ました。

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あとは、最近に成ってから出て来たパターンで、斜めに流れるような形です。

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一枚の絵にだけ使ったパターンなんかも入れると、他にも数種類はあるんじゃないでしょうか?
(数えたことは無いですけどね)

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【記事 No.4】


前にも書いたように、この「枠」と言うのは、私にとって「(芸術)表現の多重化」の一つでもあり、さらに言えば、一番初めからあった「多重化」の具体的な形です。

それから、これはプロフィールの記事にも書いてあるんですが、私は絵を始めたのが30歳に成るかならないかの時なので、学生として絵を学んだことはありません。
(絵画塾のようなところに通ったこともありませんし、油絵具やアクリル絵の具を見たこともありませんでした)
そんな人間が、いきなり完全な我流で、それでいてなにか強烈な思いをもって絵を始めましたから、まったく雲をつかむような状態で、『絵が上手く成りたい』とか『こういうモノが表現したい』とかと言う具体的な目標がまったくなかったんですねぇ。
(こういうのを「バカ」と言うんだと思います)

目指すところがわからないままに始めてしまうわけですから、当然すぐに行き詰ってしまいます。
そんなわけで、私は絵を始めてから20年以上の間行き詰りっぱなしだったわけで、ほとんど「作品」と言えるようなものは残していなかったといっていいと思います。

1~2年ほどして、早くも行き詰りかけたころに、運よく装飾美術の仕事の仲間に入れてもらっていたので(と言っても大した稼ぎには成りませんでしたが)、そこで装飾的な塗装の仕事や、まぁ、時には絵を描くこともありましたし、そういう仕事をしている人たちは、もともと美術畑の人がほとんどなので、なんとなく、私のような初心者でも、美術関係の仕事をしているという気分で居られて、「自分の作品」を残していないということがあまり気に成らない状態に慣れてしまったんでしょうね。

そんな中でも、たまには自分の作品を描くこともありましたし、『自分はどうして絵を始めたのか?』とか『自分が描きたいのはどういう絵なのか?』と言う自問は繰り返していたと思います。
まぁ、始めたときの気持ちが強烈なものだったので、どうしても、流してしまうことが出来なかったということなんですね。

でも、そうは言っても、行き詰っているわけですから、「自分の絵」や「自分の表現」のことを考えられる状態ではありません。
と言うか、考え始めたら3秒で終わってしまうような感じですね。
『どうせ、考えたってわからないよ』
これが、いつも3秒で帰ってくる答えでした。

それで、私が一番よく考えたのが「額」についてのことなんです。
絵は「額」に入っていた方がいいのか?それとも「額」なんて必要ないのか?いや、「額」になんか収まっていてはいけないのか?
そんなことばかり考えていた気がします。
まぁ、これも答えなんか出せないんですけど、それでも、これは考え続けることが出来ることだったんでしょう。
(ありとあらゆる「特殊な額」を考えたりしていましたね。実際に作ったわけじゃありませんけど

そして、18年ほどたったある日、そんなことを考えていると(まだ、考えてたのか?)、唐突に、チラッとなにかが、目の中に残像のように見えたような感じがして、『ナニ?今の』と思っていたんですが、それほど気にもしなかったので、忘れていたんですが、その後「額」のことを考える時に、たびたび同じようなことがあるので、その残像を追うように成ります。

はじめのうちは、確認できませんでしたが、『どうやら「ストライプ模様」らしい』ということまでは、割と早い段階で、なんとか突き止めることが出来て、その後しばらくは、そのストライプをどうすればいいのかがわからなかったんですが、どうも、「額」自体ではなく、その「ストライプ模様」を絵の中に、「絵の中の額」として描くということが、その残像が示していることのようだということも2年ほど追い続ける中で分かってきました。

そのころ描いた「枠」のデザインを切り抜いて、それ以前に描いた絵のフイルム写真のコピーの上に貼って、さらにコピーし直したのが下の画像です。
現在使っている画面の縦横比である「7:11」と「16:17」の比率も、これらの画像から割り出したものです。
(これらのコピー画像は初心を忘れないようにずっと壁やイーゼルに貼ってあります)














この時点では、まだ内側に描く絵はぜんぜん決まってませんでした。
それで、その後2年ほど苦しむことに成りました。


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【記事 No.5】


私は20年以上の間、『自分がどういう絵を描くために絵を描くようになったのか?』いや、そもそも、『自分に、本当に描きたい絵があるのか?』ということに対する答えが見つけられずに、行き詰っていました。
そして、また、「絵の中の世界」と「外の世界」とを分ける境界線として、また、「絵の中の世界」と「外の世界」をつなぐ橋渡し役としての「額」と言うことを考えながらも、その考えにも行き詰っていたわけなんですが、そう言ったことを考え続けていたある時に、なぜか「ストライプ模様」と言う単純で何の工夫も無いようにしか見えないデザインが、自分にとって何か重要なもののように思えてきて、今、私が描いている絵のほとんどの絵に描き入れている「枠」と言う発想が生まれてきました。


そこで、まず、私がなぜ「額」に対してこだわりを持つようになったのかを、お話しておこうと思います。

私が「額」のことを考えるように成ったのは、「額」が「権威の象徴」のように思えたからです。

いわゆる「フレーム=枠」としての「額」と言うよりも、ゴージャスで高級な感じの重厚な額と言うのは、アンティークの額などそれ自体が素晴らしい彫刻作品と言えるような場合もありますし、その調度品としての価値を否定するつもりは無いんですが、その「高級感」や「装飾性」を「絵」に纏(まと)わせてしまってもいいのだろうか?そういうのは、一種の「権威の利用」であり、「権威へのヘツライ」ではないのか?ということが、どうしても、受け入れられなかったんですね。
(これ、エラそうに聞こえるかもしれませんけど、やっぱり、やっちゃいけないと思います)

それで、絵を始めたころ、私は『額装はしない』と言う方向で、考えていたわけなんです。

ところが、現代美術の平面作品を見るたびに、とにかく額装していない作品が多く、むしろ、額装してある作品はほとんど無いということを知って(私はほとんど美術鑑賞したことが無かったので、そう言うことも知りませんでした)、『えっ?』と思いました。
要するに、『ここまで、みんな同じことをしていていいの?』と言う思いが頭の中に首をもたげてきたわけですねぇ。
((これは、後に成って考えるように成った「タイトル」に関しても言えることで、『あまりにも「無題」が多すぎるんじゃないの?と言うのも、ほぼ同じですね)

一度、そう言うことが気に成ってしまうと、『まぁ、イイか?みんなやってるんだから、自分も「無額装」でも、誰にも非難されることは無いだろうから』と思えなく成ってしまったんですねぇ。
(「バカ」ですねぇ~。  あぁ、自分か)

そんなことから、私はだんだん、なんとか、権威を感じないような、それでいて「絵の中の世界」と「絵の外の世界」を分ける境界線(結界)としての役割を果たしているような、それでいて、「絵の中の世界」と「絵の外の世界」をつなげる橋渡しの役割も担ってくれるような、それでいて、「装飾的=インテリア」と言うよりは、「作者の表現の一部」であるような、そんな「額」が創れたら、きっと嬉しいだろうなと思うように成っていきました。

まぁ、そんなの出来るわけありませんよね。

つまり、けっきょく、「額」についても行き詰ってしまっていたわけです。
と言っても、「額」と言うのは「枠=フレーム」としての一定の決まった形がありますから、「絵」とか「芸術」とか「表現」と言うほど、途方もない行き詰りではなく、「絵の周囲を囲むもの」と言う範囲の中で考えることが出来るので、私にとっては、なんとか考え続けることだけは出来たんだと思います。

そして、そう言うことを20年ほど考えているうちに(長い!)、出てきたのが、今の私の絵の「ストライプ模様の枠」なんです。

「枠」って言っても、「額」ではないんですが、どうして「額」についての考えが、いきなり「絵の中の額=枠」ということに成ってしまうのか?と疑問に思う方が多いと思います。

そこに、私が「表現の多重化」と呼んでいる考えが関係しています。
(後に成ってからそう呼ぶようになりました)


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【記事 No.6】


どうして「額」についてのことだったのに、それが「枠」つまり「絵の中に額を描き入れること」にかわってしまったのか?ということです。

そこには、私が「表現の多重化」と呼んでいることが関係しています。

もともと、「額」について考え始めたときには、そんなことなんか全然考えていなかったわけですが、なんとか今までには無かった額を作りたいと思って、いろいろと考えていくうちに、そもそも「額」って、なんのためにあるんだろうか?と言う考えが浮かんできました。

はじめに考えたのは、「額」は「絵」をインテリアとして室内装飾に適したモノにするために必要だったんだろうということです。
つまり、「絵」は「額」に入れることで「家具」の一種に成るということです。
これは、今でも間違いではないと思います。
でも、それだけではないような気がしていたので、その後も考え続けました。

そして、最終的に達したのが、「額」と言うのは「絵の中の世界」と「絵の外の世界」を分け隔てる境界線であるという考えでした。

これは、人によって考え方が分かれる所かも知れませんが、私は「絵の中の世界」と言うのは、ある種の「異世界」だと思っています。

例えば、教会の祭壇画は、その絵の中に「聖なる世界」があるからこそ意味があると思いますし、イコンなんかにも、「聖」と「俗」をつなげる窓口のような意味があると思います。
そして、そういう役割は、宗教芸術に限らず、芸術作品全般に言えることであって、「聖」や「魔」などの「異界性」を持たないモノは、いくら素晴らしく描かれた絵であっても、芸術的な意味が薄く成ってしまうような気がするわけです。
(「異界性」を含まない絵は芸術ではないという意味ではなく、芸術の本質には「異界性」が関係しているというい意味で)

だから、「現実的な世界」と「異世界」を区切る境界線が必要になるし、また、その「異世界」が「現実世界」にはみ出してしまわないように、しっかりと止めておく「結界」が必要になるんじゃないかと思うわけです。

「結界」と言うと、「魔界」のような「邪悪なもの」を食い止めるためのものと言うイメージがありますが、実を言うと、「神聖な世界」も、やはり、境界線の向こう側にあるからこそ、その「神聖さ」が守られているわけで、「聖なる世界」が「現実の世界」と交わってしまえば、けっきょく「世俗化」してしまうという性質があるんだと思います。

私は、そう言った「異界」が「芸術」に絶対的に必要なものだとは思いません。
しかし、そういう「異界」を表現できるのは、「芸術」だけなんじゃないかと思います。
つまり、「異界性」を含まない「芸術」があってもいいと思いますが、「異界性」を含む「芸術」を無くしてしまうと「芸術」の意味が薄れてしまうような気がするわけですね。

そして、そういう「異界性」を含む「芸術」については、「結界」が必要になるわけで(簡単に行き来できてしまうと「異界」とは言えなく成ってしまうので)、そういった意味で、「額=フレーム」と言うモノは必要性があると思っているわけです。



その「額」が、どうして「絵の中の枠」に成ったのか?と言うと、そこに「表現の多重化」と言う考え方が出て来ます。


一言で言うと、私は「芸術表現」は、もう既に、出尽くしていると思うわけです。
身もふたもない言い方に成ってしまいますが、もう、「完全に新しい表現」と言えるようなモノは生まれないということです。
だから、後は「多重化」するしかないような気がするんですね。

当然、これも人により意見が分かれるところでしょうし、『現に、新しい表現は今も生み出されてるじゃないか?』と言う方もいらっしゃることでしょう。
しかし、その「新しい表現」とは、多くの場合「新しい技術」であったり、「新しい素材」であったり、「新しいメディア」であったりするわけで、それを「新しい表現」と言えるのか?と言うとことが、私は、少し違うんじゃないかな?と思うわけです。

なぜならば、その「技術」や「素材」や「メディア」自体は、「芸術」ではないし、「表現」でもないし、「創作」でもありません。
そして、何よりも、すべて、創作者自身が創り出したモノではなく、経済的な価値を求めて、工業的に「開発」されたものであり、「創作」されたものではないのです。

やはり、「創作」と言うのは、あくまで人間的で個人的な作業だと思うのです。
それに対して、「開発」と言うのは、経済的あるいは工業的で社会的な作業だと思います。
この二つは、相入れないものだと思うんですよね。
(個人的なレベルで開発されるモノもありますが、それが革新的な技術や素材であることは、現在ではほとんどありません)

だから、今、「新しい表現」と言われているものは、すべて「既存の表現」を使って、そこに「新しい技術」や「新しい素材」を組み合わせたものだと思うわけです。

そう考えると、もう、「新しい芸術表現」と言うモノは、出てこないということに成ってしまうような気がするわけですね。
と言うか、もっと厳密に言うと、「絵」と言うのが原始の時代に生み出されたその時点での「新しい表現形態」であって、その後、その「絵」の中で生み出された様々なスタイルと言うのは、「新しい表現」と言うよりは、「その人個人の表現」と言うようなものであって、「表現の形式」と言うほどのものではないのかも知れませんね。


さて、そうなると、もうできることは無いのか?ということに成ってしまいますが、「既存の表現」と「新しい技術や素材」が組み合わせられるならば、「既存の表現」同士でも組み合わせることはできるハズです。
そして、その「組み合わせ」を重層的に折り重ねて行けば、まだまだ、「表現の領域」は残っているんじゃないだろうか?ということに成ります。

こういったことが、私の考えるところの「表現の多重化」ということに成ります。


これは、現在、割と盛んにおこなわれているところの「コラボレーション」と言うモノに似ているんですが、それとは少し違います。

コラボレーションは、それぞれの独立した表現を、対等なものとして組み合わせて、そこに「別々だった時」とは違う新たな面白みを出すことを狙ったものだと思いますが、私が考えているところの「表現の多重化」は、出来るだけ一つの表現形態の中での多重化を目指します。

コラボレーションには、コラボレーションの価値があるとは思いますが、私は、出来るだけ狭い範囲での「密度」を出したいので、一つの形態の中での多重化を考えています。

例えば「絵」と「額」ということを考えればわかると思いますが、主従関係がハッキリしています。
「絵」が「主」で「額」はあくまで「従」です。
「主従関係」と言うと、どうしても上下の関係を想像してしまいますが、そう言うことではなく、「メインになる部分」と「サブに成る部分」ということで、どちらが上とか下と言う関係ではなく、中心的な表現とそれを補完するよな表現と言うことだと思います。

そういう意味で、一つの表現の中での多重化と言う考え方をしているわけですね。

こんな考えの中から、「絵の中に枠を描く」という発想が生まれてきました。


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【記事 No.7】


前の文では、私が「額」から「枠」へ移行していった経緯を描いたわけですが、ここでお断りしなければならないのは、本当は「額」を作りたいんだということです。
けっして、「枠=絵の中の額」だけで満足しているわけではなく、本来は「額」も作りたいんですが、一度数か月かけて作ろうと試みたんですが、どうにも、専門的な工作機械(家具工房のような)や技術が必要だと思い、今のところ断念している状態なんです。

さらに言うと、当初の構想では、「今までになかった額」と言うのは立体作品でもあり、それでいて、「絵のフレーム」でもあるというようなもので、不可能とまでは言えなかったんですが、だんだん構想が広がってしまって、今は「二重の額」と言う構想に成ってしまったので、『これは、もう無理だね』と言う状態に成っているわけです。

つまり、今絵の中に描き入れている「枠=絵の中の額」と合わせると三重の額ということに成ります。
そのうちの最後の一つが「枠」と呼んでいるストライプの部分なんです。

どうして「二重額」なのか?と言うと、きのう書いたことと関係していて、私は、二つの役割を持っている「額」が創りたかったわけです。
つまり、「絵の中の世界=異界」と「絵の外の世界=現実」を分け隔てる境界線(結界)としての役割と、「絵の中の世界=異界」と「絵の外の世界=現実」をつなげる役割ですね。
それで、「外額」には「境界線=結界」としての役割を持たせ、「内額」には「外の世界との架け橋」としての役割を持たせたかったということなんです。

それで、なんで「枠=三つ目の額」が必要になるかと言うと、「内額」は「外に向かって架けられた橋」で、「枠」は「内側に向かって架けられた橋」なんです。
ダイレクトにつなげてしまうと、「結界」として成り立たなく成ってしまうので、どうしても分ける必要があったわけです。


こんなふうに、世界を分断していきながらも、その分けられた断片を繋ぎ合わせていくことを「多重化」と呼んでいます。

私は、「分断」や「断片化」は「20世紀美術」が行ったことの中でも、現在の芸術にとっては弊害と成っているものだと思っています。
「分断」しっぱなし、「断片化」しっぱなし、と言うのが「極化」につながってしまったために、現在では「奇をてらったモノ」しか「現在形の先端芸術」だとは認められなくなってきています。

そんなわけで、私は、「20世紀」が切り刻んで粉々にしてしまった「芸術の断片」を拾い集めてつなげていこうという発想から、こんなことをやっているわけです。

まぁ、誰にも相手にされませんけどね。
私は、それでいいと思ってますので。


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【記事 No.8】


さて、私が「表現の多重化」と呼んでいるのは、芸術表現を細分化していきつつも、それをバラバラに切り離してしまうのではなく、分けながらその断片の一つ一つをつなげていくような作業のことだと書きました。
そして、その一つの具体的なものとして、今私が描いているのが「絵の中の枠(額)」と言うモノなんだということです。

要するに、私がやりたかったのは、「印象派」から20世紀美術全般にわたって影響し続け、そしてさらには現在でもまだ続いている「芸術表現の断片化」によって粉々に成ってしまった「芸術の破片」をつなぎ合わせてくことだったわけです。
(これは、初めからそれを目標にしていたのではなく、後から考えて思ったことです)

もちろん自分にそんなことが出来ると思ってはいないんですが、私は、そういう作業をやっていかないと「芸術」と言う分野は消えて行ってしまうような気がしているので、それをやっています。

でも、私は、そう言うことと言うのは、必ずしも『それが出来る』と言うことは必要ないような気もしていて、『誰かがそれをやるか?それとも誰もやらずに放置するのか?』ということが一番重要なポイントなんじゃないかと思っています。

むしろ、どちらかと言うと、『出来る人が、それをやる』よりも『出来ない人が、それをやる』ということの方に意味があるような気さえもしていて、私のような、ナニカを達成したことがほとんど無い人間にはうってつけなんじゃないかとも思っています。
(と言うか、こんなバカげたこと、「出来る人たち」がやるわけありませんから)


さて、ここで、少し話の方向を変えて、最後に、「枠」のことだけではなく「表現の多重化」全体のことを書いておきます。

現在、私が実際に行っている「表現の多重化」の主なものは、三種類で、絵の中に描き入れている「枠」と、タイトルとして創っている「詩のような題=ポエティック・タイトル」と呼んでいる「長い題」と、後は「音楽との組み合わせ」ですね。

 ※最後の「音楽との組み合わせ」については、自作ではないので「コラボ
  レーション」に近いものに成りますが、「B.G.M」や「映画音楽」のようなも
  のと同様に、あくまで、メインの表現があって、その表現をより効果的な
  ものにするための音楽と言う意味で「コラボレーション」とは一線を引いて
  います。
  (「コラボレーション」は二つの表現形式を対等な関係で共演させるという
  性質のものだと思いますので)

これらの三つに加えて、現在はまだ構想だけにとどまっている「二重の額」や、他にも最近に成って始めた「ダブル・ネーム」と呼んでいる一つの作品に二つ目の名前を付けるというものや、特定の作品をシリーズ化して、その「シリーズ」に「シリーズ・タイトル」を付けるということなど、いろいろと細かいものも含めると、けっこうたくさんあったりします。

あぁ、それから、これも最近に成ってからやってますけど、同じ作品でも「見せ方」を変えるという考え方です。

これは、主にブログで絵を見てもらうということに限定した場合ですが、このブログでは、「絵・曲・題」の相性がいい作品を集めたカテゴリを作って、そこに、私が「絵・曲・題」の相性がいいと思っている作品を入れてあります。
同じ絵でも曲やタイトルとの相性と言う切り口(=断片ですね)を見せることで、違った見方が出来るんじゃないかな?ということからそんなことも初めて見たんですが、非常にコメントが入ることの少ないこのブログには珍しく、そのカテゴリの記事には何軒かコメントを入れていただきました。

おそらく、それらのコメントを入れて下さった方々は、私の絵自体と言うよりも、そういう「切り口」の面白さを感じてくれたんじゃないかな?と思っています。
もちろん、絵自体を評価してほしいという気持ちが捨てられるわけではありませんが、私にしてみれば、自分が提示した「切り口」にコメントを入れてくれる人が少数でも居たということはとても嬉しいことだったわけです。


そんなわけで、この「表現の多重化」と言う方向は、これからも維持し続けて行こうと思っています。

ご覧いただいた皆々様には、意味不明な点等も多々おありでしょうが、今後も、どうぞ寛大なご処分のほどをよろしくお願いいたしますです。ハイ。