私は、そんなわけで20世紀をやめました

20世紀のシッポを切り落とすために出来ることを考えます。 20世紀を辞めたら、もしかすると21世紀に就職出来るかもしれない。 いや、もう一度20世紀をやり直せばいいのさ。 もしも、20世紀をやり直せるとしたら、きっと面白いことに成るよ!

「才能に頼らない」と言う選択

 この記事は私がメイン・ブログにしているトップページ - 「芸術の20世紀 喪失宣言」からの転載です。

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これは「芸術」に限らない話ですけど、現在、どんな分野でも、「才能」と言う言葉がかなり絶対的なものに成っていて、何をするにも、「才能」を見つけ出したり、「才能」を伸ばしたり、「才能」を磨いたりと、ありとあらゆる形で、「才能」を引き出そうとするわけです。

でも、そういうの、もうやめたほうがいいんじゃないかと思うわけですね。


私の場合、「才能」と言う言葉自体、無くしてしまってもいいんじゃないかと思っているくらいなんですけど(「個性」と言う言葉も同じですね)、少なくとも、「才能に頼らない」と言う「選択肢」があってもいいんじゃないかなと思ってしまうわけなのです。


これは、このブログで何度も書いていることなんですけど、要するに、「才能」と言うと、「才能がある者」と「才能lがない者」と言う捉え方をする人が非常に多いんですね。

そういう考え方が、いろいろなものを『殺している』と思いますね。


言ってみれば、ナニカが「できないこと」も「一つの才能」なわけで、『「才能がない人」なんて居るわけない!』と思うんですがどうなんでしょう?

それを、ただ単に「社会にとって有用であるかどうか」ということで、「才能がある」と「才能がない」に分けているだけだと思いますね。


だったら、最初から「才能」なんて言う言葉じゃなくて、「社会にとって有用」とか、「誰かにとって有用」とかと言ったほうがいいんじゃないかと思いますね。
それを「才能」と言ってしまうから、「才能がある人」がエラクて、「才能がない人」はパッとしない、という感じに成ってしまうわけです。

要するに、「才能」という言葉が、「才能」をつぶしているということですね。


だから、現在、「芸術」に関わる人間は、「才能を持っている人」も「才能を持っていない人」も(「有用」っていう意味での「才能」ですね)、「才能に頼らない」と言う「選択肢」を持つべきではないのかなと。


所詮、「才能で描かれた絵」なんて、もう出尽くしてしまっているわけですね。
もう、トックノトウにスッカラカンに成ってます。

「コンセプト」や「ヒネリ」や「アイデア」なんかも全部ヒックルメテですね。
そこまで含めても、もう、とっくに「打ち止め」に成ってますよね。


だから、『今だけ売れたい!』って言うんなら、それでもいいのかも知れないですけど、ナニカ『これっ!』というものを残したいなぁと思うなら、「才能がある人」も「才能がない人」も(これも「有用」と言う意味の「才能」です)、「才能に頼らない創作」を心掛けてみるという「選択肢」が必要なんじゃないかと思うわけです。


いま、「才能に頼らないで創られたモノ」こそが、本当の「その人の作品」なんだと思いますね。
「才能で創られたモノ」は、「社会にとって有用な作品」ということです。

それが悪いということは無いですが、私はそれを「芸術の中心」から遠い位置にピン止めするということです。


そういう「才能に頼らない姿勢」で創作することで、自分の中の「自分性」や「自分力」と言うものが見えて来るんじゃないかと思っています。

要するに、「技術」や「センス」みたいな、ひとから「才能」と言われやすいモノを取り除いたときに、自分の中にどれだけのモノが残るのか?ということですね。


そして、どうせ「磨いたり、伸ばしたり」するんなら、そういうところを「磨いたり、伸ばしたり」したほうがいいんじゃないのかなと。


そんな風に思うわけですね。