私は、そんなわけで20世紀をやめました

20世紀のシッポを切り落とすために出来ることを考えます。 20世紀を辞めたら、もしかすると21世紀に就職出来るかもしれない。 いや、もう一度20世紀をやり直せばいいのさ。 もしも、20世紀をやり直せるとしたら、きっと面白いことに成るよ!

いま『芸術がわかる』とはどういうことなのか?

この記事は私がメイン・ブログにしているトップページ - 「芸術の20世紀 喪失宣言」からの転載です。

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いわゆる「芸術好き」の人が、「ごく一般的な人」に対して『あなた、まったく芸術がワカッテないよね!』と言っているのはよくあることだと思いますが、それじゃあ、いったい『いま、芸術がわかっている』とはどういうことなんでしょうか?


たとえば、「美術史的な知識」が豊富であることなんでしょうか?
それとも、『現在形の芸術に通じている』ということなんでしょうか?
または、『非常に鋭敏な感性を持っていて、常に芸術の良し悪しを見分けることが出来る』ということなんでしょうか?
これらは、どれも違うという気もしますし、どれも当たっているという気もします。

でも、個人的な意見で言わしてもらいますと、『いま、芸術がわかる』というのは、そう言うことではなくて、「いま芸術の置かれている位置」をワカッテイルということなんじゃないかと思っているわけです。

つまり、「現在」という時代において「芸術」がどういう意味を持っているのか?
「時代」や「社会」、そして「人間」にとって「現在形の芸術」がどういった位置を占めているのか?ということを理解している人こそが「いま、芸術がわかっている人」なんだと思うわけです。

こんな言い方をしてしまうと、『へぇ~、難しいんだねぇ』とか『それで自分はそれがわかっていると言いたいのね、ハイハイ』などと言われそうですが、そうとも限らなくて、むしろ「知識」や「教養」や「感性」などは必要ないわけですから、「誰でもできること」でもあるわけです。

それから、これは「芸術」以外のことでも、だいたい同じことが言えると思います。

たとえば、「いま、科学がわかっていること」というのは、「いま科学が置かれている位置」をわかっていることだと思いますし、「いま、宗教がわかっていること」とは「いま宗教が置かれている位置」をわかっていることなんだと思うわけですね。

だから、「いま、科学がわかっていること」に「科学の勉強」が必要とは限らないと思いますし、「いま、宗教がわかっていること」に「信仰」が必要であるとも思いません。

例えばの話、いまでも「科学万能」を信じている人は、『いま、科学がわかっている』とは言えないということですね。
もし、その人が「科学者」であったとしてもです。
(よく居るような気もしますけど)
また、今でも、日照りの時に「雨ごいの踊り」や「生贄の儀式」をやってる人は、『いま、宗教がわかっている』とは言えないということに成ります。
(めったに居ないでしょうけど)

それらと同じで、「いま、芸術がわかっていること」と言うのは、「芸術に関する知識」とも「芸術的な感性」とも関係なく、ただ単に「いま芸術が置かれている位置」をわかっていることなんじゃないかと思っているわけです。


で、その「いま芸術が置かれている位置」ってどこなんだ?ということです。

「現在形の芸術」においては「作者の自己表現であること」が最も中心にあると思うわけですが、その「作者の自己表現」が「時代」や「社会」や「人間」にとってどういう意味を持っているのか?ということです。

昔は「技術」と「芸術」は、ほぼ同じような位置にあるモノだったと思いますが、現在は「技術」は「芸術」の中心的な部分ではなくなっているわけです。
つまり、現在「芸術」において「技術」を中心に置いた考え方をしているということは、いまだに「雨ごいの踊り」を踊っているようなもので、「やや時代遅れ」と言わざるを得ないわけです。

しかし、その逆に「反技術」が「いま芸術の置かれている位置」に近いか?と言うとそうでもなくて、半世紀ほど前まではそうだったのかも知れませんが「反技術」や「反芸術」的な考え方も「いま芸術が置かれている位置」とは言えなく成っているわけです。
だから、いま、意識的に「技術」を捨てようとしたり「芸術っぽくないモノ」を見せようとしたりするのは、やっぱり「雨ごいの踊り」になってしまうわけです。

それじゃあ、どういうのが「いま芸術が置かれている位置」なのか?と言えば、私は「努力」を挙げますね。
つまり、「世の中で最も努力を明確に示すもの」というのが「現在の芸術の位置」だと思うわけです。

「芸術」と言うと、なにかにつけて「才能」や「個性」ということだけが言われてしまいますが、実は「才能」や「個性」で出来ることはかなり限られていて、「現在の芸術の位置」はその範囲を超えたところにあると思うわけです。
ということは、いまだに「才能」や「個性」に依存しているということも、また「雨ごいの踊り」に成ってしまうわけで、あと残っているのは「努力」以外にないということです。

「いま、芸術の置かれている位置」は「努力を示すモノ」という位置であり、「もっとも純粋に労力を費やすもの」という位置だと思います。


いま、そう言うことが出来るのは「芸術」しかないでしょう?
「才能」や「個性」はほかのことでもイヤというほど示されているわけですが、今、「無目的の努力」を示すことが出来るのは、おそらく「芸術」しかありませんね。

それから、これは「創作者」にだけ言えることではなく「鑑賞者」や「批評者」にも言えることで、「鑑賞者」は「単なる美しいモノ」ではなく、作品の中にある「努力や労力」を」鑑賞することを要求されるようになっていくでしょうし、「単なる好み」で鑑賞することにも意味が無くなっていくでしょう。
「批評者」も作品の「個性」や「センス」などではなく、「作品の中に示されている努力や労力」を抽出してそれを分析し批評を加えるようになっていくと思います。

そして、「創作者」・「鑑賞者」・「批評者」の三者がそれぞれの立場において、「努力」して「労力」を費やすことが「芸術の目的」に成って行くんだと思っているわけです。

つまり、「個性」や「才能」もまた、「技術」と同じように「芸術の中心課題」ではなく「単なる手段」に成るということです。

こんなことを言っても、誰一人聞き入れてくれる人はいないでしょうが、それじゃあ、お聞きしたいのですが、『あなたは、今、無条件に気持ちよく「努力する機会」を持っていますか?』と。
『利益と無関係に気持ちよく「労力を費やす人」を最後に見たのはいつですか?』と。
『「芸術」以外で、そんなものに出会えると思いますか?』と。


そんな風にお聞きしたいわけなのです。
(まぁ、「芸術」でも、あまりお会い出来ませんけど。『いや、まだこれからなのさぁ~』)