私は、そんなわけで20世紀をやめました

20世紀のシッポを切り落とすために出来ることを考えます。 20世紀を辞めたら、もしかすると21世紀に就職出来るかもしれない。 いや、もう一度20世紀をやり直せばいいのさ。 もしも、20世紀をやり直せるとしたら、きっと面白いことに成るよ!

『本物はあとに成ってから評価される』と言うのは今も成り立っているのか?

この記事は私がメイン・ブログにしているトップページ - 「芸術の20世紀 喪失宣言」からの転載です。

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前の記事と似たような話です。

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『本物っていうのはだねぇ、何十年も経ってから評価されるモノなんだよ、キミィ』
これ、今でも言えることなんでしょうか?


「今でも」と言うか、これが通要したのは、意外と短い期間だけなんじゃないかと思うわけです。


まず、200年以上前の時代だと、何十年も経った後で評価された人なんてあんまり居なかったような気がします。

昔は「芸術」も職人仕事の一つと考えられていたところがあったわけで、「いい仕事」をする人は最初から評価されていたでしょうし、「いい仕事」をしない人は、いつまでたっても評価されなかったわけです。
(今だって「職人さん」が何十年もたってから評価されることなんか無いですよね)

つまり、今みたいに「十年後を見越した作品」なんて求められていなかったということでしょうね。

 ※一人一人の作家の評価が上がったり下がったりするということはどの時代にも

  あったでしょうが、「全く見向きもされない作家」がいきなり「ブレイクす

  る」と言うような意味での「あとに成ってから評価される」は無かったんじゃ

  ないでしょうか? 

 

それに、昔は十年や二十年たっても「評価の規準」が変わることなんて無かったわけですから、「十年後」くらいではほとんどのことが変わらなかったんだと思います。

だから、「十年後」を見越してもあまり意味がなかったということかもしれませんね。
でも、百年たったら忘れられちゃいますからね。

そういうことで『本物はあとに成ってから評価される』は通用していなかったと思いますね。


これが通じたのって、実はけっこう短い期間で、19世紀中ごろあたりから20世紀の中頃まで、つまり、「印象派」の前あたりから「ポップ・アート」の前後ぐらいまでじゃないかと思います。

その時代、「芸術」に「あたらしさ」が求められていたんでしょうね。
それで、「十年先の作品」を作った人が「十年後」に成ってから評価されるように成って、その後、それが伝説化して今に残っているわけです。


でも、これ、「いま」でも通用するんでしょうか?

私は、これ、「いま」ではもう通じなくなっているような気がするんですねぇ。


20世紀の中ごろまではこのことが通じていたんだと思います。
しかし、今はもう「あたらしさ」が出尽くしてしまったわけです。

いま「あたらしい」と言われるモノとはどんなモノなのかと言えば、

「あたらしいスタイル」や

「あたらしい素材」や

「あたらしいメディア」や

「あたらしいテクノロジー」を使ったモノであって、

それらはどれも「本質的にあたらしいモノ」ではないわけです。


それに、「素材」にしても「メディア」にしても「テクノロジー」にしても、「芸術以外の場」で開発されるモノであって、「創作者」自身が生みだしているわけではありませんから、「十年後の素材」や「十年後のメディア」や「十年後のテクノロジー」を使うことは出来ないわけです。

つまり、「十年先」を見越すことは出来ないということですね。


従って、現在唯一「あたらしさ」と言えるのは「スタイル」だけだと思いますが、その「スタイル」とて、「芸術の本質」とはチョットずれたところにあるモノなわけで、本当の意味での「あたらしさ」とは言い切れない所もあるわけです。


でも、実を言うと、これは『本物はあとに成ってから評価される』ということが通用していた期間の中でも同じで、本当のことを言えば、「あたらしさ」は「芸術」にとってそれほど重要な要素でもないんだと思うわけです。

ただ単に、その時期、人々が「あたらしさ」を「芸術の本質」であると勘違いしていたというだけで、その幻想によって『本物はあとに成ってから評価される』ということが成り立っていたんだと思うわけです。
(本当に本質的なモノであれば、「いま」でも「十年後」でも同じように評価されるはずです)

その後、あまりにも「無理矢理なあたらしさ」がたくさん創り出されたことで、『もういいだろ』ということに成ったんでしょうね。
だから、現在は、もうみんな「あたらしさ」に見飽きてしまっているんだと思います。


ところが、「新しくなくてはいけない」と言う呪文に縛られてしまっていますから、そこから抜けられなくなっているわけです。


『本来は「あたらしさ」よりも「芸術の本質」に近い所にあるモノとはナニなのか?』ということを考え直す時が来ているような気がするんですが、「新しさ」と「流行」がいつの間にか入れ替わってしまっていることを見ようとする人がほとんどいませんから(そこに向き合ってしまうと「芸術の場」に居づらくなるというシステムになっていますから)、けっきょく「流行を追うこと」に終始する羽目に成るわけです。

つまり、『十年先を行っている』ということも『十年先の流行を追っている』にすぎないわけですね。


まぁ、取り敢えず、『本物はあとに成ってから評価される』と言う伝説はもう「迷信」に成っているということですね。

ただ一つ言えることは『今、評価されているモノは本物の芸術ではない』ということだけですね。
目的が違ってしまっているわけですから、当然といえば当然です。


いま評価されているモノは「流行」ですね。

まぁ、そう言って間違いないんじゃないですか?

そこを目指しているわけですから。


そんな風に思いますね。