「差」はない、「違い」はある
この記事は私がメイン・ブログにしているトップページ - 「芸術の20世紀 喪失宣言」からの転載です。
いろいろなものごとにおいて全般的に言えることですけど、「差」はないけど「違い」はあると私は思っているわけです。
つまり、全てのモノゴトは、どんなことであっても「上・下」の「差」はなく、「横並び」の「違い」はあるということです。
そして、もう一つ、『「差」は自分の中にだけあって「違い」は自分の外にもある』ということもあると思います。
これは、自分がやったことの中には、『これはいいなぁ』と『これはダメだなぁ』ということがあるけど、自分以外のことで、そういう「上・下の差」をつけてもあまり意味がないということです。
それは、ただの「好み」ですからね。
やっぱり、「好み」は「上・下」というよりも「横並び」のチガイなんじゃないかと思います。
お互いの「好み」を
『こっちが上だ!』
「いや、こっちはもっと上だ!!」
と言い合ってしまったら、ほとんどの話ができなく成ってしまいますからね。
それを「横並びの違い」ということにすれば、「上・下の差」がなくなりますから、お互い理解し易くなって話が出来そうな気がしてくるわけです。
そして、尚且つ「違い」については、ただ単に『ある』というだけでなく、『ほぼ必ずあるモノだ』ということにしてしまえば、そういう「相互理解」の幅が広くなるだろうと思うわけです。
人と交流する場合に、どうしても「共通点」を見つけ出そうとしてしまうわけですけど、実際には、そういう「共通点」がある人と話が合うとも限りませんし、「共通点」が無い人とは話が合わないというわけでもありません。
多くの人が、「共通点」を通して人と交流しようとしていますし、実際にそうしていることも多いでしょうが、そういうのは、世間一般に刷り込まれている情報を受け入れている「度合」が一致している人同士が、その「植え付けられた共通概念」を「自分たちの共感」と誤解して、ごく表面的な付き合いをしているだけだと思いますね。
そして、それを「友達」だとか「親友」だとか、場合によっては「夫婦」のような「深い関係」に置き換えてしまっているんだと思います。
実際、「友達」だからと言って、その人が考えていることをどの辺まで理解しているのか?ということに成ると、『よく考えたら、その人の内面は全然わかっていなかったのかも?』っていうことはよくあると思うわけですね。
それは「夫婦」だって同じだと思います。
「夫婦」でも「友達」でも「共通点」の部分は良く知っているでしょうし、それなりに理解しあっているかもしれませんが、ここで言っている「違い」についてとなると、『サッパリわかりません』と言うことが多く成ってしまうわけです。
(というか、わかろうという気がない)
そして、実際には、その「共通点」というのは「誰かから刷り込まれた情報」だったりするわけで、本当なら、人の考えが合致することなどあり得ないことだと思います。
その「違い」を「横並びの違い」と考えれば受け入れられますが、「上・下の差」と考えれば、「見下すか・ヘツラウか」という二者択一しかないわけで(あくまで、厳密に言えばということですけど)、、そうなると、もう「友達」という関係とも言い切れなく成ってしまうわけですし、「夫婦」の中は「ビミョーな冷戦状態」に突入していくわけです。
だから、そういう「一触即発」を避けるために「刷り込まれた共通概念」を「自分たちの共感」であるということにして、なんとなく「友達」や「夫婦」を演じ続けていくわけです。
でも、「違い」は必ずあるモノであって、そこに「上・下の差」はないんだということにしてしまえば、その辺のところが、とてもフレンドリーになるんじゃないのかなと。
やっぱり、人間というのは一人で生きるのが難しく出来ているように思いますから、「人と人の違い」を「上・下の差」としてではなく「横並びの違い」として受け入れていった方が、少しイイんじゃないのかなと。
そして、「自分の中の違い」については、ちょっとガンバッテ厳しく「上・下の差」を見ていけば、もう少しイイのかなと。
ワタクシは、そういう風に思いますです。