「マルセル・デュシャン」がいったいナニをしたって言うんだい?(つづき)
以下の文章は、私がFC2ブログでやっているメイン・ブログ
geijutuno20ctsousitu.blog.fc2.com
からの引用です。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
前の記事の続きです。
「芸術の20世紀」における「脱・芸術」や「芸術の断片化」という方向性が、現在までも強く影響していて、その「悪影響」の部分がだんだん大きくなってきているんじゃないか?ということです。
これは、必ずしも「デュシャンがやったこと」と言うわけでもなくて、「芸術の20世紀」全体の傾向であると言った方がいいと思いますが、まぁ、それを象徴している人物としてうってつけなのが「マルセル・デュシャン」ということですね。
これは、おそらく、「デュシャン」がやらなくても誰かが同じようなことをやっていたことなんだと思います。
そうなんですねぇ、こんなに、突飛なことなのに、なぜか、『「マルセル・デュシャン」がやらなくても誰かがやったに違いない』と思えてしまうんですねぇ。
ここにこそ「芸術の20世紀」を象徴する「落とし穴」があると思うわけです。
「デュシャン」がやったことを『彼がやらなければ、他の人がやったに違いない』と思うか思わないかは、人それぞれの自由だと思います。
むしろ、重要なのは『そう思えてしまう』ということです。
つまり「デュシャン」がやったことと言うのは「誰でもできてしまうようなこと」だったということですよね。
『いやいや、そういうことがなかなかできないんだよ!キミィ』
そうかもしれませんね。
いや、確かにそうだと思います。
でも、思いつきさえすれば「誰でもできてしまうこと」ではあったというのは事実なわけですね。
少なくとも、「努力」も「技術」も「能力」も、「アイデア(コンセプト)」以外は何も必要なくできてしまう、そういうことではあったわけです。
まぁ、これは当然と言えば当然のことで、「脱・アカデミズム」を目指していたわけですから、「アカデミズム」が主に提供していた「技術」や「能力」などを否定するようになるのは、成り行き上当然だったんだと思います。
ただ、その代わりが「アイデア(コンセプト)」でよかったのか?ということが全く問われずに、フリー・パスで通ってしまったことに問題があるわけです。
「保守派」対「革新派」の間では、それについての「問答」があったんでしょうが、問題なのは「革新派」同士の中での「問答」がなかったと思われることです。
「保守派」対「革新派」という対立の構図だと(「やや保守派」や「やや革新派」も含めてですね)、「技術」や「能力」に戻るのか?それとも、それらを捨てて「アイデア(コンセプト)」で行くのか?という二者択一になってしまいます。
その結果、「現代美術」は「アイデア(コンセプト)重視」を選択し、今日に至っているわけですが、本当は、「技術」や「能力」を捨てていこうとするうえで、『その代わりにナニを選択すべきなのか?』と言う「問答」が必要だったんだと思うわけです。
「マルセル・デュシャン」と言う人物が「アイデア(コンセプト)」と言う代替物を提示してきているけど、『本当に、これでいいのか?』それとも、『他に、「ベターなナニカ」があるのか?』さらには、『今後も常に、「ベストなナニカ」を模索し続けていかなけてばならないんじゃないのか?』というような「問答」の部分が全部抜け落ちてしまって、「アイデア(コンセプト)重視」が「問答無用」で選択されてしまったわけなのです。
そして、それが百年以上もたった現在に至ってもまだ続いているというわけです。
これを言うと、必ずと言っていいほど『いや、キミもう「コンセプチュアル・アート」なんて影響力ないよ!何を今さら言ってるんだい?!』というようなことを言う人が現れますが、それこそが完全に「洗脳」されている証拠だと思うわけです。
要するに、一昔前ほどはっきりした「コンセプチュアル」ではなくなったというだけで、現在も、「コンセプチュアル」な方向性は根強く残っていると思います。
というよりも、そういう方向性をまったく示さないモノが現代美術として評価されることは、ほとんどないと思います。
むしろ、潜在化したために、より深く浸透しているともいえるでしょう。
だからこそ、影響を受けているのに『影響なんてもうないよ!』と言う人がたくさんいるんだと思います。
まぁ、それはともかくとして、「アイデア(コンセプト)」の何が問題なのか?ということです。
ここで、「断片化」が出てくるわけですね。
「印象派」は「絵画」を「光」という切り口で切って、その切り口をパックリと開いて見せることで、「より強い印象」を生み出すことに成功しました。
これは大方の人が認めるところでしょう。
これを、「断片化」と呼ぶことに賛同する人がどれほどいるのかわかりませんが、こういった、「一面を強調して見せるというやり方」が、あるモノを全体像として見せるのではなく、一つの部分だけを取り出して見せるという手法であることは確かなことですから、それを「断片化」と呼ぶことが出来ると、私は思っているわけです。
そして、この「断片化」と言う方向が「芸術の20世紀」全般に影響を及ぼし続けたんだと思うわけです。
「トイレの便器」と「印象派の絵」ということだと、一見、繋がりがあるように見えないわけですが、この「断片化」と言うキーワードで手繰っていくと、そのつながりが見えてきます。
つまり、どちらも「芸術の全体像を見せる」のではなく、「芸術のある一面を強調して見せる」という部分が共通しているわけです。
そして、これこそが「芸術の20世紀」の特徴でもあり、「アヴァンギャルド」の特徴でもあり、「マルセル・デュシャン」の特徴でもあるわけです。
要するに、「現代美術」と言われるもの全般の特徴であるということだと思います。
※「印象派の絵」が『絵として調和していない』と言っているわけではあ
りません。
しかし、それは「印象派」が「調和」を完全に捨てられなかったからで
あって、「調和」よりも「一面を強調すること」を選択したのは確かな
ことでしょうし、そのことによって「より強い印象」を生み出すことに
成功したのも確かなことでしょう。
だからこそ「印象派」は登場してきたときに「調和」を重んじる「アカ
デミー側」から強く批判されたんだと思います。
そして、この「断片化」=「強調手法」が、「芸術の20世紀」で起きた出来事の中でも、最もその影響が顕著なものであると私は思うわけです。
そして、さらに言うと、この「断片化」こそが、現在に至って悪影響を及ぼすことに成って来ている元凶でもあると思ってしまうわけなのです。
ここで一つ断っておくと、「強調すること」がワルイと言っているわけではありません。
「一つの面を強調すること」は作者がどのような方向で物事を捉えているのかを明示することに成りますし、作者の「その人性」を表現する手段にも成るものだと思います。
しかし、「全体と完全に切り離された断片」だけで見せるということは、単なる「強調」ではなく「極化」であると思うわけです。
「カルト化」と言ってもいいでしょう。
この「極化」=「カルト化」の発端に成ったのが、「マルセル・デュシャンのトイレの便器」だったというわけです。
ここで、また長くなってしまったので、次の記事に続けます。
まぁ、読んだ人はトンダ災難ということで。