私は、そんなわけで20世紀をやめました

20世紀のシッポを切り落とすために出来ることを考えます。 20世紀を辞めたら、もしかすると21世紀に就職出来るかもしれない。 いや、もう一度20世紀をやり直せばいいのさ。 もしも、20世紀をやり直せるとしたら、きっと面白いことに成るよ!

「芸術表現の多重化」

この記事は私がメイン・ブログにしているトップページ - 「芸術の20世紀 喪失宣言」からの転載です。

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私は「芸術表現」が、「多重化」の方向を取るように成って行くんじゃないかと思っているわけです。


現在、「表現形態」を交配(ミックス)することが盛んに行われていますけど(コラボレーションと言われるような)、それも一種の「多重化」ではあると思うのですが、ここで言う「多重化」は、出来るだけ「表現形態」自体は広げずに(混ぜずに)、既存の「表現形態」の中で『多重化する』という方向性のモノです。

 

 ※ここでは「絵画」とか「文学」とか「音楽」といった独立した別のジャンルを
  混合するという発想ではなく、「タイトル」や「額」と言った、作品に従属する
  モノとして、独立した価値が認められていないものの中に、作品をフォロー
  (補完)するものとしての価値を生み出して行くことを「表現の多重化」と呼
  んでいます。

  ただし、「音楽」などの独立した価値を認められているものでも、B.G.Mや「映画              

  音楽」のように、主と成る表現があって、それを補完するという形をとっているも 

  のについては含めて考えています。

 

どうして、「メディア=表現形態」を広げないのか?と言えば、『薄まってしまうから』です。

つまり、「メディア」を広げていくということは、より広い領域に「表現」を投げ入れるということであって、その広い領域で表現されたものと言うのは、そのフィールドの広さによって薄められてしまうだろうと思うわけです。

だから、どうしても、初めて、その「ミックスされた表現形態」に出会ったときには、目を惹きつけられても、二度三度と見ているうちに、「そのミックス」に見慣れてくると、「その薄さ」だけが目に付くようになってしまい、けっきょくは見飽きてしまうような気がします。

要するに、「メディア=表現形態」をミックスするという形をとると、どうしても、「ミックス」が中心になって、「表現」が置いて行かれてしまう傾向があると思うわけです。


そこで、限られた「メディア」の中での「多重化」ということに成るわけですが、「絵画」なら「絵画」、「彫刻」なら「彫刻」と言う、完全に従来型の既存の「メディア」の枠をなるべく崩さずに、「多重化」していく方向を模索する必要があるんじゃないかと思うわけです。

もちろん、「絵画」を「平面」と言い換えたっていいでしょうし、「彫刻」を「立体」と呼んでも、何の差支えもないわけですが、出来るだけ(あくまで、出来るだけです)、「表現形態の交配」自体を表現の中心にしないということですね。


つまり、同じことをするのでも、『ここに〇〇を使っているところがオモシロイ』とか、『〇〇と〇〇を掛け合わせているのが独創的』みたいに、「メディアの交配」自体が、その表現の一番の特徴になってしまうことは避けた方がイイと思うわけですね。


ここでいうところの「多重化」は、メディアの種類を重ねて表現の領域を広げることではなく、同じ広さの中で、『どこまで表現を重ねていかれるか』という方向に成ります。
つまり、「メディアの多重化」ではなく「表現の多重化」ということです。

なぜ、表現を「多重化」するのか?さらには、なぜ限られた「メディア」の中で「多重化」するのか?と聞かれれば、それは「密度を高めるため」と言うことでしょう。


美術の場合「作品」は、「物質」であるべきだと思っております。

 ※「コンセプト」や「パフォーマンス」などの「非物質」を「美術」とするのは、
  やや本質から外れているように思いますし、それは、「メディアの交配」と
  同じく「薄めること」につながると思っています。

「物質」と言うのは、「大きさ」と「密度」によって、「質量」が決まってくるわけで、基本的に「小さいわりに重いもの」つまり「密度の高いもの」が、「美術」には向いているんじゃないかと思います。

ただ、これを上手く説明する言葉はちょっと思いつきません。
上手い表現ではないかもしれませんが、「手ごたえ」とか「圧力」みたいなものでしょうか?


取り敢えず、「密度」を高めるためには、限定されたスペースの中での「多重化」ということに成るんだと思うわけです。
それで、いろいろな意味で、スペースを絞って、その中で、「重層的」にして行くことが求められるようになっていくと思うわけです。


単純に言って、「芸術作品」は、大きく成りすぎているような気がします。
また、、「メディアの交配」についても、それ自体を表現の中心にすることで、限りなくスぺースを広げてしまっています。
「芸術」に関する「イベント」なんかも、スペースを広げる傾向にあるように思います。

大きな「イベント」でも、どこか漠然としていて、集まった人たちに共通の意識がないというのは、良い面と悪い面があると思いますが、現状の、意識の希薄さはあまりイイモノでもないように思います。


そういったこと全体において、スペースを絞り込んでいくことが必要になってくるんじゃないかなと。
そして、その限られたスペースの中で、如何に「多重化」していくかということが問われていくようになるんじゃないなと。


そんな風に思っているわけです。・・・・・・次につづく