私は、そんなわけで20世紀をやめました

20世紀のシッポを切り落とすために出来ることを考えます。 20世紀を辞めたら、もしかすると21世紀に就職出来るかもしれない。 いや、もう一度20世紀をやり直せばいいのさ。 もしも、20世紀をやり直せるとしたら、きっと面白いことに成るよ!

「芸術を定義すること」は不可能?

この記事は私がメイン・ブログにしているトップページ - 「芸術の20世紀 喪失宣言」からの転載です。

f:id:nakafutatu:20210609144656p:plain

 

現在、「芸術」と言われている分野は、「それぞれの人の、それぞれの芸術」としては存在して居ますが、それは、実を言うと「あってないようなモノ」と言っているのと同じことだと思います。

 

『誰でも、どんなふうにでも、芸術を定義していいんですよ。それはそれぞれの人の自由ですから』

 

これは、一見すると自由なことのように見えますが、すべての責任を「個人」に丸投げしているともいえます。

確かに、「芸術」のようなものを定義することは難しいことだと思いますし、それは、結果的には不可能なのかもしれませんが、だからと言って、「丸投げ」してもいいということではないと思います。

 

そこのところを、なんとか考え続けて行かないと「芸術」は消えてしまうんじゃないでしょうか?

「芸術」を何らかの「定義」で規定しないと、「芸術」はどんどん薄まって霧散してしまうのではないでしょうか?

もちろん、キチキチに「定義」しようということではありませんし、そんなことできないでしょうが、それをなんの規定もなくほったらかしにしていることの言い訳にしていていいんでしょうか?
それを、今後いつまで続けるんでしょうか?

 ※これは、人の人生に決定的な影響を与えるようなジャンルとしての「芸術」の話です。
  「エンターテイメントとしての芸術」の話でも、「インテリアとしての芸術」の話でもありません。
  つまりは、『今でも感動は求められているのか?』という話ですね。


『芸術が無くなるなんてことあるわけ無いよ』
『それはいくらなんでも大袈裟だろ』
そうでしょうか?・・・本当に?

規定されないもの、指標を失ったものというのは、大抵消滅していくのではないのでしょうか?


こんなことを言っていながらなんですが、もしかすると「芸術」は昔ほど必要とされていないのかもしれません。
本音の話をすれば、多分、昔のほうが現代よりも「芸術」を必要としていた人の比率は多かったような気がします。

「芸術」が庶民の手の届かないところにあったのも事実なのでしょうが、それでいて、昔の方が、少なくとも一般庶民にとっては「芸術」が切実な意味を持っていたような気がします。

現在、「芸術」は、一般的な人から切実に必要とされているのでしょうか?
少なくとも、私は美術館で感動に打ち震えて動けなくなっている人や、人目をはばからずに涙を流してひざまづいている人を一度も見たことがありません。

『それは飛躍しすぎだろう』と思うかも知れませんが、この話を100年前の寺院の仏像や教会の祭壇画に置き換えた場合、それほどの違和感は感じなくなってしまうでしょう。
いや、むしろ、それは全く違和感のない「日常的な風景」として考えることもできるようになってしまうのです。

まぁ、昔のことは、今となってはもうわからないことなわけですが、じゃあ、現代はどうなのかということです。
「芸術」は本当に必要とされているのだろうか?
それは、どのぐらいの人が必要としているのだろうかと。
意外と少なかったりしないのだろうかと。
そのへんが、ちょっと怪しいんじゃないのかなと。


本当にたくさんの人が「芸術」を必要としていたならば、こんなに「フワフワ」した状態になってないんじゃないのかなと。
『きっとこれは、あまり求められてないだろう?』と思うわけです。

そんな中で、指標を失った状態を続けたら、本当に消え失せてしまうんじゃないですか?


でも、こういう時代に置いても、いや、こういう時代であるからこそ、一層「芸術」を必要としている人が居るともいえるわけです。
と言うか、実を言えば、「潜在的な感動に対する欲求」は現在の方が高いくらいなのではないかと思うわけです。

確かに、現代は「感情的であること」よりも「理性的であること」、「情熱的であること」よりも「冷静であること」の方を評価する傾向があると思いますが、その裏で、その冷静で理知的な無感情が社会の中にストレスを蔓延させている時代でもあります。
そして、そのストレスから人間の精神を解放することができるのは「感動」のような強烈な心の動き以外にはないように思うわけです。

だからこそ、私はこの「無感動」を受け入れてはならないし、今こそ「感動する心」を取り戻す時のような気がします。

それならば、いま、誰かが「芸術」を定義しないと。


そんな風に思ってしまうわけですが、これは無理なことなのでしょうか?