私は、そんなわけで20世紀をやめました

20世紀のシッポを切り落とすために出来ることを考えます。 20世紀を辞めたら、もしかすると21世紀に就職出来るかもしれない。 いや、もう一度20世紀をやり直せばいいのさ。 もしも、20世紀をやり直せるとしたら、きっと面白いことに成るよ!

「著作権」は守ってくれない!

 

この記事は私がメイン・ブログにしているトップページ - 「芸術の20世紀 喪失宣言」からの転載です。

 

著作権」と言うものが、創作者の権利を守っているということに成っているわけですけれど、これは、少し違うように思うわけです。
要するに、実際には「著作権」が「創作者」の間に極端な格差を生み出してしまっているということですね。

 

例えば、現在、プロスポーツの世界などを見ても、一部の選手の報酬が度を越して高額に成ることで、そのスポーツの世界全体の首を絞めることに成ってしまうということが、起きて来ているわけです。

つまり、トップに居るプレーヤーと、その下の者との差があまりに激しいと、結果的に、その世界全体の潜在力を低下させてしまうんだと思います。

実際、報酬とは無関係のアマチュア・リーグやプロチームの下部組織のクラブチームなどが充実している場合に、そのスポーツの潜在力は高まるように思えます。

スポーツの話と、創作に関する「著作権」は一緒ではないと思いますが、「著作権」もこうした極端な不均衡を作り出してしまう傾向があるように思うわけです。


つまり、現実には、「著作権」によって守られるのは「売れる物」だけであって、「売れない物」は全く守られていないわけです。

これを言うと「負け犬の遠吠え」と取られるかもしれませんけれど、創作にしてもスポーツにしても「金になる物」と「金にならない物」の比率が、かなり偏っていることは間違いないわけで、例えば、1:100(またはそれ以上?)みたいな極端な比率になっているわけです。

その「100」を切り捨てて、「1」だけを守っているものを、その世界全体を守っているかのように言うのは、「看板に偽りあり」なのではないのかなと。


当然、みんな必死で、「1」の方に入ろうとするわけですけれど、本当は、自分が持っているものを何かの形にして表したいという気持ちでやっていることで、「1」に成るためにやっているわけではないように思うわけです。

ですから、「著作権」など「売れる物」だけを守る「権利」ではなく、底辺に居る創作者を守るような「権利」があればいいのになと、そんな風に思ってしまうわけなのです。


現在、義務教育において、「美術」や「音楽」、「文学」など創作に関わる教育を、ある意味で強制的に与えられているわけですから、国民全員が「創作の種」を蒔かれているわけですよね。

そうなると、創作を志望する者(芽を出す者)が、たくさん出て来るのは当然の結果なわけですよね。
それなのに、それに対する受け皿がないわけです。

まぁ、100分の1(またはそれ以下?)くらいの受け皿しか無いということですね。
そして「1」の方だけしか守られないわけです。

私の個人的な考えですが、「著作権」はいらないから、「経済」とは無関係な「創作できる環境」と「表現できる環境」がもっと増えればいいなと、そして、それは創作者だけでなく、みんな(鑑賞者も含めて)にとって、なんとなくいいことのような気もするかなと。


そんな風に思っています。