私は、そんなわけで20世紀をやめました

20世紀のシッポを切り落とすために出来ることを考えます。 20世紀を辞めたら、もしかすると21世紀に就職出来るかもしれない。 いや、もう一度20世紀をやり直せばいいのさ。 もしも、20世紀をやり直せるとしたら、きっと面白いことに成るよ!

『あたえられるのは 「おまえ」だけ』

 


www.youtube.com

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「詩のような題」=「ポエティック・タイトル」

 

『あたえられるのは 「おまえ」だけ』
「わたし」は だれからも あたえられない


ひとは 
「じぶん」の ことを なにひとつ きめることが できない

「じぶん」が うまれもって あたえられる
「くに」 「じんしゅ」 「ようし」 「せいかく」 「のうりょく」 「かんきょう」 そして 「じだい」
どれ ひとつ とっても 
「じぶん」で えらべる わけでは ない

「じぶん」のこと なのに


しぜんは 
それらの じょうけんを すべて けっていした あとで 
それを 
「おまえ」として いっぽうてきに わりあてて くる 


たしかに
その 「おまえ」を うけいれたと しても
それも 「じぶん」では あるだろうし
そこで すこし がんばれば きっと おきにいりの 「じぶん」が できるだろう

しかし それは 「わたし」では ない

「おまえ」を いっしょうけんめい みがいても
「わたし」には ならない

しぜんから いっぽうてきに わりあてられた 「おまえ」を
「わたし」とは いえないから


あたえられた 「おまえ」を すてた ところからが
「わたし」の はじまりに なる

あたえられた 「おまえ」を すべて うしなっても
まだ 
だれか いたら


それが 

「わたし」だ

 

 

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※『 』 の中は「題の題」のようなものです。

その絵を呼ぶのに使う「呼び名(ニックネーム)」だと思ってください。

あぁ、言い忘れてましたが、「絵の題」としてつくっています。

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※上の記事に関連することを、下のリンクでも説明しています。

 

geijutuno20ctsousitu.hateblo.jp
  

 

『バニラの そら』 『バニラの くも』

[Homesick James - The Cloud Is Crying]


www.youtube.com

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「詩のような題」=「ポエティック・タイトル」

 

『バニラの そら』に とびだして
『バニラの くも』に ただよえば

バニラの かおりに つつまれて
きっと
しあわせな きぶんに なるだろう


たとえば
つぎの しゅんかん
バニラの きりに とりまかれて
いきが できなく なったと しても

どうって ことじゃ ない

たとえば
つぎの しゅんかん 
バニラの あめに うたれて
じめんに たたきつけられたと しても

どうって ことじゃ ない

 

だって
バニラの かおりに つつまれて しねる ならば


それは
なかなか しあわせな ことじゃないか

 

 

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※『 』 の中は「題の題」のようなものです。

その絵を呼ぶのに使う「呼び名(ニックネーム)」だと思ってください。

あぁ、言い忘れてましたが、「絵の題」としてつくっています。

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※上の記事に関連することを、下のリンクでも説明しています。

 

geijutuno20ctsousitu.hateblo.jp
  

 

『Touch The Inside of Planet』

[The Silvertone Jubilee Singers - Since Jesus Came Into My Heart] 


www.youtube.com

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「詩のような題」=「ポエティック・タイトル」

 

『Touch The Inside of Planet』

この ほしと てを つなげば
わたしは この ほしの ひとつぶに なる
あなたと てを つなげば
あなたも この ほしの ひとつぶに なる

この ほしと てを つなげば
この ほしも わたしの ひとつぶに なるの かもしれない
すべてと てを つなげば
すべても わたしの ひとつぶに なるの かもしれない


わたしと てを つなげば
わたしも すべての ひとつぶに なれるの だろうか

 

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※『 』 の中は「題の題」のようなものです。

その絵を呼ぶのに使う「呼び名(ニックネーム)」だと思ってください。

あぁ、言い忘れてましたが、「絵の題」としてつくっています。

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※上の記事に関連することを、下のリンクでも説明しています。

 

geijutuno20ctsousitu.hateblo.jp
  

 

「善悪」について(17)

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どうも、こんにちは。

「善悪」についてのつづきです。

※この記事は、これで最後です。
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前の記事の

 お互いに自分の非を認めることが出きれば、罵り合う必要は無く成るんじゃないかと思います。
 とりあえず、それだけで、『私はそれを「悪」とは呼ばない』ということですね。

というところからの続きです。


ここまでの記事で、私の言葉が足りなかったり、文章がおかしかったりしたことで誤解があったかも知れませんが、とにかく、私が言いたかったのは、『もしも、それが「悪」であったとしても、私はそれを「悪」とは呼ばない』ということであり、『それでも、「善悪」という概念を捨てることは出来ないから、あえて「善悪の規準」を設定するとしたら~』ということだったわけです。

もしも、『「悪」とは~である』と言う一方的な決めつけのような話だと感じた方がいらしたならば、お詫びして訂正いたします。

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さて、最後に「否定」と「完全否定」について書いておこうと思います。

「否定」や「完全否定」は、この「善悪」についての記事とは、あまり関係がないように思えるかもしれませんが、私は「自己正当化」によって生み出されるものの中でも、「完全否定」と言う状態がどう考えてもいいものだと思えないので、それについて触れておこうと思いました。

まず、私がここで「完全否定」と言っているのは、「自己否定や他者肯定を含まない他者否定」のことです。
(ややっこしいですが、三回読むとわかります)
つまり、「自己を完全に肯定したうえで、他者を完全に否定すること」を「完全否定」として考えています。
いわゆる「人格否定」とだいたい同じモノだと考えていただいていいと思います。
(人間のことに限定した話だと思っていただいた方がいいかもしれません)

  ※「自己否定」においては「完全否定」は成り立たないと、私は思っています。

   「自己否定」の場合も「他者を完全に肯定したうえで、自己を完全に否定す
   ること」は、一種の「完全否定」ではあると思いますが、その主張を行ってい
   るのが「自己」であるということ自体が、「一つの自己肯定」=「自己の存在
   を肯定する行為」であるために、「自己否定」においては「自己肯定を含ま
   ない完全な自己否定」は成立しないというのが、私の考え方です。


「自己正当化」が習慣に成ってしまった人は、必ずと言っていいほど、この「完全否定」=「人格否定」の形に行き着きます。
「自分が悪いと思っていること」をやって、さらに、それを「正当化」してしまうという「論理の捻じ曲げ」を繰り返していると、どうしても、「自分の中のすべて」が『正しいことであるべき』と言う心理状態が出来上がってきます。

「自分の中」に一つでも「正しくないもの」があると、そのことについて、間違いを認めたり、あやまったりしなくてはならなく成りますから、「自分の中の非」を認められない状態に成った人は、必ず、「全ての自分」について『正しい』と言う主張を繰り返すように成ります。
さすがに、あからさまに『私は絶対に正しい!』と言い切る人はなかなかいません(それを言うと「自己正当化」が明らかに成ってしまうので)が、基本的に『私が間違ってました』とは言えなく成っていきます。

そうなると、その人の中には「完全無欠の自分」と言う「偶像」が形成されることに成ります。
一度「偶像化」した「自分」は本人にも崩せなく成ってしまいますから、それは「完全無欠」であり続けなければならなく成ってしまうわけです。

そう成った後は、当然、その「完全無欠であるべき自分」に逆らう者が現れた場合、それを「完全否定」するしかありません。

その時点で、相対的で普遍性のある「善悪」という概念は消えて、すべての人を「完全な自分」と「それに従う他者」と「それに従わない他者」と言う三者に分類するように成ってしまいますから、「完全な自分」と「それに従う他者」が「善」で、「それに従わない他者」は「悪」と言う「絶対的な善悪」の判断が、まったく当然のことのようにしか思えなく成り、それを本人にも止めることが出来なく成ります。


しかし、よくよく考えてみると、世の中に「完全なもの」なんてありません。
逆に言うと「一分の利もないもの」もありません。
だから、「完全な肯定」も「完全な否定」も、有り得ないものであって、それは、「空論」に過ぎないものでしょう。


つまり、「自己正当化」=「完全な自己肯定」も「人格否定」=「完全な他者否定」も、無意味で実体のない「空論」であるとしか言いようがありません。


これを「悪」と呼ばずして、他に「悪」と呼べるものを、私は思いつきませんから、これを「悪」と呼んでいるわけですね。

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さて、この「完全否定」と「ただの否定」の違いです。

ここにも「二極」があって「肯定」と「否定」が両立していることによって物事が成り立っています。
だから、「完全否定」も「完全肯定」もないということは、当然のことですし、何時如何なるものも「肯定的な側面」と「否定的な側面」が両方とも同時的に両立していて成り立っているということに成ります。

ところが、現在は「ポジティブ」や「前向き」という言葉だけが全面的に支持されていますから、「ネガティブ」や「後ろ向き」な考え方は、ほぼ否定されてしまいます。
しかし、これはどう考えても、おかしなことで、『「否定」だけは否定していい』というのは、どう考えても自己矛盾に成っていますよね。

それに、実を言うと「ポジティブ」と言うと聞こえはいいんですが、「ポジティブ」と言うのが「肯定」と言う意味だとすると、それは、「現状(既存)の肯定」を意味することに成りますが、だとすれば「ポジティブ」からは、新しいものが生まれないということに成ります。

実際に、新しいものを生み出すのは「否定」=「ネガティブ」に他なりません。
「現状(既存」のナニカ」を「否定」するから、そこから新しいものを生み出して行こうというエネルギーが生まれているわけで、「肯定」と言うのは、意外と「怠惰」なことなんではないでしょうか?

でも、私は、「ポジティブ」が悪いと言っているんじゃありません。
ただ、ここでも「二極」が両立していないと、実体とは成らないということです。

「ポジティブ」と「ネガティブ」が両方あって、はじめて、どちらも機能するわけで、どちらか一方であれば、それは無意味でしょう。


こんなことから、「否定=ネガティブ」は必要だと思いますが、上に書いたように「完全否定」は無意味だと思います。
当然、「完全肯定」も無意味です。

そして、「自己正当化」によって、その両方が産み出されてしまうというわけです。

だから、これを「悪」としてもいいんじゃないかな?と思っています。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

さて、最後に成りましたが、「善悪」と関係が深いと思われるいくつかの言葉の、私なりの解釈を述べておきます。


1,「差別」と「平等」

私は、何が嫌いか?と聞かれたら、迷わず「差別」と答えると思います。
なぜなのかは、自分でもよくわかっていないんですが、とにかく嫌いですね。

私の解釈では、「差別」と言うのは、実際には存在していない「上下の差を創り出す行為」のことです。
つまり、「差別」と言うのは「天王星」と「冥王星」のどちらかを「エライ!」と言っているようなことであって、まったくもって無意味なことだと思います。
それと、「〇〇人」と「〇〇人」のどちらかを「エライ!」ということは、私から見たら、ほとんど同じことにしか見えませんね。
これは人間でなくても全く同じことです。

「差別」を「悪に近いもの」だとするならば、それに対応する「善に近いもの」は、おそらく「平等」ということに成るんだと思います。
しかし、この「平等」が「均等」や「同等」や「公平」ということと区別されていませんね。

私の解釈では、
「平等」は「同じ高さに置かれたものが、すべて違うモノである状態のこと」です。
「均等」は「チガウ高さに置かれたものを、すべて同じモノにしようとすること」です。
「同等」は「もともとほぼ同じモノのこと」です。
「公平」は「公が、上から与える平等のこと」です。

私はこの中で、「差別」の対極にあるのは「平等」だと思っています。


2.「権力」と「権利」

「権力」と「権利」は、実際にはほとんど同じものだと思います。
「強者」が持てば「権力」と成り、「弱者」が持てば「権利」と成ります。
しかし、「弱者の権利」も、たくさん使われると「権力」と成ります。
だから、「権利」を使う必要がない状態が、理想だと思います。

そして、それは「権力」が無い状態です。
「権力」がある限り、それに対抗する手段としての「権利」が必要に成りますし、それは使われることを前提として存在することに成りますから。


そして、現在、最も強い権力とは「有名であること」です。
(これは、「目に見えない権力」ですが、「絶大な権力」だと思います)

だから、私は「有名性」と言うモノがなくなればいいなと思っています。


3.「強者」と「弱者」

「強者」と「弱者」の関係は、絶対的な関係ではないと思っています。
従って、「絶対的な強者」も「絶対的な弱者」も居ないと思います。

例えば「社会的な強者」とか「経済的な強者」とかと言うように、シチュエーションによっても別の「強者と弱者」が居るでしょう。

いずれにしても、「強者」に対して、それよりも弱い者を「弱者」と言うんだと思います。

これも、本来は存在しないはずの「上下関係」が人間の意識の中で捏造されている場合が非常に多いと思います。
本来は「強者」が上で「弱者」が下ということはないはずなんですが、どういうシチュエーションであっても、必ず「強者」は上に置かれて、「弱者」は下に位置付けられます。
(と言うか、この場合は結果的に「上に置かれた者」を「強者」と呼んでいる場合が多いですね)

従って、「上下の差」を緩和するためには、常に「弱者」が優遇される必要が出て来ます。
私は、それを「善」と呼んでも差し支えは無いと思います。

私は、人類と言う「種」は、地球上ではじめて「弱いこと」を尊重するという進化の形を選択しつつある「種」だと思っています。
だから、「人類」にとっては、「弱いこと」は、もう「マイナス要素」ではなく成りつつあるんだと思います。

そんなことから、私は、「弱者を尊重すること」を、一種の「善」と考えてもいいような気がしています。


4.「美しさ(犠牲)」と「醜さ(保身)」

「善悪」なんて言ってますけど、突き詰めて考えていくと、けっきょく残るのは「美しさ=善」と「醜さ=悪」と言うことしかないような気がするんですよね。
『これこそ「善」なるものである』と考えても問題が生じないものと言うのを考えていくと、最終的に「美しさ」しか残らないような気がしますし、『これこそ「悪」なるものである』と考えても問題が生じないものと言うのを考えていくと、最終的に「醜さ」しか残らないような気がするんですよね。
(と言っても、『『問題がな』いというでけですけど)

もちろん「外見的な美醜」のことではないですけどね。
もしも、「本質的な美醜」と言うモノがあるのならば、それを「善悪の規準」と置き換えても、ほぼ問題はないような気がします。
(じゃあ、この記事もそっちの話でよかったんじゃないか?まぁ、この記事は、それをもう少し具体的に言うと「自分が悪いと思っていることをすること」辺りが境目に成るのかな?ということです。)


その上で、あくまで人間について言うと、私は、人間にとって唯一の「美しい行為」とは「自己犠牲」だと思っています。
そして、人間にとって最も「醜い行為」が「自己保身」だと思っています。

『ナニカが出来るか?出来ないか?』ということとは必ずしも関係ありません。
もしも『ナニも出来なかったとしても』そこに「犠牲」が払われるということが「美しいこと」だと思います。
逆に言うと、どんなに立派なことをしたとしても、「犠牲」が払われていない場合は『美しくはない』ということですね。

まぁ、実際には、『人間には何も出来ない』と思っていますから、「自己犠牲」を払った時くらいしか、人間が美しく見える瞬間なんて無いと思うということですけどね。

そして、その「自己犠牲」から、最も離れた行為が「自己保身」だと思いますので、それを「最も醜い行為」だと思うわけです。
そして、さらに言えば、「自己正当化」と言うのは、人間の行いの中でも最も「自己保身的な行い」だということですね。

つまり、「自己保身」の最上級が「自己正当化」だと思うわけですね。


5.「自然」と「人工」

「善悪」と言うのは、もともと人間が創り出した概念であって、「自然法則」や「自然の摂理」のようなものの中には、含まれていないのかも知れません。

そういうことを前提にして、それでもあえて言うと、
「自然」と人間を対置させて考える時、「人間の行い」を「人工」と言い、「人間以外の存在」における「法則」や「摂理」を「自然」と言っているんだと思いますが、もともと、人間が「善悪」という概念を生み出した理由は、おそらく、この「人間の行い=人工」を「悪」と見立てて「自然」を「善」と見立てることによって、「自然信仰」が成り立っていたということがあるんじゃないかと思います。

まだ、「科学」と言うモノが無かったころ、人間にとって「自然」は「絶対的な存在」だったと思われます。
だから、「自然」が「信仰」の対象に成ったのは当然のことだったでしょう。

つまり、「自然」は、その当時の人間にとって「絶対的な善」であったと言ってもいいと思います。
もちろん、「自然」が人間にとって「いいこと」ばかり与えてくれるわけではありませんが、それに逆らっても完全に無駄な相手がある時には、それが如何に暴力的なモノであっても、それに従わざるを得ない者にとっては、それを「善」と考えるしかないんだと思います。

そういった「自然界の構図」の中で、小さな存在であった人間が「善悪」という概念を生み出したと、私は思っています。


つまり、「人間の行い=人工」が「悪」を犯して「自然」の怒りをかうことで天災のような災いが起きるというストーリーを立てて、人間が「自然に対する恐怖」との折り合いを付けていたんじゃないかと思うわけです。

これは、一見するとかなり飛躍した話のように思われてしまうかも知れませんが、「信仰」と「善悪」ということを考えれば、それが密接な関係にあることは一目瞭然です。

そんなことから、私は、「善悪」という概念は、始まりの時点から、「人間の行い」を「悪」と設定するところに「原点」があると思っています。
これは、人間が「動物の行い」や「自然現象」などの「人間の行い以外の物事」に対しては、それが、どんなに人間に対して暴力的であっても、なぜか「悪」を感じないことでもわかることだと思います。


要するに、「自然」は初めから、設定が「善」であり、「人間の行い=人工」は初めから、設定が「悪」なんだと思うわけです。


この記事を通して、私が書いてきたのも、そこの所をはっきりさせたうえで、『もうそろそろ、そういう考え方から逃れて、人間の行為の中で「悪」と呼んで差支えのないモノはどれなのかと言うことを考え直してみてもいいんじゃないのかな?』ということです。


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最後の最後に、私が創っている「詩のような題=ポエティック・タイトル」と言うのがあるんですが、その中で、この一連の記事の内容に関連したものを引用しておきます。

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<a href="http://geijutuno20ctsousitu.blog.fc2.com/blog-entry-1501.html" target="_blank" title="『つみを つくり その つみを おかす』 『つみを おかし その つみを つぐなう』">『つみを つくり その つみを おかす』 『つみを おかし その つみを つぐなう』</a>
(上のタイトルをクリックすると元の投稿に行きます。そちらには「絵」と「曲」もあります。)

    ◇           ◇           

『つみを つくり その つみを おかす』
『つみを おかし その つみを つぐなう』

しかし
けすことは できない
おかした つみを 
けすことは できない

しかし
つくらずに いることも できない
つみを 
つくらずに いることも できない

しかし
おかさずに いることも できない
つくりだされた つみを
おかさずに いることも できない

ひとは そんな ふうに できている


あとは

ただ ひざまづいて 
ただ ひれふして 
ただ つみを みとめて


できるのは

ただ 

それだけ


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こんな記事にお付き合い頂いて、どうもありがとうございました。

こんなの読んでくれた「あなた」は、きっと「善人」ですよね。

 

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※この記事は私がメインでやっている下のブログからの転載です。

 

「善悪」について(16)

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どうも、こんにちは。

「善悪」についてのつづきです。

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前の記事の

 ただ、この二種類の「善悪」は、きっちり線を引いて分けられるものではないと
 思いますので、どうしてもそうなってしまいます。

というところからの続きです。

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まず、私が「善悪の規準」を「自分の内側」に設定する理由です。

それは、なんと言っても、これまでの記事にも書いてきたように、「自分の外側」に「善悪の規準」を設定した場合、「善悪」についての判断が、あまりにもコロコロ変わってしまうんですね。

とにかく世の中の状況が変化するたびに、完全に正反対の「善悪」が現れてきてしまうこともありますから、それを「善悪」と言う意味が非常に薄く成ってしまって、「善悪の規準」があることによって、かえって「善悪」という概念が無意味化するという本末転倒が起きてしまうということが、私が、「自分の外側」に「善悪の規準」を置かないようにしている理由です。

もちろん、「自分の内側」に「善悪の規準」を設定したとしても、それが、完全に不動であるということはありませんし、所詮人間のすることですから、「ブレ」があるのは当然ですが、それでも、一人の人間の中の「善悪」と言うのは、そう簡単に正反対に逆転するようなことは無いと思います。

そういうことで、私は自分の「善悪の規準」を「自分の内側」に設定するようにしているというわけです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

でも、これは「善悪」に限ったことではなく、他のことについても同じで、いろいろなことを「自分の外側」との関係として考えていくよりも、「自分の内側」のこととして考えていくことは、けっこう役に立つような気がしています。

現実の生活を生きていくうえで、「自分の外側」=「他者」との関係は必要不可欠なものですし、それ自体を軽視するつもりはないんですが、それは必要であるがゆえに、とくに意識していなくても、ほとんどの人がよく考えている場合が多いので、あえて、それ以上に考えることもないような気がするんですね。

でも、「自分の内側」を見つめるという作業は、やらなくても生きていくには困らない場合が多いので、やらない人はまったくやらなく成ってしまいますし、現実の生活の忙しさなどに追われていると、ついつい、やらなく成ってしまうと思うので、意識してやっていかないと、いつの間にかおろそかにされて、まったくやらなく成ってしまうモノなんだと思うので、少し意識してやっていくといいように思いますね。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

まぁ、こんなことから、私は「善悪の規準」を「自分の内側」に設定しているということなんですね。

そして、その「自分の内側」における「善悪の規準」を「自分が悪いと思っていることをすること」だと思っているわけです。
ただし、前にも書きましたが、「自分が悪いと思っていることをすること」を「悪」としてしまうと、ほぼすべての人が「悪人」に成ってしまうような気がするので、もう少し「善悪の規準」を甘くするために「自分が悪いと思っていることをして、さらに、それを正当化すること」を「悪の規準」として設定しているということなんです。


そして、その「自分が悪いと思っていること」を把握するために、必要になってくるのが「潜在意識」とか「深層心理」とかと言われる心の領域だということです。

さらに、その「潜在意識」や「深層心理」は、本人にはとても見えにくいものであり、かなりじっくりと見つめ直していかないと見えてこない部分が非常に多いということを、ここまで書いてきたわけです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

おそらく「潜在意識」や「深層心理」と「表層の意識」との区別がハッキリしているのは、人間だけだと思います。
そして、なぜ、人間の「潜在意識」や「深層心理」だけが、こんなにも奥深く埋め込まれてしまうのか?と言えば、人間が「親」や「社会」や「学校」などによって、ごく幼い時期から、「教育」を受けるからだと思います。

もちろん、人間以外の動物も「親」からは「教育」を受けますが、それは「生きるための最低限の情報」を与えられるだけで、それ以上の「オプション」はありません。
だから、そういう「オプション情報」で心の表層が覆いつくされてしまうということはないのだと思います。

それに対して、人間の「教育」は、基本的に「文字情報(=人間にしか通用しない情報)」がほとんどですし、「学校」や「社会」や「親」が、長年にわたって刷り込み続ける「情報」は、必ずしも「生きるための最低限の情報」とは限りません。
と言うよりも、「生きるため以外の情報」がほとんどだと言ってもいいでしょう。

つまり、人間の場合は、大量の「オプション情報」が、心の表層を覆いつくしてしまっているために「オプション」よりも遥かに大切な場合もある「基本情報」が見つけられない状態に成っていることもあるということですね。

「オプション情報」は、ほとんどが「文字情報」=「論理的な情報」です。
そして、それが、人間の「判断」や「行動」を狂わせる原因と成っている場合が非常に多いと思います。
「基本情報」が見えなく成ってしまうから、判断が狂ってくるということですね。

  ※ここで「基本情報」と言っているのは、人間の中で「非論理的な部分」
   である「感情」や「感覚」に基づいた「情報」などですね。


だから、「オプション情報」が多く成りすぎている人は、それを、少し捨てないと、埋もれてしまった「基本情報」を見ることは出来ないと思います。

  ※ただし、ここで『捨てる』と言っているのは、完全に消去してしまうことではなく、
   『「オプション」は所詮オプションなんだ』と認識するというような意味です。
   つまり、人間の場合、「オプション的な情報」の方が「基本的な情報」よりも、上
   に位置付けられてしまっているケースが非常に多いので、「オプション情報」の
   価値が過大評価されているわけですね。
   それで、結果的に「自分が悪いと思っていること」のような「基本的な情報」が、
   おろそかにされてしまうという本末転倒が起きてしまうんだと思います。

ハッキリ言ってしまうと、これは、けっこう難しいと思います。
なぜならば、「オプション情報」と言うのは、「教養」とか「知性」などのように「社会的に有用なもの」に分類されていることが多いですから、当然、その人の社会的な評価につながっているものなわけで、しかも、その「オプション情報」が多い人と言うのは、当然それを勉強し続けた人に違いありませんから、その頑張って身に付けてきた「情報」を捨てるというのはかなり難しいでしょうし、それ以前に、それを捨てることをどう考えてもいいことだとは思えないでしょうから、なかなか捨てようとしないと思います。

まぁ、そう言ったことで、「自分が悪いと思っていること」なんていう「基本的な情報」が見えなく成ってしまう人がけっこう居るんでしょうね。

もちろん、「自分が悪いと思っていること」を、まったくわかっていない人と言うのも滅多にいないと思いますが、それを、ある程度隅々まで見通せている人もかなり少ないような気がします。
(私も見えません)

ただ、この場合、むしろ違いとして大きいのは、『見えているか?見えていないか?』ではなくて、『見ようとするか?見ようともしないか?』の違いだと思います。
それを「見ようとする人」は、たとえ、見えなくても、「最低限の自分に対する疑い」を持っていることに成りますから、「自己を正当化すること」からは逃れられると思います。
しかし、「見ようともしない人」は、「自分に対する疑い」を失っていきますから、当然の成り行きとして、「自己正当化」に向かうことに成るわけです。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

例えば、これは、コロナ禍で明らかになったことの一つですが、コロナ・ウイルスが最初にパンデミックを起こした当初、「自粛派」か「行動派」かで意見が分かれていたと思います。

しかし、現在に至って振り返って見れば、もし仮に、完全に「自粛」していたとしても、ほとんどパンデミックを抑え込むことは出来なかったと思いますし、それとは逆に、もし仮に、完全に「通常通りの行動」を続けたとしても、ナニカがよく成ったということは無かったと思います。

おそらく、前者では、失業者やホームレスが少し増えて、後者では、死者の数が少し増えたでしょう。
どっちに転んだとしても、それが、どれ程いいことなんでしょうか?


こういう時の「自粛派」とか「行動派」とかと言う主張は、ほとんどの場合「文字情報」からの影響を受けていますし、その結果として「論理」が構成されています。
「文字情報」や「論理」は一見すると、理にかなっていますから、それに従っていれば問題ないように見えますが、実際には、ほとんどが、たいしてあてに成りませんし、「人間の善悪の規準」が、ちょっとした条件によって180度逆転してしまうのと同じように、すぐに、「反転」・「ねじれ」・「歪み」を繰り返して、もとの主張とは似ても似つかないものに変化してしまいます。
そして、その都度、そこに「自己正当化」が加わっていった場合は、必ず、それを主張していた本人自身が「悪いと思っていたこと」を強硬に主張するように成っていくのです。

  ※例えば、オリンピックを開催しながら、「緊急事態宣言発動中」と言うのは、
   どう考えてもデタラメだし、少なくとも最初の話とは、だいぶ違ってしまってい
   ますよね。

つまり、「オプション的な情報」に固執していく過程で、どんどん「基本的な情報」が切り捨てられて言ってしまうために、「自分が悪いと思ってること」と言う「基本情報」は、どうでもよく成って、『自粛か?行動か?』という「論理=オプション」だけが重要に成って行ってしまうということです。

けっきょく、そう言った「自然災害」のようなものに対して、「正しい解決法」などと言うモノは無いと思いますが、一つだけ言えることがあるとすれば、それは、そこで人間同士が罵り合うことは「無意味」であり、「醜いこと」だということだけだと思います。

しかし、これは「自然災害」に限ったことではなく、あらゆることに対して当てはまることで、実際には、

『人間が解決できることなど一つもありません』

これが本当のことだと思います。
そんななかで、人間に出来ることがあるとすれば、それは、「考えること=疑うこと」だと思います。

そして、その「考えること=疑うこと」を排除してしまう行為こそが、「自己正当化」と言う行為なんだと思うわけです。
「疑い」のないところに「思考」は成立しないと思います。
そして、「自己への疑い」こそが、その起点に成るものです。
「自己への疑い」を失えば、必ずや、「全ての疑い」も失われてゆくことに成り、結果として、「思考」も失われてしまうでしょう。


私は、コロナ・ウイルスが教えてくれていることは、そう言うことなんじゃないかと思っています。

『われわれウイルスは考えることなどできない、だから、自然の命じるままに変異を繰り返し、自然の命じるままに人間を殺している、われわれに「善悪」など無いのだから』
『ところで、お前たち人間は考える生き物なんじゃないのか?なぜ「内なる善悪」について考えずに罵り合っているんだ?』
『いや、それどころか、お前たちはずっと殺し合って来たじゃないか?「善悪」を持たないわれわれと同じように』

私は「コロナ・ウイルス」がそう言っているような気がするんですが、どうでしょう?


「善悪の規準」は「経済」ではありません。
「善悪の規準」は「健康」でもありません。
「善悪の規準」は「命」ですらもないでしょう。


人間の「善悪の規準」は「人間の内」にしかないような気がします。


つまり「人間性」ですね。
だから、その「人間性」を現す手段として、『それぞれの人が悪いと思っていることだけはやらない』と言う気持ちを持っていれば、少しいいんじゃないのかなと、そんな風に思うわけです。

そして、もしも「自分が悪いと思っていること」をやってしまったら、その時には、それを認めるだけでも、もう少しいいんじゃないのかなと、そういう風に思うというわけです。

お互いに自分の非を認めることが出きれば、罵り合う必要は無く成るんじゃないかと思います。

 

とりあえず、それだけで、『私はそれを「悪」とは呼ばない』ということですね。

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今回で終わりにしたかったんですが、終わらなかったのでもう一回だけ続けます。

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※この記事は私がメインでやっている下のブログからの転載です。

 

「善悪」について(15)

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どうも、こんにちは。

「善悪」についてのつづきです。

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前の記事の

 自分自身が「悪いと思っていること」をやり続け、人からもそれをやられ続け
 ながら、生きて行かなければならなく成るとしたら、もう、「生き地獄」だと思
 いますよ。

 しかも、その「生き地獄」の中で生き続けることを『いいんだよ!正しいんだか
 ら』と言い続けるしかなくなってしまうわけですねぇ。


 なんとも実に恐ろしいことだと思います。


というところからの続きです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

いや、前の記事では、上のように話がかなりヤバイ方向に行ってしまって、どうもすいませんでした。
(恐喝?)

ここで、一つお断りしておくと、昨日の話は、あくまで「自己正当化」にハマってしまった人についての話です。
例えば、うつ病などで人生に希望を持てなく成っている人が、あの記事を読んで、自分のことと重ね合わせてしまうということがあるとは思いませんが、もし、万が一にもそんな風に思われた方が居らしたならば、それはまったく違います。
と言うか、正反対です。
あれは、「自己正当化」についての話であって、その結果として起きてくる状態のことを書いたことです。
うつ状態の人は、「自己否定的」ですから、正反対ですね。

もしも、そう感じた方が居らしたならば、心からお詫びたしますので、どうかお許しください。

昨日の話に、当てはまる精神障害があるとすれば、おそらく、それは「自己愛性人格障害」のようなものだと思いますが、昨日の話は、そういう「精神疾患」に関することを書いたわけではなく、ごく一般的な人がハマってしまう「異常な心理状態」のことについて書いたことなので、そういう解釈でお読みいただければと思います。

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さて、改めて、前のいくつかの記事では、かなり恐ろしい感じの話に成ってしまい申し訳ありませんでした。

でも、再三お断りしてきたように、私は『車に乗る人は、人殺しだ!』と言っているわけではありませんし、『「教育」と言うのは「虐待」に直結しているものなんだ!』と言っているわけでもありませんし、『自己正当化する奴なんて人間じゃねぇ!ゆるせん!!』と言っているわけではないんです。

そういう一方向からの話として、あんなことを書いたわけではありません。
そうではなく、物事には必ず裏と表があり、「表裏」が一体と成ってこそ、それが存在して居るんだと言いたいわけなのです。

つまり、「生きること」の裏には「死ぬこと」があってこそ「生きること」が成り立つわけだし、「ポジティブ」の裏に「ネガティブ」があるから、その「ポジティブ」に意味があるわけだし、「正しい」の裏に「間違い」があるからこそ、それが「正しい」でいられるわけです。

もちろん、「善悪」も例外ではなく、「善」とは「悪」のことであるとまでは言いませんが、少なくとも『「善」の裏には「悪」が張り付いている』または『「善」をひっくり返したら「悪」だった』というくらいは言えるんじゃないかなと思うわけなんです。
と言うか、それでないと「善」が「善」であることも出来ないというのが本当のところなんじゃないかと思います。

そして、『「善悪」は、ちょくちょくひっくり返ることがある』と、そう言うことが言いたかったことなんです。

そう考えれば、やはり、「善の中にある悪」・「日常の中に潜む逸脱」・「常識の中に隠されている狂気」と言うような二極両立的な考え方をしていった方が意味が生まれるんじゃないのかなと思うんですね。

「芸術」で言えば、「抽象」と「具象」と言う二極がありますが、どうしても、『二極は対立するモノ』と言う考え方に陥りやすいと思うんですね。
でも、実際には「具象」と「抽象」が両立していないと「表現」として成立しないと思います。

要するに、「具象=身体性」と「抽象=精神性」が両立していないと、実体のある「表現」とはならないということですね。
それで、私は「具体性のある抽象表現」ということを考えて制作しているというわけです。

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まぁ、芸術の話はさておき、
私は、「自己正当化」と言う行為は、本来は世の中のすべてのモノが二極を含んだ形で成り立っているハズなのに、それを自分勝手な論理に基づいて強引に「一極化」してしまう行為なんじゃないかと思うわけです。
まぁ、簡単に言えば『自分の考えだけが正しくて、それ以外の考えは正しくない』ということですね。

やはり、「表=正しい」だけで「裏=間違い」が無いというのは、「人間の範囲」を超えていると思いますし、それどころか「存在の範囲」も超えてしまうと思います。
「存在」しているものには、必ず「表裏一体の実体」があり、それで「存在」として成り立っているんだと思います。
でも、それは、「物質」に限ったことではなく、「精神」であっても、同じなんじゃないでしょうか?

と言うか、「自己正当化」なんて、本当は、そんな壮大な考えを持ち出してくる程のたいそうなものではなく、ただ単に、人間の「見栄」とか「自負心」のようなたいして役にも立たないようなものから発生している場合が多いわけで、あまり大袈裟に考えるほどのモノでもないと思いますので、切り捨ててしまっても何の差支えも無いんだと思います。
(これは『私がそう思う』と言うよりも、誰にとってもその方がいいんじゃないですか?という提案ですね)

つまり、人と人の関係においては、『はい、私が間違ってました』とか、『あぁ、私が悪かった、申し訳ない』とかと言っても、別に何も失うものなどないということです。

それを、

「間違いを認める」=「負け」
「負の要素を入れた考え方」=「ネガティブ」
「わからない、又は、知らない」=「頭が悪い」
「出来ない」=「無能」

と言うように、一方向からの判断だけで、ものごとに「上下の差」を創り出していくような考え方が非常に多いんですね。

これは、人間の歴史の中でも、特に「現在」と言う時代に、突出した現象だと思います。
つまり、「現代社会」が要求していることなんだと思います。
だから、はっきり言ってしまうと、一個人ではどうすることも出来ません。
「社会」が変わらない限りは、そこの所も変わらないと思います。

でも、どうせ変わらないからと言って、そこに無条件に従わされてしまうのか?
それとも、自分の中に「独自の視点」を持ち続けるのか?
また、そう言うことにおいて、まったく成果の現れないことにチャレンジし続けることが出来るのか?
ということですね。


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えぇー、ちょっと話がデカく成りすぎたので、「善悪」の話に戻します。

ここまでの文章でも、「善悪」と簡単に言い続けて来てしまいましたが、「善悪」と言われれているものには、実は「自分の外の善悪」と「自分の内の善悪」があると思います。

そして、この二つがあまり意識されていないような気がします。

「自分の外の善悪」と言うのは、「人に迷惑を掛けないこと」を「善」として、「人に迷惑をかけること」を「悪」とするというように、「他者」との関係において「善悪」を考えるという考え方ですね。

それに対して、「自分の内の善悪」というのは、私が、「善悪の規準」としている「自分が悪いと思っていることをすること」とか、「それをさらに自己内で正当化すること」とかと言うような、「他者」とは必ずしも関係なく「自分の中」で独自に設定されている「善悪」についての概念ということに成ります。
こちらは、「他者」との関係が希薄になるので、「泥棒を悪いと思っていない人にとっては、泥棒は「悪」ではない』と言うような話が出てきてしまうわけです。

  ※これは一見すると、非常に極端な話に見えるかもしれませんが、実は、それ
   ほど極端な話でもなくて、例えば、管理している人もはっきりしないような原生
   林に自生している木の実をとって食べても、それは「泥棒」とは言えませんし、
   それを誰からも「悪」であるとは言われないでしょう。
   しかし、もしかしたら、その「原生林」だと思った林が、人が管理している果樹園
   であるかもしれません。
   そして、「果樹園」で栽培されている木の実を、勝手にとって食べれば「泥棒」
   に成ってしまうわけです。
   でも、その人に「悪意」が無いのに、それを「悪」と言えるでしょうか?

   「悪ではない泥棒」というのは、こういうことを含めて言っています。

この一連の記事のはじめの方で書いた「善悪の逆転」のようなものは、ほとんど「自分の外の善悪」が逆転するケースについて書いていたと思います。
(例えば「戦争」と言う極端な状況の変化が「殺人と言う悪」を「英雄と言う善」に変えてしまうということですね)

そして、その後、「潜在意識」や「深層心理」の話が中心になった後は、主に「自分の内の善悪」について書いてきたと思います。

そして、ここにも「内と外」という「二極」があり、それは「両立」していた方がいいような気がするわけです。


私自身も、この二種類の「善悪」を、その時々で使い分けてしまっていたと思います。
それで、この文章がわかりにくく成っているところもあるような気がします。

ただ、この二種類の「善悪」は、きっちり線を引いて分けられるものではないと思いますので、どうしてもそうなってしまいます。


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さて、またもや長く成ったので次に続けます。

 

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※この記事は私がメインでやっている下のブログからの転載です。

 

「善悪」について(14)

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どうも、こんにちは。

「善悪」についてのつづきです。

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前の記事の

 そういう「中途半端な善悪の規準」を設定するには、とりあえず「自己正当化」
 を「悪の規準」と仮定した考え方をしていくのがいいんじゃないのかな?と思う
 わけですね。

 そういうことからも、自分の中の「潜在意識」を見極められると「隠れた悪意」が
 見えて来て、「自分の中の悪」を認めやすく成るような気がするんですが、どう
 でしょうか?

 それ以外に人間が「自己正当化と言う罠」から抜け出す方法はないような気が
 します。

というところからの続きです。

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前の二つの記事で、「教育と児童虐待」、「自動車の運転と死亡事故」と言った、日常の中にある「善と悪の交錯」や、「常識と悪の交錯」について書いたわけですが、これは、この一連の記事のはじめの方で書いたこと、つまり、「生きること」が「悪」につながっているというのと同じ構図で成り立っていることだと思います。

そうなると、「生きること」を「善」とするべきなのか?
それとも「悪」とすべきなのか?
いったいどっちなんだ?
と言う究極的な状態に、いきなり追い詰められてしまいます。

しかし、それはあくまで「究極的な意味での善悪」についての話であって、その前に「善」も「悪」も人間が勝手に作り出した言葉に過ぎないものですから、それほどの「究極的な意味」は無いともいえるわけで、少なくとも、そういう「人間が作りだした言葉」としての「善悪」に限定して考える場合は、そういうところまで追い詰めた考え方をする必要はないんじゃないかと思うわけです。

そういう前提で言うならば、もう少し「曖昧な善悪の規準」があってもいいと思いますし、それこそが、人間が考えうる範囲での「善悪の規準」と言えるものなんじゃないのかな?とも思うわけです。

そして、そういう考え方をしていく上で、私は「自己内での悪の正当化」というものを「悪の規準」と考えているわけです。

なんたって、『自分が悪いと思っていることをやって、さらに、それを悪くない、いや正しいんだと言い張る』ということですから、それを「悪」と言っても差し支えないんじゃないの?ということなんです。

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そして、私が、この「自己正当化」を「悪」に設定してもいいだろうと思う理由がもう一つあって、それは「自己正当化」には「罠」としての性質があるからなんです。


「自己正当化」に完全にハマってしまった人は、たとえ「潜在的な悪意」であったとしても、自分の中に存在している「悪意」を「善意」にすり替えてしまうわけですから、当然、そこには「無理」が生じます。

しかし、その「無理」も含めて「自己内の悪」が「正当化」されているわけですから、当然、その「無理」も認めなく成りますし、『無理などない!』と言い張ることに成ります。
ところが、そうなってくると、それが、初めの段階では「自分が悪いと思っていること」であったということは完全に打ち消されて、それが、もともと「自分が正しいと思っていたこと」であるかのような主張を展開せざるを得なく成ります。

もともと、「潜在的な悪意」は、見えにくいものですから、「自分が悪いと思っていること」とは言っても、はっきりと「悪意」として認識されているわけではありません。

しかし、それでも、まだ「自己正当化」に完全にハマっていない人であれば、そういう「潜在的な悪意」に対して「良心の呵責」と言うような「小さな罪悪感」のようなモノを、ある程度は意識しているんだと思います。
だからこそ、「虐待」や「飲酒運転などによる死亡事故」などを犯してしまう人が、そうたくさんは居ないんだと思います。
(はじめから悪いと思っていないんだとしたら、もっと、多くの人がやってますよね)

ところが、一度、その人の中で「自己正当化」が完全に成立してしまうと、その「良心の呵責」や「小さな罪悪感」は、完全に打ち消されてしまい、無かったことにされて、『初めから正しかったんだ!』ということに成って、『正しいことをして、何が悪いんだ!』と成っていきます。
元はと言えば「自分が悪いと思っていること」だったのにです。

そうなると、そこから先は、「善悪」なんてどうでもよく成ってしまって、『捕まらなきゃいいんだ!』『罪にならなきゃいいんだ!』ということに成っていきます。

自分自身が「虐待行為」を行っている人でも「他人が行っている虐待」については、批判する人が非常に多いそうです。
そういう人は、『自分がやっているのは、「虐待」とは正反対の「教育」や「しつけ」である』と、本気で思っているんだそうです。

だから、そういう人たちは、必ず自分たちがやっている「虐待行為」を隠したり誤魔化したりするように成って、なんとしてでも罪を逃れようとしますし、捕まった後も滅多なことでは罪を認めません。
彼らの言い訳で多いのは『なんで「しつけ」をしただけで捕まらなきゃいけないんだよ!』と言うものです。
もう、完全に客観性が失われてしまっていますから、どんなにヒドイ「虐待」をしていても、それを本気で「しつけ」だと思ってしまうわけです。

人のことだと客観的に見えるので批判するんでしょうが、「自己正当化」にハマってしまうと、「自分のこと」だけが客観視できなくなってしまうんですね。
「自分が悪いと思っていること」を「正しいこと」と無理矢理すり替えてしまうわけですから、その「無理矢理な自分」を正当化し続けるためには「自分を客観視すること」が邪魔に成ってくるわけです。

そうなると、もう、何も見えなく成ってしまうのでしょう。

こういうことを繰り返していると「自己正当化」が「罠」に成ってしまうわけです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

「自分が悪いと思っていることをやってしまうこと」
これは、誰にでもよくあることです。
人間は、かなり不完全ですから、「自分が悪いと思っていること」でも、やってしまいます。

でも、そこで、それが「自分が悪いと思っていること」であるということに気づいて、やめる人も居ますし、他人から指摘されてやめる人も居ますし、完全にはやめることが出来ないまでも、それを、心の中で『これは本当は悪いことなんだ』と思う人も居ます。

これらは、どれも「自己正当化」には成りませんから、そこで「自己正当化の罠」からは逃れることができます。

しかし、人間と言うのはどうしても「自分がやったこと」を『正しい』と言いたく成ってしまうように出来ています。
だから、たとえ、それが「自分が悪いと思っていること」であっても、ついつい、それを『正しい』と言って(思って)しまうわけです。

それでも、そういう「自己正当化」を、たまにやってしまうという程度であれば、まだ、それは「罠」とまでは言えないと思います。
つまり、「自己正当化」をした後で、次の機会には「自分の中の悪意や誤り」を認めることが出来れば、その都度、もとの位置まで戻りますから、完全な「自己正当化」にハマってしまうことは無いでしょう。

しかし、何度も連続して、習慣的に「自己正当化」を繰り返してしまうと、完全にハマってしまいますし、一度ハマってしまうと抜けられなく成って、「罠」に成ってしまうわけですねぇ。


実は、これは、とても恐ろしい「罠」で、かなり抜けるのが難しいんじゃないかと思うんですよね。

なぜ、抜けるのが難しいかと言うと、ここまでずっと書いてきたように『見えないから』ですね。

「自己内の悪」が「正当化」された時点で、本来あったはずの「悪意」が無かったことにされてしまいますから、それは見える位置にあると都合が悪く成るわけで、そうなれば、当然「見えない場所」に持っていかれます。

その時点では、まだ、その「悪意」がそこに在ることは気になってしょうがないわけですから、「見えない場所」にあるとはいえ、むしろ強く意識されていますが、そういう状態を長く続けていると、「自己内の悪」が「正当化」されるたびに、それはどんどん心の奥の見えにくい場所に持っていかれることに成ります。
そうなると、だんだん、それがどこに有るのかがわからなくなってきます。
そして、完全に忘れられて、見ることが出来なくなってしまったときに、「自己正当化」が「罠」に成ります。

そうなると、もう、本人が見ようとしても、やすやすとは見ることができない状態に成りますから、自分がどんなに「自分が悪いと思っていたこと」をしていても、それが、すべて「正しいこと」のように見えるように成ってしまいます。

だから、「人がやっている虐待」が「悪いこと」だということはわかるのに、「自分がやっている虐待」だけは「しつけ」だとしか思えなく成ってしまうわけです。


ここまででも、十分に恐ろしいことなんですが、これのどこが、ほんとうに恐ろしいかと言うと、最終的には「自分が悪いことだと思っていたこと」だけしか出来なく成っていくということなんです。

「自分が悪いと思っていること」をやって、それを『正しい』としてしまうと、次からも、その「正しいこと」をやり続けなくてはならなく成ります。
そして、当然の結果として、それとは違う「自分が正しいと思っていたこと」は出来なく成っていくことに成るのです。

しかも、自分以外の人間にも、その原理はある程度当てはめざるを得ないケースがだんだん増えていきます。
そうなると、いつも「自分がすること」も「自分が自分の周りの人に、されること」も、すべて、もとはと言えば「自分が悪いと思っていたこと」だらけに成っていってしまうのです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

これは実例として聴いたことがある話ですが、『リストラはやる側に成らなきゃダメなんだよ』と言っていた人が、次にはリストラされる側に成ってしまうことがけっこう多いそうです。

何故かと言うと、リストラをやる側だった時に、自分の中にあった「良心の呵責」を無かったことにして「自分の中の悪」を「正当化」してしまっている人は、いざ、自分がリストラされる側に成ったときに、なかなか文句が言えないんだそうです。
さんざん自分がやってきたことですし、さらには、自己内でその行為を「正当化」してしまっていますから、たとえ自分がやられる側に成っても、それを『正しい』と言わざるを得なく成ってしまうんでしょうね。

それでも、さらに「自己正当化」が激しい人に成ると、それすらも、捻じ曲げてしまうでしょうから、リストラぐらいでは動じないのかもしれません。
そういう人は、自分がリストラされる側に成ったときだけは、猛然と抗議するんでしょう。
その場では、それで得をするのかも知れません。

しかし、そういう人ですら、結果的に「自分が悪いと思っていること」に取り囲まれて生きていくことに成るのは避けられないと思います。
いや、むしろ、そういう強力な「自己正当化」にハマってしまった人こそ、より一層強力に、「自分が悪いと思っていること」に取り囲まれて生き続けることに成るわけです。


そういう人たちは、いつも「潜在意識」の中で「自分が悪いと思っていること」を、自分でもやり続け、他人からもやられ続けて生きて行かなければならなく成りますが、それをやめたり、それに文句を言うことだけは許されません。

なぜなら、『それが、正しくなければならないから』です。
そこに文句を言ってしまうと、その『正しい』が崩れてしまいますから、言えません。
『自分だけはOK』
『他人はNO』
と言うのにも限界があります。

「自己正当化」を長く続けて行けば行くほど、同じことをしていても『自分だけはOK』で『他人はNO』と言う「矛盾」がだんだん極端に成っていきますから、最終的には、その「矛盾」を自分自身が突き付けられ続けるような状態に成ります。
そう成った時に、完全に「自己正当化」にハマってしまった人が、その「矛盾」を認めることはまずありませんから、すべてを『正しい』で通すしかないんです。
だから、「自分がやる自分が悪いと思っていること」も、「他人からやられる自分が悪いと思っていること」も『すべてOK』ということにしていくしか選択肢が無く成ってしまうわけです。

『正しい』ということで「自己正当化」が成り立っているので、そこを崩してしまうと、過去から行って来た、すべての「正当化」の負債が一気にのしかかってきてしまって、自己のアイデンティティが崩壊してしまうと思い込んでいるので、その恐怖から逃れ続けるためには、「自己正当化」を続けて行くしかなく成ってしまうわけです。

自分自身が「悪いと思っていること」をやり続け、人からもそれをやられ続けながら、生きて行かなければならなく成るとしたら、もう、「生き地獄」だと思いますよ。

しかも、その「生き地獄」の中で生き続けることを『いいんだよ!正しいんだから』と言い続けるしかなくなってしまうわけですねぇ。


なんとも実に恐ろしいことだと思います。


こんなこと言うと、ずいぶんオーバーな話だと思う方も居るでしょうが、実際に、そういう人はたくさんいると思いますよ。


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※ここで、一つお断りしておくと、上の話は、あくまで「自己正当化」にハマってしまった人についての話です。
例えば、うつ病などで人生に希望を持てなく成っている人が、上の記事を読んで、自分のことと重ね合わせてしまうということがあるとは思いませんが、もし、万が一にもそんな風に思われた方が居らしたならば、それはまったく違います。
と言うか、正反対です。
これは、「自己正当化」についての話であって、その結果として起きてくる状態のことを書いたことです。
うつ状態の人は、「自己否定的」ですから、正反対ですね。

もしも、そう感じた方が居らしたならば、心からお詫びたしますので、どうかお許しください。

上の話に、当てはまる精神障害があるとすれば、おそらく、それは「自己愛性人格障害」のようなものだと思いますが、上の話は、そういう「精神疾患」に関することを書いたわけではなく、ごく一般的な人がハマってしまう「異常な心理状態」のことについて書いたことなので、そういう解釈でお読みいただければと思います。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

いや、ちょっと話が、恐ろしい感じに成ってしまって、申し訳ありませんでした。

でも、私は、「自己正当化」はそれぐらい「ヤバイ罠」だと思うんですよね。

まぁ、もうすぐ終わると思いますので、お許しください。

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※この記事は私がメインでやっている下のブログからの転載です。

 

「善悪」について(13)

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どうも、こんにちは。

「善悪」についてのつづきです。

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前の記事の

 こういうのが、私が「善悪の規準」と密接に関係があると思っている
 「潜在意識」ということなんです。

というところからの続きです。

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前の記事では、「児童虐待」のような、どう考えても「悪いこと」だと誰もが思っているようなことであっても、それがどこかで「生きること」や「生き残ること」につながっているということを書きました。

でも、ここでもまた、お断りしておくと、「生きるため」には必ず「児童虐待」をしないと生き続けることが出来ないと言っているわけではありません。
(当たり前ですけど)
そうではなくて、「児童虐待」をしてしまう「親」は、「生きること」から出発してどこかで方向を見失って「児童虐待」に行き着いてしまうんだということが言いたかったわけです。

ごく稀には、「悪意」だけから発生するような「虐待」などもあるのかも知れません。
でも、少なくともほとんどの「虐待」は、「生きること」のような「自己利益の追求」から発生していると思います。

これは「虐待」に限ったことではなく、「イジメ」であっても「ハラスメント」であっても「差別」であっても「迫害」であっても、「生きること」のような「自己利益の追求」から発生しているという点では、ほぼ同じことがいえると思います。

そして、それは、必ずしも「自分だけのため」ということとは限りません。
場合によっては「子供のため」と言う形をとっている場合も含めて、「虐待」に行き着いてしまうことがあるのも確かなことではないでしょうか?

例えば、人間は過去において「差別」や「迫害」から、特定の対立する人種や民族などを虐殺するというようなことを歴史の中で繰り返してきましたが、そういう、かなり「悪」に近いこととしか言いようがないようなことでも、モトのモトのモトをたどってゆけば、必ず何らかの「生きるため」や「自己利益」があるはずです。
そして、その「自己利益」が必ずしも「自分だけのため」とは限らないわけで、「民族の誇りを守るため」である場合もありますし、外敵の侵略の恐怖から「自国を守るため」である場合もあります。

つまり、一見すると、「善」に近いと思えるようなことが、いつの間にか方向を見失って、「悪」としか思えないようなことにねじ曲がって行ってしまうわけです。

そして、その過程で「方向を見失ってしまう原因」と成っているのが、「潜在意識が本人にも見えなく成ってしまっていること」なんではないかと思うわけです。

「潜在意識」の中に含まれている「潜在的な悪意」は誰もが見たくないものです。
それで、それを見ないようにしているうちに、それは、見ようとしても簡単には見ることが出来ないくらいに深いところにしまい込まれてしまい、「表層の意識」に次々貼り付けられ続ける「自己利益的でポジティブな情報」に埋もれてしまって、そう簡単には見ることが出来なく成ってしまいます。

そうなると、当然、それは『初めから無かったんだ』ということにされてしまいます。
誰しも、『自分の中に「虐待」や「差別」や「迫害」や、まして「虐殺」のような「悪事」につながっているような「潜在的な悪意」がある』とは考えたくないでしょう。
つまり、『初めから無かったんだ』と言うのは、ほとんどの人にとって、居心地のいい結論なんですねぇ。
だから、見えないところにあれば都合がいいし、そうなれば、もう二度と見たくないし、見ようともしなく成ります。

そこから起きてくるのが「自己正当化」と言う心理です。
『自分の中には「悪」など存在しない!』
これこそが、「自己正当化」ですが、実は「生きていること」の中に、「潜在的な悪」が存在して居るとすれば、それにはかなりの無理があるはずです。
でも、一度「自己正当化」に向かった人は、もう無理があるとは認められない状態に成っていますから、その無理を強引に捻じ曲げ続けるしかなく成ってしまいます。

これが「自己正当化と言う罠」です。
あまりにも無理なことを続けて行かなくてはならなく成るので、結果的に、やっている本人にも、なんの得も無いという状態が出来上がっていきます。
だから、「罠」なんですね。

もともと、「自己正当化」にハマってしまっているか否かに関わらず、多くの人が『自分の中には「そんなひどい悪意」なんかあるわけない!』と思って生きています。
確かにそうなのかもしれません。
でも、「生きていること」の中に、すでに「潜在的な悪意」が貼り付けられているとすれば、条件によっては、その「悪意」が現れてくることもあるし、その「悪意」がどんな形に成り変わって表れてくるのかは、それが現れて来てからでないとわからないことだと思います。

それが、いつ「イジメ」に成ってしまうのか、いつ「差別」に成ってしまうのか、見えなければわかりませんよね。

もちろん、そうならない場合もあるでしょう。
でも、それは、あくまで条件に恵まれている場合に限っての話です。

悪条件が重なれば、きっと大多数の人が「悪人」に成ってしまう、それが人間の現実だと言ったら言い過ぎでしょうか?

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さて、ここで、もう一つ、私が「善悪の規準」と密接に関係があると思っている「潜在意識」の例を挙げておきます。

これも、きっと、『責められている』と感じる人が居るでしょうし、『そんなことにまでケチを付けられたら、何も出来なく成ってしまうじゃないか!』と考える方がたくさんいらっしゃるかと思います。

でも、やはり、私は責めているわけではありませんし、ケチをつけているわけでもありませんので、そういう話としてご理解いただきたいと思います。

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私が、「善悪の規準」と密接に関係があると思っている「潜在意識」のもう一つの例として挙げるのは、「自動車の運転」です。
(決して、『車に乗ってはいけない』と言う話ではありませんので)


例えば、「飲酒運転」や「危険運転」は刑罰の対象に成りますが、順法の範囲で運転していれば、刑罰の対象になることはほとんどありません。

しかし、順法の範囲で運転していても、大きな事故が起きることはあります。

一番わかりやすい例を挙げれば「居眠り運転」ですね。
「居眠り運転」であれば、「飲酒運転」や「危険運転」と比べた場合、刑罰と言う意味でも社会的責任と言う意味でも、圧倒的に軽くなるのは、ほぼ間違いないことだと思います。

それは、おそらく、運転者に「悪意」が無いと判断されるからです。
確かに、そこにはっきりと意識された「悪意」は無いでしょう。
でも、「潜在意識」にも「悪意」は無いでしょうか?

自動車事故でたくさんの人が死亡しているのは、誰でも知っていることです。
その死亡事故が、居眠り運転などのように「悪意」が無い運転者によって起こされるケースもたくさんあるということも誰でも知っています。
そして、運転する人は、『自分だけは絶対に居眠りをしない』と思っているんでしょうか?

おそらく、その人の「潜在意識」の片隅には『もしかしたら、自分が居眠り運転で人をひき殺してしまうかも知れない』と言う「隠れた悪意」があるというのが、本当のことだと思います。

これは「居眠り運転」に限ったことでもありません。
例えば、運転中に心臓発作を起こす人も居るでしょうし、急に脳溢血を起こす人だっているかもしれませんし、何らかの意識障害に見舞われる人だっているでしょう。
いずれも、本人に「悪意」があって起こすことではありませんが、『自分だけは絶対にそういう状態に成ることは無い』と心の底から思ってる人が居ないのも確かなことだと思います。

でも、『もしかしたら、いつか「心臓発作」を起こすかもしれないけど、運転はやめないよ』と言うのは「悪意」ではないと言い切れるでしょうか?


そして、何よりも大事なことは、「ひき殺される人」にとっては、運転者が「飲酒運転」であるのか「居眠り運転」であるのか「心臓発作」を起こしたのかということは、大した問題ではなく、『自分が自動車にひき殺された』ということだけが重大な問題なのです。

あくまで、法律や道徳を無視して考えた場合の話ですが、
もしも、「飲酒運転」であっても事故を起こす確率がきわめて低いような「超人的に酒に強い人」と、(私のように)順法の範囲で運転していても大事故を起こす可能性が高いような「超人的にそそっかしい人」が居た場合は、前者の「飲酒運転」と後者の「順法運転」では、どちらが「悪意的」なんでしょうか?

さらに、それは、「潜在意識」においてはどうでしょうか?

しかし、よくよく考えると、これは、「歩行者側=被害者側」に非があったとしても、ある程度成り立つ話で、例えば、子供や認知症の老人等が飛び出したり、赤信号で横断していたりした場合であっても、そこにたまたま車が通りかかっていなければ事故は起きないわけで、そうなると、単純に言って、車に乗る人が多ければ多い程事故が起きる確率が高く成るということに成ります。
(田舎の交通量が少ない道では、車自体が走っていないので、子供が飛び出しても事故が起きません)

しかし、そうなると『車の運転自体が「悪」である』ということに成ってしまいます。

こういうことを考えていくと、「善悪の規準」が完全に不透明に成ってしまいまうんですねぇ。


でも、実際には、クリアーな「善悪の規準」なんてあり得ないと思います。
なぜなら、人間に「善悪」を見極めるほどの力は無いからです。
人間に出来ることは、『すべては「善」である』と言うか『すべては「悪」である』と言うかのどちらかしか無いんじゃないでしょうか?

つまり、いきなり、「存在」自体が「善」であると考えるか、それとも「存在」自体を「悪」と考えるかと言う究極の問いにまで持っていかれてしまうわけで、それは人間が産み出した言葉としての「善悪」の容量を超えてしまうほどの話に成ってしまうわけです。

でも、人間が作った言葉としての「善悪」と言うのは、おそらくもうちょっと「中途半端な位置」にあるものなんじゃないのかな?と思うわけです。

そういう「中途半端な善悪の規準」を設定するには、とりあえず「自己正当化」を「悪の規準」と仮定した考え方をしていくのがいいんじゃないのかな?と思うわけですね。


そういうことからも、自分の中の「潜在意識」を見極められると「隠れた悪意」が見えて来て、「自分の中の悪」を認めやすく成るような気がするんですが、どうでしょうか?

それ以外に人間が「自己正当化と言う罠」から抜け出す方法はないような気がします。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

またまた、長く成ってしまいました。

いったい、いつに成ったら終わるんでしょうね。

たぶん、あと二~三回ぐらい?

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※この記事は私がメインでやっている下のブログからの転載です。

 

「善悪」について(12)

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どうも、こんにちは。

「善悪」についてのつづきです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

前の記事の

 そんなことから、「曖昧な規準」を「善悪の規準」とすることが出来れば、
 少しいいんじゃないのかな?と思うわけなのです。

 そして、私は、そのためには「自己内における悪の正当化」を「悪」と考え
 ていくといいような気がしているわけです。

 理由は一つだけ、『それなら出来そうだから』

 そして、さらにその「自己内における悪」を規定するのに必要不可欠になっ
 てくるのが、「自分の潜在意識の把握」ということだと思うわけです。

というところからの続きです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

まぁ、要するに、『自分がしていることなんて、ほとんど全部「悪」だと言われたら「悪」なのかも知れませんね』と認めることぐらいなら人間にも出来るんじゃないか?と言う程度のことですから、ちっとも立派なことではありません。

でも、人間がそれ以上をやろうとするのには、どうも無理があるようで、「立派なこと」をやろうとする人に限って、「かなり酷いこと」をしてしまいます。
それに、「認めること」だけでも、実際には、なかなか出来ませんから、精一杯です。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

さて、そこで、 

  「自己内における悪」を規定するのに必要不可欠になってくるのが、
  「自分の潜在意識の把握」ということだと思うわけです。

ということについてです。


まず、「潜在意識」をどこまで把握できるものなのか?ということがあります。

もともと、把握できないから「潜在意識」なわけで、本人が十分把握できていれば、それを「潜在意識」とは言わないでしょう。
ということは、「潜在意識」は、やはり把握しにくいものだと考えた方がいいということですね。
そうなってくると、今度は、そのただでさえ把握しにくい「潜在意識」を、どの辺まで把握できていれはいいのか?ということに成ってきます。

これは、ちょっと話の筋が違うことかもしれませんが、例えば「前世の記憶」があるという人なんかも居たりします。
それから、母親の胎内にいたときの記憶があるという人も居るようです。
そういう話を、信じるか?信じないか?ということは、とりあえず置いといて、もしも仮に「そういう記憶」と言うモノがあるとするならば、そういうのも「潜在意識」や「深層心理」の一種に入るんだと思います。

でも、私は、そういうのは、ここでは必要ないと思っていますし、どちらかと言うと、無い方がいいくらいだと思います。

ここで、私が「潜在意識の把握」と言っているのは、そういうものよりも、ずっとありふれた、ごく普通の記憶に過ぎません。

例えば、人の名前なんかでも、忘れていたと思っていた人の名前を、ある時、何のまえぶれもなく唐突に『ポンッ』と思いだすことなんて、誰にでもあることだと思います。
そういう時が「潜在意識」が目に見えた瞬間だと思うわけですね。

人の名前のようなケースでは、ただ単に忘れていたことを思い出したに過ぎないんでしょうし、必ずしも重要な人物の名前を思い出そうとして思い出すとも限りませんが、「善悪の判断」に関する意識の場合は、これまで、述べてきたように『ただ単に忘れた』と言うのとは違って、『見たくないから見えないようにしてしまった』と言う性質があると思うので、同じ「潜在意識」の中でも、強力にブロックされていることが多いわけです。

つまり、『見えない』のではなく『あえて見えないようにしている』と言った方がいいわけですね。
でも、逆に考えると、「あえて、やっていること」だとすれば、『見ようとすれば、見える』ということです。
ただし、強力にブロックされていることが多いので、その『見ようとする』と言うのが、なかなかできないということですね。

でも、少なくとも、自分でブロックしているんだとすれば、自分でなんとか出来るということに成ります。
「前世の記憶」に成ると、見える人と見えない人に分かれてしまうでしょうが、こういう『見たくないから見ない』と言う性質のものに関しては、『見ようとさえすれば、誰にでも見える』と思います。

だから、『見ようとする』だけでも、十分に「自己正当化」からは逃れることが可能になると思っています。
でも、それとは逆に、『見ようともしない』ということに成れば、当然「自己正当化」へまっしぐらということに成ってしまいます。
自分にとって都合のいいものだけを見て、都合の悪いモノは見ないということに成れば、当然「自己」を正当化するように成るでしょうし、「他者」を認めることが出来なく成っていくのも、当然の成り行きだと思います。

こういう段階に成ったとき、私は、それを「悪」と呼んでも差し支えないだろうと考えています。

とはいっても、あくまで、「善悪」を想定せずにいることが不可能だという前提で考えた場合に、私にとって、この「自己正当化」こそが、最も「悪」に近いものであり、「悪」に設定してもいいかな?と思えるものであるということですね。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

さて、ここで、私が「善悪の規準」と密接に関係があると思っている「潜在意識」とは、どういうモノなのか?ということを書いておこうと思います。


例えば、「児童虐待」です。

いきなり重い話で申し訳ないんですが、子供を「虐待」してしまう「親」がいるということは、他人のこととして見た場合は『有り得ない』としか見えないわけですが、実を言うと、ほとんどの「親」が、これと紙一重のことをやっていると思うわけです。

つまり、「教育」や「しつけ」ですね。

子供を「虐待」してしまった「親」の「言い訳」のほとんどが、この「教育」や「しつけ」です。
ほとんどの「虐待」は「教育」や「しつけ」の延長線上にあると思います。
ところが、その「教育」や「しつけ」を完全に放棄してしまうのも、一種の「虐待」に成ります。
そういう、ネグレクトと言われるタイプの「虐待」もたくさんあります。

それでは、まともな「教育」や「しつけ」と「虐待」はどう違うんでしょう?

そこに「愛情」があるかどうかの違いでしょうか?
でも、もしかしたら、その「愛情」があまりにも過大なものに成ってしまって、言うことを聞いてくれない子供を「虐待」してしまう「親」も居るかもしれません。

私は、必ずしも、「虐待している親」に全く「愛情」が無いとは思いません。
ただ、その「愛情」が「自己犠牲的な愛情」ではない場合に、「虐待」に行き着いてしまうんだと思います。

ほとんどの「親」は、何らかの形で、「子供に対する愛情」は持っているものだと思いますが、それと同時に「自分に対する愛情=自己愛」も持っています。
そして、その「自己愛」を捨てて「子供に愛情を注げる親」は、たぶん「虐待」をすることは無いでしょう。
つまり、自分を犠牲にして、子供に「教育」を与えるならば、問題は無いのだと思います。

でも、こういうのが出来る人って、そんなにたくさん居るんでしょうか?

「昔の親」は、ごく普通のこととして、これをやっていたんだと思います。
でも、現在は、そういう「自己犠牲的な考え方」で生きている人は、非常に生きていきにくい時代です。
つまり、「お人好し」は、バンバン切り捨てられてしまうのが、「現在」と言う時代です。

だとすれば、当然、「そういう考え方で生きている人」は少ない、そして、「そういう考え方で生きている人」は社会から切り捨てられてしまっている確率が非常に高く成ります。

そうなると、その「社会から切り捨てられた人」が、そんな状況の中にあっても、まだ、「自己犠牲的な愛情」を持ち続けられるのか?

無理でしょ?

と言うか、そんなことを『やれ!』と言うのは、かなり酷なことなんじゃないでしょうか?


でも、そうなると、「自己犠牲的な愛情を持った親」と言うのは、ほとんど居ないということに成ってしまうのです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

実は、これ、前に書いた『「殺すこと」は「悪なのか?』と言う話とほぼ同じ構造なんです。

前に、『人間が「悪」を行ってしまうのは、「生きるため」であることが非常に多い』ということを書きました。
これと、上のことは、ほとんど同じ構造のことなんだと思います。

つまり、「自己利益=生きること」と「自己犠牲=まともな教育など」が両立できない場合に、
「自己利益」をとれば「他者(子供)の犠牲」が必要に成ります。
「自己犠牲」をとれば親自身が「生存の危機」に直面することに成ります。

これは、現在と言う時代が、人間に突き付けていることだと思いますので、はっきり言ってしまうと、個人にはどうすることも出来ません。

でも、そうなると、
「生きるため」には「悪」を実行するしかないというのと同じように、
「生きていくため」には「虐待と紙一重の教育」を実行するしかないということに成ってしまうわけです。

これもまた、「殺すこと」の話と同じで、「まともな教育」が出来ている「親」と言うのは、ただ単に条件に恵まれているだけだと思います。
実を言えば、「まともな教育」を行っているように見えている「親」の中にも「潜在的な虐待」があると言ってもいいと思います


そして、「生きるため」=「自己利益的な情報」は、「表層の意識」に貼り付けられていきます。
そして、「虐待」などの「悪」を含んだ要素が「生き残ること」と表裏一体のものであると言う「非自己利益的な情報」は、必ず「意識の深層」に深く沈められてしまうために「潜在化」して、見えなく成ってしまうわけです。


こういうのが、私が「善悪の規準」と密接に関係があると思っている「潜在意識」ということなんです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

またもや、長く成ってしまいました。

出来るだけ短めにしようと思って書いてるんですが、どうしても、長く成ってしまいますねぇ。
私は、文章をまとめるという能力がほとんどないようで、どうしてもこういうことに成ってしまいます。
要するに「文を書く」と言うのが出来ないので、「話をする」と言うのに近い形に成ってしまうんですね。
(あなたの周りにも居るででょ?訳の分からない話を延々とし続ける人)

それで、書くのがめんどくさく成ると、適当に話をカットしてしまうので、読んだ方々に誤解を与えてしまうことが多く成ってしまうわけなんですよね。

そういうのを避けようと思って、この文を書いているんですが、案の定こんなことに成ってしまっています。

悪気はないので、どうか、お許しを・・・・

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※この記事は私がメインでやっている下のブログからの転載です。

 

「善悪」について(11)

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どうも、こんにちは。

「善悪」についてのつづきです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

前の記事の

 人間の「潜在意識」の領域は、かなり広い。
 そして、その「潜在意識」を見極めることは、なかなか出来ない。
 でも、それを「見ようとすること」だったら、出来るんじゃないか?

というところからの続きです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

まず、この「潜在意識」や「深層心理」と、「善悪の規準」が、どう関係あるのか?ということが、ちょっと見えにくいかと思うので、そこのところを説明しておこうと思います。

前の記事にも書いたように、私の場合は、「悪の規準」を「自分が悪いと思っていることをすること」そして、さらには「それを自己内で正当化してしまうこと」だと考えています。

しかし、『その「自分が悪いと思っていること」とは?』と考えると、どうしても「潜在意識」とか「深層心理」とかと言う領域のことを考えなければならなく成ります。
つまり、『自分が悪いと思っている』と言うのは「表面的な意識」だけで思っていることなのか?それとも「心の奥」で思っていることまで含めて考えるべきなのか?ということを抜きに、この話をすることは出来ないと思うわけです。

 ※一応、念のためお断りしておきますが、これは私が個人的に考えていること
  であって、社会的な道徳や倫理、ましてや、法律などのような公的な基準の
  話ではありません。
  あくまで、「とあるオッサンの独り言」として言っています。
  ですから、この話を、他の人にも『こう思うべきだ!』と言うつもりは全くありま
  せんし、それどころか、『こんなこと考えてるとバカが伝染っちゃいますよ!』
  と思っているくらいなんです。

さて、どうして、「表層意識」だけでは、話ができないのか?と言うと、それは、人間の場合は、「表層意識=自分が把握している意識」と「潜在意識=自分では把握できていない意識」が、トンデモナクかけ離れていることが非常に多いからです。

もちろん、個人差はあると思いますが、基本的に「人間の潜在意識」は、本人が把握している「表層の意識」とは、裏腹である場合が多いと思います。

前の記事にも書いたように、人間は教育などで、ものすごくたくさんのことを刷り込まれて成長してきますから、歳をとればとる程、たくさんの「理屈」や「知識」を自分の中にため込んでいます。
これは、なにも勉強家の人に限ったことではないと思います。
書物や学問に限らず、「仕事」や「育児」、「家事」などの「生活」から蓄積されていく「情報」も、当然ため込まれて行きますから、「知識」であることに変わりはありません。

そして、それらの「情報」のほとんどが「意識の表層」の領域に蓄積されていくわけです。
たいていの場合、「役に立つこと」は「意識の表層」にため込まれて行きます。
そして、人間は、ほとんどの場合、「役に立つこと」しか覚えようとしません。
だから、どんどん「役に立たないこと」は「意識の深層」に深く沈められて行ってしまうわけです。

基本的に「自己利益的なこと」が表層にため込まれ、「非自己利益的なこと」が深層に沈殿することに成ります。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

さて、ここで、前に書いたことを思い出してください。
「善悪」について(4)に、以下のことが書いてあります。

  とにかく、ごく一般的に「悪」とされていることに限ってでさえも、よくよく考えて
  みると、ほとんどの場合、「生きること」につながっています。
  ほぼ直結していると言ってもいいでしょう。
  要するに、人間が「悪」であると考えているようなことを、敢えてやってしまうの
  は、「生きるため」であることが多いんだと思います。
  じゃなきゃ、やりませんよね。
  しかし、そうなると、「生きていてはいけない」ということに成ってしまいます。

「生きること」は、最も「自己利益的なこと」です。
しかし、その「生きること」が「悪」に直結している場合が、とても多いんです。
だからこそ、人間はついつい「悪事」を行ってしまうんだと思います。

これは例を挙げれば、簡単にわかることです。

『なぜ盗むのか?』←『得をするため』←『生きるため』
『なぜ嘘をつくのか?』←『自分の立場を良くするため』←『生きるため』
『なぜ人を傷つけるのか?』←『自分が傷つけられないため』←『生きるため』

すべて、「生きること」につながっていると言ってもいいくらいです。

一見すると、『人間が草食動物を食べなくても生きていかれる』と言うのと同じように、盗まなくても、嘘をつかなくても、人を傷つけなくても、生きてはいけるというように見えるんですが、実際には、生きるためには必ず他者の犠牲が必要に成ります。
『生きる』ということ自体が、そういう「エネルギー交換」で成り立っていることなので、それは絶対に抜けられない法則のようなものだと思います。

だから、それを「悪」と呼んでしまうと、「生きること」が「悪」であるということに成ってしまうのです。

ところが、人間が「悪」と名付けているもののほとんどが、そういうモノなのです。
つまり、「自分のために他者を犠牲にすること」ですね、それを「悪」と言っている場合がほとんどだと思います。
そして、人間は(と言うかすべての命は)『「他者の犠牲」が無いと生きていかれない』ということなんです。

そして、さらに、「生きること」自体は「自己利益的なこと」ですが、その「生きること」が「悪」に直結しているということは、人間にとって、最も認めたくないことであり、また、最も「非自己利益的なこと」なのです。
(なぜならば、『生きていてはいけない』と言う結論を突き付けられてしまうからです)

だから、「生きること」にまつわる、もろもろの「知識」は、すべて「表層意識」の領域に貼り付けられていきます。
それは、いつでも見られて、いつでも使えるように成っています。

そして、「生きること」が「悪」につながっているということに関する「認識」は、完全に見えないくらい深い「心の深層」の領域にしまい込まれてしまうことに成るのです。
だから、ほとんど、見られることは無く成ってしまうし、そうやってなん十年も過ごしているうちに、そこにそういう領域があること自体を忘れてしまうわけです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

何度も言って、申し訳ありませんが、ここでお断りしておきます。

私は、「生きていること」が「悪」であると言っているのではありません。
それとは逆に、
『そこまでは「悪」と言わないようにしよう』と言っているのです。

ただし、
『それは「悪」ではない』とも断言しない方がいいんじゃないのか?と言いたいわけなんです。
そして、
『それを「正しいと断言すること」こそ「悪」と呼ぶべきものなんじゃないのか?』と言っているのです。

とても、わかりにくくて申し訳ありません。
でも、簡単に言えば、曖昧な状態にしておいた方がいいんじゃないの?と言っているわけです。

一番初めに書いたように、人間には所詮「善悪」を判断するほどの能力は無いんだと思いますから、それを無理やりに判断しようとするのではなく、「善悪の基準」を「曖昧」にしておくことで、フレキシブルな領域を作ることが出来れば、少しいいのかな?と思うわけです。
「善悪」を判断する能力が無いからといて、「善悪の規準」を完全に放棄してしまうと、どうやらあまりいい方向には行きそうもありませんし、かといって、はっきりした「善悪の規準」を設定しようとすれば、結果的には「強い者にとっての善」だけがまかり通っていくことに成ります。
当然、「弱い者」にとっては、最悪の世の中に成るでしょう。

そんなことから、「曖昧な規準」を「善悪の規準」とすることが出来れば、少しいいんじゃないのかな?と思うわけなのです。


そして、私は、そのためには「自己内における悪の正当化」を「悪」と考えていくといいような気がしているわけです。

理由は一つだけ、『それなら出来そうだから』

そして、さらにその「自己内における悪」を規定するのに必要不可欠になってくるのが、「自分の潜在意識の把握」ということだと思うわけです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

少し、終わりに近づいてきた気がしますが、また、長く成って来たので、次に続けます。

出来れば、もうそろそろ、終わりにしようと思っています。


『こんなの読み続けている、そこのあなた!』

『アホらしくて、とってもステキよ!!』

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※この記事は私がメインでやっている下のブログからの転載です。

 

「善悪」について(10)

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どうも、こんにちは。

「善悪」についてのつづきです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

前の記事の

  だから、誰かが自殺しても、誰かが鬱病に成っても、誰かがヒキコモリに成っても、
  『私は知らなかった』
  と言えば、誰からも責められません。
  なぜなら、ほとんどの人が、
  『私も知らなかった』
  と言うからです。

  主に、こういうのを、私は、「自己正当化」と言っています。

というところからの続きです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

上のようなことを言うと、どうしても、言われた人が「責められたような感じ」を受けてしまうと思います。
でも、何度も言いますが、
私は、責めているんじゃありません。

『イジメられている子が居たら助けてやれよ!』
『なぜ、助けてやらなかったんだよ?』
と言っているわけではないんです。

そうではなくて、
私は
『イジメられている子がいたのは薄々知っていたけど、自分には助けてやることが出来なかった』
『それは、とても悲しいことだけど、また、同じことがあっても、自分には助けられないかもしれない』
と言うことぐらいは出来るんじゃないだろうか?
『なんだかんだ言って、イジメられる子の側にも悪いところがあったんじゃないの?』
こんなことを言わないでいることぐらいは出来るんじゃないか?
と言っているのです。

もちろん、私だって同じです。

誰も、助けることは出来ません。
一人も、救い出すことは出来ません。
希望を失っている人の中に、希望を創り出すことは出来ません。
ハッキリ言えば、
ナニも出来ません。


ただ、
『出来ない』と認めることだけは、
『出来ます』と言いたいだけなんです。


要するに、
『出来ない』

『出来る』
と言いたいがために「自己正当化」が必要になってしまうんだと思うわけです。
捻じ曲げてしまうんですねぇ。
(人間の習性なんだと思います)

だから、はじめから『出来ない』と認めていれば、「自己正当化」は必要なく成るんじゃないかと思うわけですね。
もともと『出来ない』と言う方が事実に近いのは間違いないことなんだし。

そして、そういうことのためには、どういうことを考えていくのが少しマシなのか?と考えて、こんなことを書いているわけなんです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

ですから、出来れば(あくまで「出来れば」ですよ)
『オマエごときが、なにをエラそうに!』
とか
『そんな風に人を責めていると、自分に返ってきますよ!』
とか
『ネガティブな発想ばっかりしていないで、もっと前向きなことを考えられないのか?』
とかと言わないで欲しいんですね。

その「ポジティブ」の影で、虐待を受けている子やイジメられている人が居る「現在と言う時代」にあっては、その「ポジティブ」がイジメや虐待やハラスメントや差別などの「隠れみの」に成ってしまうんだと思いますね。


でも、そんなのぜんぜん「ポジティブ」じゃないでしょ?
だったら、やめちゃえばいいじゃないかと思うんですね。

もう、
『出来ない』
でいいんじゃないのかな?と思うんですが、
それは
『そんなに「ネガティブ」なことなんでしょうか?』


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

いや、ヘンテコな弁解のようなことを書いているだけで、すでに、かなり長く成ってしまいましたが、さて、「潜在意識」の話です。

人間の場合、「潜在意識」の領域は、非常に広いと思います。
どちらかと言えば、「顕在化している意識」よりもはるかに広い領域があるんじゃないでしょうか?

本人が、はっきりと認識している意識は、むしろ氷山の一角に過ぎないというのが実際のところだと思います。

人間の場合、幼いころから親や学校などから、いろいろな情報をメイッパイ詰め込まれ続けて成長するわけですね。
そして、その教育によって刷り込まれ続ける情報と言うのは、ほとんどが「論理的な情報」であって、それらは、ほぼすべて「表層意識」に貼り付けられていくわけです。

そして、その「表層意識」の上に、さらに次から次へと「論理的な情報」が上書きされて貼り付けられていきます。

つまり、新しい情報が更新されていくたびに、「古い情報」は、どんどん奥へ奥へと深く埋め込まれて行ってしまうわけです。
そうなると、もう、奥深くへ埋め込まれた情報を開いて見ようとしても、どこにしまい込まれてしまったのかすらわからないという状態に成ります。
そういう「本人にも見えない領域」に成ってしまっているのが、人間の「潜在意識」だと思うわけです。


そして、「潜在意識」は、ほとんどの人が見ようともしません。
自分の中に「潜在意識」と言う「自分にも見えない領域」があることを、ほとんど認めていない人なんかも、けっこう居るんじゃないかと思います。
と言っても、「潜在意識」の領域を、完全に認識することは、かなり難しいことだと思います。

でも、まぁ、「見ようとすること」だったらできると思います。
そして、それで十分なんじゃないかとも思うわけです。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

スイマセン、前置きが長く成ってしまったので、また次に続けます。

 

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※この記事は私がメインでやっている下のブログからの転載です。

 

「善悪」について(9)

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どうも、こんにちは。

「善悪」についてのつづきです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

前の記事の

そこに関係してくるのが、「深層心理」と言うモノです。
つまり、人間の場合「表面的な心」と、その奥に隠されてしまっている「本当の心」が、かなりかけ離れていることがあるということなんですよね。

というところからの続きです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

さて、この「深層心理」とか「潜在意識」とかと言うものが、なかなか厄介なんですよね。

おそらく、こういう「隠れている意識」という「心の領域」を、はっきりした形で持っているのは、地球上に生存している生物の中では「人間」だけなんじゃないでしょうか?

私が勝手に考えているところでは、人間だけが言葉を持っている動物であることから、この特殊な「心の領域」が生まれていると思います。

もちろん、他の動物にも「ボディ・ランゲージ」や「顔の表情」や「鳴き声の使い分け」などのように、「意志疎通のための手段」と言えるものはあると思いますが、それらの人間以外の動物の「意志疎通のための手段」は、一つの情報を伝えることはできますが、その「情報」を積み重ねて、「論理」を構成することは出来ません。
人間が産み出した「言語」だけが「論理」を構成することが出来る「情報伝達手段」だといっていいと思います。
(すごく進化したコミュニケーション手段を持っている宇宙人の話は、とりあえず置いといて)

そして、「論理」を持っていることで、かえって困ることも出て来るということなんです。

「論理」が、額面どおりに知的で賢いものであれば、それでいいのかも知れませんが、「論理」は必ずしも賢いものではないので、ちょくちょく間違いますし、場合によっては「論理」に従ったために「デタラメ」になることもあります。
そういう「論理の弊害」の一つが「心の中に見えない領域を創り出してしまうこと」だと思うわけです。

当然のことながら、人間も動物ですから、生まれたときには「白紙に近い状態」で生まれてくるわけですが、人間の場合は、生まれた直後から、もう既に「言葉」に接することに成ります。
そして、その「言葉」から「情報」を得て、それを「論理」にするのにそう長い期間はかからないと思います。
(3歳くらいの子供でも、十分にヘリクツをこねますよね)

人間でも、他の動物でも、「遺伝子情報」に従っているという部分ではほとんど変わらないのかも知れませんが、人間の場合は、生まれた後から刷り込まれる「言語的な情報」の量が、非常に大きく成ってしまっているために、そういう「刷り込まれ続ける情報」の中で、どの情報が重要なのか?とか、その情報が正確にはどいう意味を持っているのか?とかと言う、割と肝心なところがおろそかに成ってしまう傾向があって、結果的に『情報に振り回される』と言うことが出てきてしまうわけです。


そして、ほとんどの場合、「論理的な情報」は、「意識の表層」に貼り付けられていくわけですから、その「論理的な情報」の量が増えていくにつれて、当然、「非論理的な情報(感情や情緒など)」は「意識の深層」に沈められていくことに成ります。
でも、これは、必ずしも「非論理的な情報」に限ったことではなく、「古い情報」は徐々に「心の奥」にしまい込まれるということは、日常的に人間の脳の中で行われていることだと思います。
(「感情」や「情緒」などは、ほとんどの場合「古い情報」なので深く沈められてしまうことが多く成るわけですね)

その結果として、生み出されてしまうのが、「潜在意識」や「深層心理」と言った「隠された意識」なんだと思います。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

そして、一度、この「隠された領域」が出来上がってしまうと、どうしても、『見たくないものは見ないで「隠された領域」にしまい込んでしまえばいいじゃないか?』と言う、本人にとっては非常に都合のいい方法論が、成り立ってしまうのだと思います。

しかも、一度、そこに「しまい込まれた情報」は、もう、ほとんど開けて見られることは無く成ってしまうのです。

だから、誰かが自殺しても、誰かが鬱病に成っても、誰かがヒキコモリに成っても、
『私は知らなかった』
と言えば、誰からも責められません。
なぜなら、ほとんどの人が、
『私も知らなかった』
と言うからです。

主に、こういうのを、私は、「自己正当化」と言っています。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

さて、また、長く成ったので、次の記事に続けます。

 

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※この記事は私がメインでやっている下のブログからの転載です。

 

「善悪」について(8)

f:id:nakafutatu:20210724135138j:plain


どうも、こんにちは。

「善悪」についてのつづきです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

前の記事の

 最後に、人間にとって「自分が悪いと思っていること」とは、
 どういうことなのか?について考えていきます。

というところからの続きです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

前の記事では、かなり希望が持てない感じの話に成ってしまったんですが、『人間の存在自体が「悪」』みたいなことが言いたかったわけではなく、実際に私が言いたかったのは『一つ間違えば、人間の存在自体が「悪」ということに成りかねない』ということなんです。

そして、そのための「キーワード」と成るのが「自己内における悪の正当化」と言うものだと思うわけです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

前の記事では、「自己内での悪の肯定」までだったら「悪」ではないと書いたんですが、実際には『自分が悪いと思っていることをする』わけですから、悪いに決まってます。
だって、自分が「悪いこと」だと認めているわけですから、それをやってしまえば「悪」と言うしかないでしょう。
少なくとも、それは「自分にとっての悪」ではあるわけです。

この一連の記事の一番最初の記事でも述べたように「究極的な意味での悪」と言うモノが無い、又は、それがあったとしても人間には見極めがつかないモノだということなのであれば、そして、さらに、それでも人間と言う生き物は「善悪」という概念を完全に捨てることは出来ないだろうと考えるのであれば、「自分にとっての悪」を「悪」と言うしかありませんし、それを『悪ではない』と言う理由は無いはずです。

それなのに、どうして、その「自分にとっての悪」=「自分が悪いと思っていることをすること」を「悪」とまではいわないのか?と言うと、これも、前の記事で書いたことの繰り返しに成ってしまいますが、『それ以上は、人間には無理』だからです。

前までの記事に書いてきましたが、人間が「自分が悪いと思っていること」をしないでいられるのは、かなり、いい条件に恵まれている場合に限ってであって、ちょっとでも悪条件が重なったりすると、人間はあっと言う間に「人間以下」に成ってしまいます。

こういうことを言うと、「あらさがし」とか「ネガティブ」とか「マイナス思考」と言ったレッテルを張られてしまうことが多いんですが、私は、決して「あらさがし」をしているわけではありませんし、「ポジティブ」を否定しているわけではありませんし、すべての「プラス思考」を潰そうと思って言っているわけでもありません。

そうではなく、
歴史を見て、「あらさがし」なんかしなくても、まざまざと見せつけられた事実を「見えたまま」に言っているだけです。
それを『「悪」ではない』と言ってしまったら、あまりにも「ポジティブ過ぎ」なんじゃないか?と思うだけです。
その「プラス思考」が、まさに「マイナス」を生み続けているんじゃないですか?と言っているだけなんです。

そして、その上で、
『でも、人間には、「その悪」を完全に封じ込めておくことは出来ない』
だから
『それを敢えて「悪」と呼ぶのはやめよう』
それで
『その「悪」を正当化する必要はないということを理解しやすくしていこう』
そうすれば
『「悪」を減らすことは出来なくても、何が「悪」であるのかだけはわかるのかも知れない』
と言っているつもりなんです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

ここで、お断りしておくと、上にも書きましたが、私は「悪」を減らしたり、無くしたりすることが出来るとは思っていません。
それどころか、「悪を無くすこと」を目的とすることは、一つの「悪」である可能性があると思っています。
なぜならば、またもや、繰り返しに成りますが、『人間には「善悪」を判断するほどの能力は無い』と思うからです。

「善悪」を判断できない人間が、「悪」を無くそうとするということは、自分が勝手に「悪」であると一方的に断定した「悪」を無くすということに他なりません。

でも、それは、もしかしたら、他の誰かにとっては必要なモノなのかもしれません。

もしも、「絶対的な悪」と言うモノが存在するならば、そんなことは有り得ないことでしょう。

しかし、ここまでの記事に書いてきたように、人間の「善悪の規準」が、完全に「場当たり的なモノ」であるということは、ほぼ間違いのないことだと思いますから、「誰かにとっての悪」が「別の誰かにとっての善」である可能性は十分に有り得ることなわけです。

カルト的な意味での「ナチス思想」を持った善良なドイツ第三帝国の国民にとって、「ユダヤ人を撲滅すること」が「善」であったとしても、それじゃあ、ユダヤ人にとっては、たまったものじゃありません。
でも、残念ながら、「人間の善悪の規準」なんて、そんなもんです。

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さて、そうなると、何を頼りにして「善悪」を判断していけばいいのか?

そこで、私が設定している「善」と「悪」を分けるための規準が「自己内での悪の正当化」と言うモノなんです。
(あくまで仮に設定しているということです)

そして、その「自己正当化」を見極めるのも、人間の場合、なかなか難しい作業だと思います。
要するに、「自分が悪いと思っていること」を『いや、あれは悪くないんだ』と言ってしまうことを「自己正当化」と言っているわけですが、その「自分が悪いと思っていること」が、「ナニ」なのか?これが、人間の場合なかなかわからないんですねぇ。

そこに関係してくるのが、「深層心理」と言うモノです。
つまり、人間の場合「表面的な心」と、その奥に隠されてしまっている「本当の心」が、かなりかけ離れていることがあるということなんですよね。

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さて、本当は、ここから先が、この記事で書きたかったことなんですが、前までの記事の内容をおさらいしているうちに、またもや長く成ってしまったので、次の記事に続きを書きます。

 

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※この記事は私がメインでやっている下のブログからの転載です。

 

「善悪」について(7)

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どうも、こんにちは。

「善悪」についてのつづきです。

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前の記事の

 つまり、「自分が悪いと思っていること」を実行することで「自己内に
 おける悪」を肯定してしまって、さらに、その「実行された悪」を自分 
 の中で、『いや、これは「悪」ではないんだ』という形に無理矢理変
 形させることで「正当化」しようとするというところまで来たら、『もう
 この辺まで来たら、それを「悪」と言ってもいいんじゃないか?』とい
 う風に思うわけですね。

というところからの続きです。

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上の文章、なかなか恐ろしいですよね。
でも、こういうのをやっている人、けっこうたくさん居ます。

と言うか、自分だって、やってしまうことはあります。
だからこそ、こんな記事を書いているのかも知れません。

せめて、そう言うことを、自分の中で少しでも食い止めようということですね。
「自分の行い」を振り返って、そういうモノがあったときには、それは上に書いてあるような「恐ろしいこと」なんだと認めていくようにしようということです。
まぁ、『完全にやめるのは無理だから、認めるだけでも認めて行こう』ということですから、それほど立派なことではないんですけどね。
そんな感じで、やや情けない「善悪の規準」に成ってしまう気配も漂い始めては居るんですが、一応そういうことなんです。


こんなことを言うと、また、『何を、オマエごときがエラそうなことを』と言われてしまうのかも知れませんが、でも、まぁ、そこのところを、ちょっと大目に見ていただいて、と言う前提で言わせていただきます。

やはり、人間と言うのは『まだまだ「人間」に届いていない』という所があると思います。
(『届いてないのは、オマエだけだろ!』という感じで)


『人間として最低限のこと』が、完璧に実行できる人ってどのくらいいるでしょう?
『そんなことするなんて人間じゃないよ』と言うようなことを、みんな一度や二度はやってませんか?

ハッキリ言ってしまえば、人間が「人間」でいられるのは、「恵まれた条件を与えられた場合」に限ってのことだと思います。
「ちょっとしたプレッシャー」くらいでも、『人間じゃない』をやってしまうというのが、むしろ普通なんじゃないでしょうか?
前述の「戦争」の話などからも分かるように、「ちょっと厳しい条件」さえ与えられれば、人間は平気で人を殺しますし、平気で人を差別しますし、平気で大量虐殺にだって加担してしまいます。

これは極端な例ではありますが、、あえて、わかりやすい例を挙げれば、ナチス統制下のごく標準的なドイツ人は、ほぼ全員「ユダヤ人の大量虐殺」に加担させられてしまったんだと思います。
日本人だって例外ではありません。
その当時の日本は、日・独・伊三国同盟に参加していたわけですから、加担していたと言わざるを得ません。

確かに、一般的なドイツ人が、みな「ユダヤ人虐殺」の詳しい状況を知っていたわけではないのかも知れません。
まして、日本人の中に、そんなことを知っている人なんか一人も居なかったでしょう。

でも、『知らなかったんだから仕方ないんだ』と言っていいもんなんでしょうか?
『全部ヒトラーが悪いんだ』ということなんでしょうか?
『その当時の日本の軍国主義が異常だったんだ』だから『自分たち一般人は悪くない』と言えるのでしょうか?

私は、こういうのを含めて「自己内での悪の正当化』と言っています。

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『知らなかったんだからしょうがない』  
確かにそうでしょう。
『でも、知っていたら、ナチスに逆らえたんですか?』
『もしも、あなたが知らされていたら、なんとかして止めようとしましたか?』

『自分のしたことでもないのに責任なんか取れない』  
確かにそうでしょう。
『でも、もしも、あなたが偶然ナチ党の幹部に抜擢されたら、ヒトラーに苦言を呈していましたか?』
『それとも、ユダヤ人をガス室に送り続けたんでしょうか、どっちでしょう?』

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ここで、誤解があるといけないので、お断りしておくと、私は上記のようなことした人を責めているわけではないんです。
それが、この文章の書き始めの記事で述べたことなんです。
つまり、『「生き残るためにやったこと」は「悪」とは言えない』ということです。

それが、「大量虐殺に加担すること」だったとしてもです。
(「ナチス」のような組織に逆らえば、自分が死ぬことに成るわけですから)

もちろん、そんなことが起きないのが一番いいのはわかりきっていることです。
しかし、人間が生きている限りは、そう言うことが起きることを完全に封じ込めることは出来ないと思います。

そう成ったときに、『「人は人を殺してしまうモノ」だというのは防ぎようが無いことなんだ』と言ったら、言い過ぎでしょうか?

「戦争」のような極端な社会情勢に限った話ではなく、現在の一見すると平和な社会にあっても、「イジメ」や「ハラスメント」があると、どうしても、そこに『参加するか?抗議するか?』の二択を迫られます。
そういう時には、ほとんどの人が、「無関心」を装うように成ります。
そして、後で、誰かが自殺したときに『私は知らなかった』と言うわけです。
そして、それを責められることはありません。

しかし、それは「消極的な参加」だと、私は思います。
ただし、間違えないでください。
私は、それを『「悪」ではない』と言っているのです。

私が『「悪」である』と言っているのは、その「消極的な参加をしてしまった人」ではなく、「そういう自分を正当化する人」なんです。


つまり、『知らなかったんだから、自分は悪くない』と言わずに、『知っていたとしても、知らなかったとしても、自分にはそれを止めることができなかったという事実がある限り、自分には、その分の「悪」があった』と、そう言うだけでいいと思うと言っているわけです。

 

確かに、「ナチス」や「戦争」の話は、あくまで極端な状況の中での話です。
しかし、今の日本にも、これと同じような構造の出来事は日常の中で、たくさん起きています。

イジメで自殺する子供にとっては「学校」が、虐待を受けている子供にとっては「家庭」が、「ユダヤ人収容所」そのものなんじゃないでしょうか?
酷いパワハラモラハラを受けている人たちにとっても、そこが「地獄」であることに変わりはないでしょう。

それらの「地獄」が、この「豊かな国」・「豊かな時代」・「豊かな文明」と言われている世界の日常の中に、ごく当たり前の顔をして存在して居ます。

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やや、「善悪の規準」と言う話からは、それてしまいましたが、こういうことを踏まえて「自己内での悪の正当化」ということを考えていくことが、「善悪の規準」を方向付けていくうえで必要になるんじゃないかと思うわけですね。

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本当は、もう少し、希望が持てるような話にもっていったところで話を区切りたかったんですが、そう成るとかなり長く成ってしまいそうなので、この辺で、また次に続けます。

最後に、人間にとって「自分が悪いと思っていること」とは、どういうことなのか?について考えていきます。

まぁ、ここまでお読みに成った方は、かなり忍耐強い方でしょうから、ついでに、最後までお付き合いいただければ嬉しいです。

 

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※この記事は私がメインでやっている下のブログからの転載です。

 

『Rollin' & Tumblin'』『Love Junkie』

 


www.youtube.com

もう一曲、両方とも曲のタイトルから「詩のような題」の発想をもらいました。


www.youtube.com

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「詩のような題」=「ポエティック・タイトル」

 

あたしの こころを つれてって
『Rollin' & Tumblin'』
この からだは あげるから

あたしと いっしょに ながされて
『Love Junkie』
あなたと いっしょに ながされたいから


そうすれば 
なにもかも きっと うまく いくから

 

 

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※『 』 の中は「題の題」のようなものです。

その絵を呼ぶのに使う「呼び名(ニックネーム)」だと思ってください。

あぁ、言い忘れてましたが、「絵の題」としてつくっています。

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※上の記事に関連することを、下のリンクでも説明しています。

 

geijutuno20ctsousitu.hateblo.jp