私は、そんなわけで20世紀をやめました

20世紀のシッポを切り落とすために出来ることを考えます。 20世紀を辞めたら、もしかすると21世紀に就職出来るかもしれない。 いや、もう一度20世紀をやり直せばいいのさ。 もしも、20世紀をやり直せるとしたら、きっと面白いことに成るよ!

「善悪」について(14)

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どうも、こんにちは。

「善悪」についてのつづきです。

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前の記事の

 そういう「中途半端な善悪の規準」を設定するには、とりあえず「自己正当化」
 を「悪の規準」と仮定した考え方をしていくのがいいんじゃないのかな?と思う
 わけですね。

 そういうことからも、自分の中の「潜在意識」を見極められると「隠れた悪意」が
 見えて来て、「自分の中の悪」を認めやすく成るような気がするんですが、どう
 でしょうか?

 それ以外に人間が「自己正当化と言う罠」から抜け出す方法はないような気が
 します。

というところからの続きです。

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前の二つの記事で、「教育と児童虐待」、「自動車の運転と死亡事故」と言った、日常の中にある「善と悪の交錯」や、「常識と悪の交錯」について書いたわけですが、これは、この一連の記事のはじめの方で書いたこと、つまり、「生きること」が「悪」につながっているというのと同じ構図で成り立っていることだと思います。

そうなると、「生きること」を「善」とするべきなのか?
それとも「悪」とすべきなのか?
いったいどっちなんだ?
と言う究極的な状態に、いきなり追い詰められてしまいます。

しかし、それはあくまで「究極的な意味での善悪」についての話であって、その前に「善」も「悪」も人間が勝手に作り出した言葉に過ぎないものですから、それほどの「究極的な意味」は無いともいえるわけで、少なくとも、そういう「人間が作りだした言葉」としての「善悪」に限定して考える場合は、そういうところまで追い詰めた考え方をする必要はないんじゃないかと思うわけです。

そういう前提で言うならば、もう少し「曖昧な善悪の規準」があってもいいと思いますし、それこそが、人間が考えうる範囲での「善悪の規準」と言えるものなんじゃないのかな?とも思うわけです。

そして、そういう考え方をしていく上で、私は「自己内での悪の正当化」というものを「悪の規準」と考えているわけです。

なんたって、『自分が悪いと思っていることをやって、さらに、それを悪くない、いや正しいんだと言い張る』ということですから、それを「悪」と言っても差し支えないんじゃないの?ということなんです。

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そして、私が、この「自己正当化」を「悪」に設定してもいいだろうと思う理由がもう一つあって、それは「自己正当化」には「罠」としての性質があるからなんです。


「自己正当化」に完全にハマってしまった人は、たとえ「潜在的な悪意」であったとしても、自分の中に存在している「悪意」を「善意」にすり替えてしまうわけですから、当然、そこには「無理」が生じます。

しかし、その「無理」も含めて「自己内の悪」が「正当化」されているわけですから、当然、その「無理」も認めなく成りますし、『無理などない!』と言い張ることに成ります。
ところが、そうなってくると、それが、初めの段階では「自分が悪いと思っていること」であったということは完全に打ち消されて、それが、もともと「自分が正しいと思っていたこと」であるかのような主張を展開せざるを得なく成ります。

もともと、「潜在的な悪意」は、見えにくいものですから、「自分が悪いと思っていること」とは言っても、はっきりと「悪意」として認識されているわけではありません。

しかし、それでも、まだ「自己正当化」に完全にハマっていない人であれば、そういう「潜在的な悪意」に対して「良心の呵責」と言うような「小さな罪悪感」のようなモノを、ある程度は意識しているんだと思います。
だからこそ、「虐待」や「飲酒運転などによる死亡事故」などを犯してしまう人が、そうたくさんは居ないんだと思います。
(はじめから悪いと思っていないんだとしたら、もっと、多くの人がやってますよね)

ところが、一度、その人の中で「自己正当化」が完全に成立してしまうと、その「良心の呵責」や「小さな罪悪感」は、完全に打ち消されてしまい、無かったことにされて、『初めから正しかったんだ!』ということに成って、『正しいことをして、何が悪いんだ!』と成っていきます。
元はと言えば「自分が悪いと思っていること」だったのにです。

そうなると、そこから先は、「善悪」なんてどうでもよく成ってしまって、『捕まらなきゃいいんだ!』『罪にならなきゃいいんだ!』ということに成っていきます。

自分自身が「虐待行為」を行っている人でも「他人が行っている虐待」については、批判する人が非常に多いそうです。
そういう人は、『自分がやっているのは、「虐待」とは正反対の「教育」や「しつけ」である』と、本気で思っているんだそうです。

だから、そういう人たちは、必ず自分たちがやっている「虐待行為」を隠したり誤魔化したりするように成って、なんとしてでも罪を逃れようとしますし、捕まった後も滅多なことでは罪を認めません。
彼らの言い訳で多いのは『なんで「しつけ」をしただけで捕まらなきゃいけないんだよ!』と言うものです。
もう、完全に客観性が失われてしまっていますから、どんなにヒドイ「虐待」をしていても、それを本気で「しつけ」だと思ってしまうわけです。

人のことだと客観的に見えるので批判するんでしょうが、「自己正当化」にハマってしまうと、「自分のこと」だけが客観視できなくなってしまうんですね。
「自分が悪いと思っていること」を「正しいこと」と無理矢理すり替えてしまうわけですから、その「無理矢理な自分」を正当化し続けるためには「自分を客観視すること」が邪魔に成ってくるわけです。

そうなると、もう、何も見えなく成ってしまうのでしょう。

こういうことを繰り返していると「自己正当化」が「罠」に成ってしまうわけです。

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「自分が悪いと思っていることをやってしまうこと」
これは、誰にでもよくあることです。
人間は、かなり不完全ですから、「自分が悪いと思っていること」でも、やってしまいます。

でも、そこで、それが「自分が悪いと思っていること」であるということに気づいて、やめる人も居ますし、他人から指摘されてやめる人も居ますし、完全にはやめることが出来ないまでも、それを、心の中で『これは本当は悪いことなんだ』と思う人も居ます。

これらは、どれも「自己正当化」には成りませんから、そこで「自己正当化の罠」からは逃れることができます。

しかし、人間と言うのはどうしても「自分がやったこと」を『正しい』と言いたく成ってしまうように出来ています。
だから、たとえ、それが「自分が悪いと思っていること」であっても、ついつい、それを『正しい』と言って(思って)しまうわけです。

それでも、そういう「自己正当化」を、たまにやってしまうという程度であれば、まだ、それは「罠」とまでは言えないと思います。
つまり、「自己正当化」をした後で、次の機会には「自分の中の悪意や誤り」を認めることが出来れば、その都度、もとの位置まで戻りますから、完全な「自己正当化」にハマってしまうことは無いでしょう。

しかし、何度も連続して、習慣的に「自己正当化」を繰り返してしまうと、完全にハマってしまいますし、一度ハマってしまうと抜けられなく成って、「罠」に成ってしまうわけですねぇ。


実は、これは、とても恐ろしい「罠」で、かなり抜けるのが難しいんじゃないかと思うんですよね。

なぜ、抜けるのが難しいかと言うと、ここまでずっと書いてきたように『見えないから』ですね。

「自己内の悪」が「正当化」された時点で、本来あったはずの「悪意」が無かったことにされてしまいますから、それは見える位置にあると都合が悪く成るわけで、そうなれば、当然「見えない場所」に持っていかれます。

その時点では、まだ、その「悪意」がそこに在ることは気になってしょうがないわけですから、「見えない場所」にあるとはいえ、むしろ強く意識されていますが、そういう状態を長く続けていると、「自己内の悪」が「正当化」されるたびに、それはどんどん心の奥の見えにくい場所に持っていかれることに成ります。
そうなると、だんだん、それがどこに有るのかがわからなくなってきます。
そして、完全に忘れられて、見ることが出来なくなってしまったときに、「自己正当化」が「罠」に成ります。

そうなると、もう、本人が見ようとしても、やすやすとは見ることができない状態に成りますから、自分がどんなに「自分が悪いと思っていたこと」をしていても、それが、すべて「正しいこと」のように見えるように成ってしまいます。

だから、「人がやっている虐待」が「悪いこと」だということはわかるのに、「自分がやっている虐待」だけは「しつけ」だとしか思えなく成ってしまうわけです。


ここまででも、十分に恐ろしいことなんですが、これのどこが、ほんとうに恐ろしいかと言うと、最終的には「自分が悪いことだと思っていたこと」だけしか出来なく成っていくということなんです。

「自分が悪いと思っていること」をやって、それを『正しい』としてしまうと、次からも、その「正しいこと」をやり続けなくてはならなく成ります。
そして、当然の結果として、それとは違う「自分が正しいと思っていたこと」は出来なく成っていくことに成るのです。

しかも、自分以外の人間にも、その原理はある程度当てはめざるを得ないケースがだんだん増えていきます。
そうなると、いつも「自分がすること」も「自分が自分の周りの人に、されること」も、すべて、もとはと言えば「自分が悪いと思っていたこと」だらけに成っていってしまうのです。

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これは実例として聴いたことがある話ですが、『リストラはやる側に成らなきゃダメなんだよ』と言っていた人が、次にはリストラされる側に成ってしまうことがけっこう多いそうです。

何故かと言うと、リストラをやる側だった時に、自分の中にあった「良心の呵責」を無かったことにして「自分の中の悪」を「正当化」してしまっている人は、いざ、自分がリストラされる側に成ったときに、なかなか文句が言えないんだそうです。
さんざん自分がやってきたことですし、さらには、自己内でその行為を「正当化」してしまっていますから、たとえ自分がやられる側に成っても、それを『正しい』と言わざるを得なく成ってしまうんでしょうね。

それでも、さらに「自己正当化」が激しい人に成ると、それすらも、捻じ曲げてしまうでしょうから、リストラぐらいでは動じないのかもしれません。
そういう人は、自分がリストラされる側に成ったときだけは、猛然と抗議するんでしょう。
その場では、それで得をするのかも知れません。

しかし、そういう人ですら、結果的に「自分が悪いと思っていること」に取り囲まれて生きていくことに成るのは避けられないと思います。
いや、むしろ、そういう強力な「自己正当化」にハマってしまった人こそ、より一層強力に、「自分が悪いと思っていること」に取り囲まれて生き続けることに成るわけです。


そういう人たちは、いつも「潜在意識」の中で「自分が悪いと思っていること」を、自分でもやり続け、他人からもやられ続けて生きて行かなければならなく成りますが、それをやめたり、それに文句を言うことだけは許されません。

なぜなら、『それが、正しくなければならないから』です。
そこに文句を言ってしまうと、その『正しい』が崩れてしまいますから、言えません。
『自分だけはOK』
『他人はNO』
と言うのにも限界があります。

「自己正当化」を長く続けて行けば行くほど、同じことをしていても『自分だけはOK』で『他人はNO』と言う「矛盾」がだんだん極端に成っていきますから、最終的には、その「矛盾」を自分自身が突き付けられ続けるような状態に成ります。
そう成った時に、完全に「自己正当化」にハマってしまった人が、その「矛盾」を認めることはまずありませんから、すべてを『正しい』で通すしかないんです。
だから、「自分がやる自分が悪いと思っていること」も、「他人からやられる自分が悪いと思っていること」も『すべてOK』ということにしていくしか選択肢が無く成ってしまうわけです。

『正しい』ということで「自己正当化」が成り立っているので、そこを崩してしまうと、過去から行って来た、すべての「正当化」の負債が一気にのしかかってきてしまって、自己のアイデンティティが崩壊してしまうと思い込んでいるので、その恐怖から逃れ続けるためには、「自己正当化」を続けて行くしかなく成ってしまうわけです。

自分自身が「悪いと思っていること」をやり続け、人からもそれをやられ続けながら、生きて行かなければならなく成るとしたら、もう、「生き地獄」だと思いますよ。

しかも、その「生き地獄」の中で生き続けることを『いいんだよ!正しいんだから』と言い続けるしかなくなってしまうわけですねぇ。


なんとも実に恐ろしいことだと思います。


こんなこと言うと、ずいぶんオーバーな話だと思う方も居るでしょうが、実際に、そういう人はたくさんいると思いますよ。


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※ここで、一つお断りしておくと、上の話は、あくまで「自己正当化」にハマってしまった人についての話です。
例えば、うつ病などで人生に希望を持てなく成っている人が、上の記事を読んで、自分のことと重ね合わせてしまうということがあるとは思いませんが、もし、万が一にもそんな風に思われた方が居らしたならば、それはまったく違います。
と言うか、正反対です。
これは、「自己正当化」についての話であって、その結果として起きてくる状態のことを書いたことです。
うつ状態の人は、「自己否定的」ですから、正反対ですね。

もしも、そう感じた方が居らしたならば、心からお詫びたしますので、どうかお許しください。

上の話に、当てはまる精神障害があるとすれば、おそらく、それは「自己愛性人格障害」のようなものだと思いますが、上の話は、そういう「精神疾患」に関することを書いたわけではなく、ごく一般的な人がハマってしまう「異常な心理状態」のことについて書いたことなので、そういう解釈でお読みいただければと思います。

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いや、ちょっと話が、恐ろしい感じに成ってしまって、申し訳ありませんでした。

でも、私は、「自己正当化」はそれぐらい「ヤバイ罠」だと思うんですよね。

まぁ、もうすぐ終わると思いますので、お許しください。

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※この記事は私がメインでやっている下のブログからの転載です。