私は、そんなわけで20世紀をやめました

20世紀のシッポを切り落とすために出来ることを考えます。 20世紀を辞めたら、もしかすると21世紀に就職出来るかもしれない。 いや、もう一度20世紀をやり直せばいいのさ。 もしも、20世紀をやり直せるとしたら、きっと面白いことに成るよ!

「善悪」について(17)

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どうも、こんにちは。

「善悪」についてのつづきです。

※この記事は、これで最後です。
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前の記事の

 お互いに自分の非を認めることが出きれば、罵り合う必要は無く成るんじゃないかと思います。
 とりあえず、それだけで、『私はそれを「悪」とは呼ばない』ということですね。

というところからの続きです。


ここまでの記事で、私の言葉が足りなかったり、文章がおかしかったりしたことで誤解があったかも知れませんが、とにかく、私が言いたかったのは、『もしも、それが「悪」であったとしても、私はそれを「悪」とは呼ばない』ということであり、『それでも、「善悪」という概念を捨てることは出来ないから、あえて「善悪の規準」を設定するとしたら~』ということだったわけです。

もしも、『「悪」とは~である』と言う一方的な決めつけのような話だと感じた方がいらしたならば、お詫びして訂正いたします。

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さて、最後に「否定」と「完全否定」について書いておこうと思います。

「否定」や「完全否定」は、この「善悪」についての記事とは、あまり関係がないように思えるかもしれませんが、私は「自己正当化」によって生み出されるものの中でも、「完全否定」と言う状態がどう考えてもいいものだと思えないので、それについて触れておこうと思いました。

まず、私がここで「完全否定」と言っているのは、「自己否定や他者肯定を含まない他者否定」のことです。
(ややっこしいですが、三回読むとわかります)
つまり、「自己を完全に肯定したうえで、他者を完全に否定すること」を「完全否定」として考えています。
いわゆる「人格否定」とだいたい同じモノだと考えていただいていいと思います。
(人間のことに限定した話だと思っていただいた方がいいかもしれません)

  ※「自己否定」においては「完全否定」は成り立たないと、私は思っています。

   「自己否定」の場合も「他者を完全に肯定したうえで、自己を完全に否定す
   ること」は、一種の「完全否定」ではあると思いますが、その主張を行ってい
   るのが「自己」であるということ自体が、「一つの自己肯定」=「自己の存在
   を肯定する行為」であるために、「自己否定」においては「自己肯定を含ま
   ない完全な自己否定」は成立しないというのが、私の考え方です。


「自己正当化」が習慣に成ってしまった人は、必ずと言っていいほど、この「完全否定」=「人格否定」の形に行き着きます。
「自分が悪いと思っていること」をやって、さらに、それを「正当化」してしまうという「論理の捻じ曲げ」を繰り返していると、どうしても、「自分の中のすべて」が『正しいことであるべき』と言う心理状態が出来上がってきます。

「自分の中」に一つでも「正しくないもの」があると、そのことについて、間違いを認めたり、あやまったりしなくてはならなく成りますから、「自分の中の非」を認められない状態に成った人は、必ず、「全ての自分」について『正しい』と言う主張を繰り返すように成ります。
さすがに、あからさまに『私は絶対に正しい!』と言い切る人はなかなかいません(それを言うと「自己正当化」が明らかに成ってしまうので)が、基本的に『私が間違ってました』とは言えなく成っていきます。

そうなると、その人の中には「完全無欠の自分」と言う「偶像」が形成されることに成ります。
一度「偶像化」した「自分」は本人にも崩せなく成ってしまいますから、それは「完全無欠」であり続けなければならなく成ってしまうわけです。

そう成った後は、当然、その「完全無欠であるべき自分」に逆らう者が現れた場合、それを「完全否定」するしかありません。

その時点で、相対的で普遍性のある「善悪」という概念は消えて、すべての人を「完全な自分」と「それに従う他者」と「それに従わない他者」と言う三者に分類するように成ってしまいますから、「完全な自分」と「それに従う他者」が「善」で、「それに従わない他者」は「悪」と言う「絶対的な善悪」の判断が、まったく当然のことのようにしか思えなく成り、それを本人にも止めることが出来なく成ります。


しかし、よくよく考えてみると、世の中に「完全なもの」なんてありません。
逆に言うと「一分の利もないもの」もありません。
だから、「完全な肯定」も「完全な否定」も、有り得ないものであって、それは、「空論」に過ぎないものでしょう。


つまり、「自己正当化」=「完全な自己肯定」も「人格否定」=「完全な他者否定」も、無意味で実体のない「空論」であるとしか言いようがありません。


これを「悪」と呼ばずして、他に「悪」と呼べるものを、私は思いつきませんから、これを「悪」と呼んでいるわけですね。

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さて、この「完全否定」と「ただの否定」の違いです。

ここにも「二極」があって「肯定」と「否定」が両立していることによって物事が成り立っています。
だから、「完全否定」も「完全肯定」もないということは、当然のことですし、何時如何なるものも「肯定的な側面」と「否定的な側面」が両方とも同時的に両立していて成り立っているということに成ります。

ところが、現在は「ポジティブ」や「前向き」という言葉だけが全面的に支持されていますから、「ネガティブ」や「後ろ向き」な考え方は、ほぼ否定されてしまいます。
しかし、これはどう考えても、おかしなことで、『「否定」だけは否定していい』というのは、どう考えても自己矛盾に成っていますよね。

それに、実を言うと「ポジティブ」と言うと聞こえはいいんですが、「ポジティブ」と言うのが「肯定」と言う意味だとすると、それは、「現状(既存)の肯定」を意味することに成りますが、だとすれば「ポジティブ」からは、新しいものが生まれないということに成ります。

実際に、新しいものを生み出すのは「否定」=「ネガティブ」に他なりません。
「現状(既存」のナニカ」を「否定」するから、そこから新しいものを生み出して行こうというエネルギーが生まれているわけで、「肯定」と言うのは、意外と「怠惰」なことなんではないでしょうか?

でも、私は、「ポジティブ」が悪いと言っているんじゃありません。
ただ、ここでも「二極」が両立していないと、実体とは成らないということです。

「ポジティブ」と「ネガティブ」が両方あって、はじめて、どちらも機能するわけで、どちらか一方であれば、それは無意味でしょう。


こんなことから、「否定=ネガティブ」は必要だと思いますが、上に書いたように「完全否定」は無意味だと思います。
当然、「完全肯定」も無意味です。

そして、「自己正当化」によって、その両方が産み出されてしまうというわけです。

だから、これを「悪」としてもいいんじゃないかな?と思っています。

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さて、最後に成りましたが、「善悪」と関係が深いと思われるいくつかの言葉の、私なりの解釈を述べておきます。


1,「差別」と「平等」

私は、何が嫌いか?と聞かれたら、迷わず「差別」と答えると思います。
なぜなのかは、自分でもよくわかっていないんですが、とにかく嫌いですね。

私の解釈では、「差別」と言うのは、実際には存在していない「上下の差を創り出す行為」のことです。
つまり、「差別」と言うのは「天王星」と「冥王星」のどちらかを「エライ!」と言っているようなことであって、まったくもって無意味なことだと思います。
それと、「〇〇人」と「〇〇人」のどちらかを「エライ!」ということは、私から見たら、ほとんど同じことにしか見えませんね。
これは人間でなくても全く同じことです。

「差別」を「悪に近いもの」だとするならば、それに対応する「善に近いもの」は、おそらく「平等」ということに成るんだと思います。
しかし、この「平等」が「均等」や「同等」や「公平」ということと区別されていませんね。

私の解釈では、
「平等」は「同じ高さに置かれたものが、すべて違うモノである状態のこと」です。
「均等」は「チガウ高さに置かれたものを、すべて同じモノにしようとすること」です。
「同等」は「もともとほぼ同じモノのこと」です。
「公平」は「公が、上から与える平等のこと」です。

私はこの中で、「差別」の対極にあるのは「平等」だと思っています。


2.「権力」と「権利」

「権力」と「権利」は、実際にはほとんど同じものだと思います。
「強者」が持てば「権力」と成り、「弱者」が持てば「権利」と成ります。
しかし、「弱者の権利」も、たくさん使われると「権力」と成ります。
だから、「権利」を使う必要がない状態が、理想だと思います。

そして、それは「権力」が無い状態です。
「権力」がある限り、それに対抗する手段としての「権利」が必要に成りますし、それは使われることを前提として存在することに成りますから。


そして、現在、最も強い権力とは「有名であること」です。
(これは、「目に見えない権力」ですが、「絶大な権力」だと思います)

だから、私は「有名性」と言うモノがなくなればいいなと思っています。


3.「強者」と「弱者」

「強者」と「弱者」の関係は、絶対的な関係ではないと思っています。
従って、「絶対的な強者」も「絶対的な弱者」も居ないと思います。

例えば「社会的な強者」とか「経済的な強者」とかと言うように、シチュエーションによっても別の「強者と弱者」が居るでしょう。

いずれにしても、「強者」に対して、それよりも弱い者を「弱者」と言うんだと思います。

これも、本来は存在しないはずの「上下関係」が人間の意識の中で捏造されている場合が非常に多いと思います。
本来は「強者」が上で「弱者」が下ということはないはずなんですが、どういうシチュエーションであっても、必ず「強者」は上に置かれて、「弱者」は下に位置付けられます。
(と言うか、この場合は結果的に「上に置かれた者」を「強者」と呼んでいる場合が多いですね)

従って、「上下の差」を緩和するためには、常に「弱者」が優遇される必要が出て来ます。
私は、それを「善」と呼んでも差し支えは無いと思います。

私は、人類と言う「種」は、地球上ではじめて「弱いこと」を尊重するという進化の形を選択しつつある「種」だと思っています。
だから、「人類」にとっては、「弱いこと」は、もう「マイナス要素」ではなく成りつつあるんだと思います。

そんなことから、私は、「弱者を尊重すること」を、一種の「善」と考えてもいいような気がしています。


4.「美しさ(犠牲)」と「醜さ(保身)」

「善悪」なんて言ってますけど、突き詰めて考えていくと、けっきょく残るのは「美しさ=善」と「醜さ=悪」と言うことしかないような気がするんですよね。
『これこそ「善」なるものである』と考えても問題が生じないものと言うのを考えていくと、最終的に「美しさ」しか残らないような気がしますし、『これこそ「悪」なるものである』と考えても問題が生じないものと言うのを考えていくと、最終的に「醜さ」しか残らないような気がするんですよね。
(と言っても、『『問題がな』いというでけですけど)

もちろん「外見的な美醜」のことではないですけどね。
もしも、「本質的な美醜」と言うモノがあるのならば、それを「善悪の規準」と置き換えても、ほぼ問題はないような気がします。
(じゃあ、この記事もそっちの話でよかったんじゃないか?まぁ、この記事は、それをもう少し具体的に言うと「自分が悪いと思っていることをすること」辺りが境目に成るのかな?ということです。)


その上で、あくまで人間について言うと、私は、人間にとって唯一の「美しい行為」とは「自己犠牲」だと思っています。
そして、人間にとって最も「醜い行為」が「自己保身」だと思っています。

『ナニカが出来るか?出来ないか?』ということとは必ずしも関係ありません。
もしも『ナニも出来なかったとしても』そこに「犠牲」が払われるということが「美しいこと」だと思います。
逆に言うと、どんなに立派なことをしたとしても、「犠牲」が払われていない場合は『美しくはない』ということですね。

まぁ、実際には、『人間には何も出来ない』と思っていますから、「自己犠牲」を払った時くらいしか、人間が美しく見える瞬間なんて無いと思うということですけどね。

そして、その「自己犠牲」から、最も離れた行為が「自己保身」だと思いますので、それを「最も醜い行為」だと思うわけです。
そして、さらに言えば、「自己正当化」と言うのは、人間の行いの中でも最も「自己保身的な行い」だということですね。

つまり、「自己保身」の最上級が「自己正当化」だと思うわけですね。


5.「自然」と「人工」

「善悪」と言うのは、もともと人間が創り出した概念であって、「自然法則」や「自然の摂理」のようなものの中には、含まれていないのかも知れません。

そういうことを前提にして、それでもあえて言うと、
「自然」と人間を対置させて考える時、「人間の行い」を「人工」と言い、「人間以外の存在」における「法則」や「摂理」を「自然」と言っているんだと思いますが、もともと、人間が「善悪」という概念を生み出した理由は、おそらく、この「人間の行い=人工」を「悪」と見立てて「自然」を「善」と見立てることによって、「自然信仰」が成り立っていたということがあるんじゃないかと思います。

まだ、「科学」と言うモノが無かったころ、人間にとって「自然」は「絶対的な存在」だったと思われます。
だから、「自然」が「信仰」の対象に成ったのは当然のことだったでしょう。

つまり、「自然」は、その当時の人間にとって「絶対的な善」であったと言ってもいいと思います。
もちろん、「自然」が人間にとって「いいこと」ばかり与えてくれるわけではありませんが、それに逆らっても完全に無駄な相手がある時には、それが如何に暴力的なモノであっても、それに従わざるを得ない者にとっては、それを「善」と考えるしかないんだと思います。

そういった「自然界の構図」の中で、小さな存在であった人間が「善悪」という概念を生み出したと、私は思っています。


つまり、「人間の行い=人工」が「悪」を犯して「自然」の怒りをかうことで天災のような災いが起きるというストーリーを立てて、人間が「自然に対する恐怖」との折り合いを付けていたんじゃないかと思うわけです。

これは、一見するとかなり飛躍した話のように思われてしまうかも知れませんが、「信仰」と「善悪」ということを考えれば、それが密接な関係にあることは一目瞭然です。

そんなことから、私は、「善悪」という概念は、始まりの時点から、「人間の行い」を「悪」と設定するところに「原点」があると思っています。
これは、人間が「動物の行い」や「自然現象」などの「人間の行い以外の物事」に対しては、それが、どんなに人間に対して暴力的であっても、なぜか「悪」を感じないことでもわかることだと思います。


要するに、「自然」は初めから、設定が「善」であり、「人間の行い=人工」は初めから、設定が「悪」なんだと思うわけです。


この記事を通して、私が書いてきたのも、そこの所をはっきりさせたうえで、『もうそろそろ、そういう考え方から逃れて、人間の行為の中で「悪」と呼んで差支えのないモノはどれなのかと言うことを考え直してみてもいいんじゃないのかな?』ということです。


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最後の最後に、私が創っている「詩のような題=ポエティック・タイトル」と言うのがあるんですが、その中で、この一連の記事の内容に関連したものを引用しておきます。

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<a href="http://geijutuno20ctsousitu.blog.fc2.com/blog-entry-1501.html" target="_blank" title="『つみを つくり その つみを おかす』 『つみを おかし その つみを つぐなう』">『つみを つくり その つみを おかす』 『つみを おかし その つみを つぐなう』</a>
(上のタイトルをクリックすると元の投稿に行きます。そちらには「絵」と「曲」もあります。)

    ◇           ◇           

『つみを つくり その つみを おかす』
『つみを おかし その つみを つぐなう』

しかし
けすことは できない
おかした つみを 
けすことは できない

しかし
つくらずに いることも できない
つみを 
つくらずに いることも できない

しかし
おかさずに いることも できない
つくりだされた つみを
おかさずに いることも できない

ひとは そんな ふうに できている


あとは

ただ ひざまづいて 
ただ ひれふして 
ただ つみを みとめて


できるのは

ただ 

それだけ


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こんな記事にお付き合い頂いて、どうもありがとうございました。

こんなの読んでくれた「あなた」は、きっと「善人」ですよね。

 

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※この記事は私がメインでやっている下のブログからの転載です。