私は、そんなわけで20世紀をやめました

20世紀のシッポを切り落とすために出来ることを考えます。 20世紀を辞めたら、もしかすると21世紀に就職出来るかもしれない。 いや、もう一度20世紀をやり直せばいいのさ。 もしも、20世紀をやり直せるとしたら、きっと面白いことに成るよ!

「善悪」について(15)

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どうも、こんにちは。

「善悪」についてのつづきです。

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前の記事の

 自分自身が「悪いと思っていること」をやり続け、人からもそれをやられ続け
 ながら、生きて行かなければならなく成るとしたら、もう、「生き地獄」だと思
 いますよ。

 しかも、その「生き地獄」の中で生き続けることを『いいんだよ!正しいんだか
 ら』と言い続けるしかなくなってしまうわけですねぇ。


 なんとも実に恐ろしいことだと思います。


というところからの続きです。

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いや、前の記事では、上のように話がかなりヤバイ方向に行ってしまって、どうもすいませんでした。
(恐喝?)

ここで、一つお断りしておくと、昨日の話は、あくまで「自己正当化」にハマってしまった人についての話です。
例えば、うつ病などで人生に希望を持てなく成っている人が、あの記事を読んで、自分のことと重ね合わせてしまうということがあるとは思いませんが、もし、万が一にもそんな風に思われた方が居らしたならば、それはまったく違います。
と言うか、正反対です。
あれは、「自己正当化」についての話であって、その結果として起きてくる状態のことを書いたことです。
うつ状態の人は、「自己否定的」ですから、正反対ですね。

もしも、そう感じた方が居らしたならば、心からお詫びたしますので、どうかお許しください。

昨日の話に、当てはまる精神障害があるとすれば、おそらく、それは「自己愛性人格障害」のようなものだと思いますが、昨日の話は、そういう「精神疾患」に関することを書いたわけではなく、ごく一般的な人がハマってしまう「異常な心理状態」のことについて書いたことなので、そういう解釈でお読みいただければと思います。

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さて、改めて、前のいくつかの記事では、かなり恐ろしい感じの話に成ってしまい申し訳ありませんでした。

でも、再三お断りしてきたように、私は『車に乗る人は、人殺しだ!』と言っているわけではありませんし、『「教育」と言うのは「虐待」に直結しているものなんだ!』と言っているわけでもありませんし、『自己正当化する奴なんて人間じゃねぇ!ゆるせん!!』と言っているわけではないんです。

そういう一方向からの話として、あんなことを書いたわけではありません。
そうではなく、物事には必ず裏と表があり、「表裏」が一体と成ってこそ、それが存在して居るんだと言いたいわけなのです。

つまり、「生きること」の裏には「死ぬこと」があってこそ「生きること」が成り立つわけだし、「ポジティブ」の裏に「ネガティブ」があるから、その「ポジティブ」に意味があるわけだし、「正しい」の裏に「間違い」があるからこそ、それが「正しい」でいられるわけです。

もちろん、「善悪」も例外ではなく、「善」とは「悪」のことであるとまでは言いませんが、少なくとも『「善」の裏には「悪」が張り付いている』または『「善」をひっくり返したら「悪」だった』というくらいは言えるんじゃないかなと思うわけなんです。
と言うか、それでないと「善」が「善」であることも出来ないというのが本当のところなんじゃないかと思います。

そして、『「善悪」は、ちょくちょくひっくり返ることがある』と、そう言うことが言いたかったことなんです。

そう考えれば、やはり、「善の中にある悪」・「日常の中に潜む逸脱」・「常識の中に隠されている狂気」と言うような二極両立的な考え方をしていった方が意味が生まれるんじゃないのかなと思うんですね。

「芸術」で言えば、「抽象」と「具象」と言う二極がありますが、どうしても、『二極は対立するモノ』と言う考え方に陥りやすいと思うんですね。
でも、実際には「具象」と「抽象」が両立していないと「表現」として成立しないと思います。

要するに、「具象=身体性」と「抽象=精神性」が両立していないと、実体のある「表現」とはならないということですね。
それで、私は「具体性のある抽象表現」ということを考えて制作しているというわけです。

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まぁ、芸術の話はさておき、
私は、「自己正当化」と言う行為は、本来は世の中のすべてのモノが二極を含んだ形で成り立っているハズなのに、それを自分勝手な論理に基づいて強引に「一極化」してしまう行為なんじゃないかと思うわけです。
まぁ、簡単に言えば『自分の考えだけが正しくて、それ以外の考えは正しくない』ということですね。

やはり、「表=正しい」だけで「裏=間違い」が無いというのは、「人間の範囲」を超えていると思いますし、それどころか「存在の範囲」も超えてしまうと思います。
「存在」しているものには、必ず「表裏一体の実体」があり、それで「存在」として成り立っているんだと思います。
でも、それは、「物質」に限ったことではなく、「精神」であっても、同じなんじゃないでしょうか?

と言うか、「自己正当化」なんて、本当は、そんな壮大な考えを持ち出してくる程のたいそうなものではなく、ただ単に、人間の「見栄」とか「自負心」のようなたいして役にも立たないようなものから発生している場合が多いわけで、あまり大袈裟に考えるほどのモノでもないと思いますので、切り捨ててしまっても何の差支えも無いんだと思います。
(これは『私がそう思う』と言うよりも、誰にとってもその方がいいんじゃないですか?という提案ですね)

つまり、人と人の関係においては、『はい、私が間違ってました』とか、『あぁ、私が悪かった、申し訳ない』とかと言っても、別に何も失うものなどないということです。

それを、

「間違いを認める」=「負け」
「負の要素を入れた考え方」=「ネガティブ」
「わからない、又は、知らない」=「頭が悪い」
「出来ない」=「無能」

と言うように、一方向からの判断だけで、ものごとに「上下の差」を創り出していくような考え方が非常に多いんですね。

これは、人間の歴史の中でも、特に「現在」と言う時代に、突出した現象だと思います。
つまり、「現代社会」が要求していることなんだと思います。
だから、はっきり言ってしまうと、一個人ではどうすることも出来ません。
「社会」が変わらない限りは、そこの所も変わらないと思います。

でも、どうせ変わらないからと言って、そこに無条件に従わされてしまうのか?
それとも、自分の中に「独自の視点」を持ち続けるのか?
また、そう言うことにおいて、まったく成果の現れないことにチャレンジし続けることが出来るのか?
ということですね。


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えぇー、ちょっと話がデカく成りすぎたので、「善悪」の話に戻します。

ここまでの文章でも、「善悪」と簡単に言い続けて来てしまいましたが、「善悪」と言われれているものには、実は「自分の外の善悪」と「自分の内の善悪」があると思います。

そして、この二つがあまり意識されていないような気がします。

「自分の外の善悪」と言うのは、「人に迷惑を掛けないこと」を「善」として、「人に迷惑をかけること」を「悪」とするというように、「他者」との関係において「善悪」を考えるという考え方ですね。

それに対して、「自分の内の善悪」というのは、私が、「善悪の規準」としている「自分が悪いと思っていることをすること」とか、「それをさらに自己内で正当化すること」とかと言うような、「他者」とは必ずしも関係なく「自分の中」で独自に設定されている「善悪」についての概念ということに成ります。
こちらは、「他者」との関係が希薄になるので、「泥棒を悪いと思っていない人にとっては、泥棒は「悪」ではない』と言うような話が出てきてしまうわけです。

  ※これは一見すると、非常に極端な話に見えるかもしれませんが、実は、それ
   ほど極端な話でもなくて、例えば、管理している人もはっきりしないような原生
   林に自生している木の実をとって食べても、それは「泥棒」とは言えませんし、
   それを誰からも「悪」であるとは言われないでしょう。
   しかし、もしかしたら、その「原生林」だと思った林が、人が管理している果樹園
   であるかもしれません。
   そして、「果樹園」で栽培されている木の実を、勝手にとって食べれば「泥棒」
   に成ってしまうわけです。
   でも、その人に「悪意」が無いのに、それを「悪」と言えるでしょうか?

   「悪ではない泥棒」というのは、こういうことを含めて言っています。

この一連の記事のはじめの方で書いた「善悪の逆転」のようなものは、ほとんど「自分の外の善悪」が逆転するケースについて書いていたと思います。
(例えば「戦争」と言う極端な状況の変化が「殺人と言う悪」を「英雄と言う善」に変えてしまうということですね)

そして、その後、「潜在意識」や「深層心理」の話が中心になった後は、主に「自分の内の善悪」について書いてきたと思います。

そして、ここにも「内と外」という「二極」があり、それは「両立」していた方がいいような気がするわけです。


私自身も、この二種類の「善悪」を、その時々で使い分けてしまっていたと思います。
それで、この文章がわかりにくく成っているところもあるような気がします。

ただ、この二種類の「善悪」は、きっちり線を引いて分けられるものではないと思いますので、どうしてもそうなってしまいます。


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さて、またもや長く成ったので次に続けます。

 

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※この記事は私がメインでやっている下のブログからの転載です。