私は、そんなわけで20世紀をやめました

20世紀のシッポを切り落とすために出来ることを考えます。 20世紀を辞めたら、もしかすると21世紀に就職出来るかもしれない。 いや、もう一度20世紀をやり直せばいいのさ。 もしも、20世紀をやり直せるとしたら、きっと面白いことに成るよ!

「善悪」について(16)

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どうも、こんにちは。

「善悪」についてのつづきです。

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前の記事の

 ただ、この二種類の「善悪」は、きっちり線を引いて分けられるものではないと
 思いますので、どうしてもそうなってしまいます。

というところからの続きです。

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まず、私が「善悪の規準」を「自分の内側」に設定する理由です。

それは、なんと言っても、これまでの記事にも書いてきたように、「自分の外側」に「善悪の規準」を設定した場合、「善悪」についての判断が、あまりにもコロコロ変わってしまうんですね。

とにかく世の中の状況が変化するたびに、完全に正反対の「善悪」が現れてきてしまうこともありますから、それを「善悪」と言う意味が非常に薄く成ってしまって、「善悪の規準」があることによって、かえって「善悪」という概念が無意味化するという本末転倒が起きてしまうということが、私が、「自分の外側」に「善悪の規準」を置かないようにしている理由です。

もちろん、「自分の内側」に「善悪の規準」を設定したとしても、それが、完全に不動であるということはありませんし、所詮人間のすることですから、「ブレ」があるのは当然ですが、それでも、一人の人間の中の「善悪」と言うのは、そう簡単に正反対に逆転するようなことは無いと思います。

そういうことで、私は自分の「善悪の規準」を「自分の内側」に設定するようにしているというわけです。

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でも、これは「善悪」に限ったことではなく、他のことについても同じで、いろいろなことを「自分の外側」との関係として考えていくよりも、「自分の内側」のこととして考えていくことは、けっこう役に立つような気がしています。

現実の生活を生きていくうえで、「自分の外側」=「他者」との関係は必要不可欠なものですし、それ自体を軽視するつもりはないんですが、それは必要であるがゆえに、とくに意識していなくても、ほとんどの人がよく考えている場合が多いので、あえて、それ以上に考えることもないような気がするんですね。

でも、「自分の内側」を見つめるという作業は、やらなくても生きていくには困らない場合が多いので、やらない人はまったくやらなく成ってしまいますし、現実の生活の忙しさなどに追われていると、ついつい、やらなく成ってしまうと思うので、意識してやっていかないと、いつの間にかおろそかにされて、まったくやらなく成ってしまうモノなんだと思うので、少し意識してやっていくといいように思いますね。

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まぁ、こんなことから、私は「善悪の規準」を「自分の内側」に設定しているということなんですね。

そして、その「自分の内側」における「善悪の規準」を「自分が悪いと思っていることをすること」だと思っているわけです。
ただし、前にも書きましたが、「自分が悪いと思っていることをすること」を「悪」としてしまうと、ほぼすべての人が「悪人」に成ってしまうような気がするので、もう少し「善悪の規準」を甘くするために「自分が悪いと思っていることをして、さらに、それを正当化すること」を「悪の規準」として設定しているということなんです。


そして、その「自分が悪いと思っていること」を把握するために、必要になってくるのが「潜在意識」とか「深層心理」とかと言われる心の領域だということです。

さらに、その「潜在意識」や「深層心理」は、本人にはとても見えにくいものであり、かなりじっくりと見つめ直していかないと見えてこない部分が非常に多いということを、ここまで書いてきたわけです。

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おそらく「潜在意識」や「深層心理」と「表層の意識」との区別がハッキリしているのは、人間だけだと思います。
そして、なぜ、人間の「潜在意識」や「深層心理」だけが、こんなにも奥深く埋め込まれてしまうのか?と言えば、人間が「親」や「社会」や「学校」などによって、ごく幼い時期から、「教育」を受けるからだと思います。

もちろん、人間以外の動物も「親」からは「教育」を受けますが、それは「生きるための最低限の情報」を与えられるだけで、それ以上の「オプション」はありません。
だから、そういう「オプション情報」で心の表層が覆いつくされてしまうということはないのだと思います。

それに対して、人間の「教育」は、基本的に「文字情報(=人間にしか通用しない情報)」がほとんどですし、「学校」や「社会」や「親」が、長年にわたって刷り込み続ける「情報」は、必ずしも「生きるための最低限の情報」とは限りません。
と言うよりも、「生きるため以外の情報」がほとんどだと言ってもいいでしょう。

つまり、人間の場合は、大量の「オプション情報」が、心の表層を覆いつくしてしまっているために「オプション」よりも遥かに大切な場合もある「基本情報」が見つけられない状態に成っていることもあるということですね。

「オプション情報」は、ほとんどが「文字情報」=「論理的な情報」です。
そして、それが、人間の「判断」や「行動」を狂わせる原因と成っている場合が非常に多いと思います。
「基本情報」が見えなく成ってしまうから、判断が狂ってくるということですね。

  ※ここで「基本情報」と言っているのは、人間の中で「非論理的な部分」
   である「感情」や「感覚」に基づいた「情報」などですね。


だから、「オプション情報」が多く成りすぎている人は、それを、少し捨てないと、埋もれてしまった「基本情報」を見ることは出来ないと思います。

  ※ただし、ここで『捨てる』と言っているのは、完全に消去してしまうことではなく、
   『「オプション」は所詮オプションなんだ』と認識するというような意味です。
   つまり、人間の場合、「オプション的な情報」の方が「基本的な情報」よりも、上
   に位置付けられてしまっているケースが非常に多いので、「オプション情報」の
   価値が過大評価されているわけですね。
   それで、結果的に「自分が悪いと思っていること」のような「基本的な情報」が、
   おろそかにされてしまうという本末転倒が起きてしまうんだと思います。

ハッキリ言ってしまうと、これは、けっこう難しいと思います。
なぜならば、「オプション情報」と言うのは、「教養」とか「知性」などのように「社会的に有用なもの」に分類されていることが多いですから、当然、その人の社会的な評価につながっているものなわけで、しかも、その「オプション情報」が多い人と言うのは、当然それを勉強し続けた人に違いありませんから、その頑張って身に付けてきた「情報」を捨てるというのはかなり難しいでしょうし、それ以前に、それを捨てることをどう考えてもいいことだとは思えないでしょうから、なかなか捨てようとしないと思います。

まぁ、そう言ったことで、「自分が悪いと思っていること」なんていう「基本的な情報」が見えなく成ってしまう人がけっこう居るんでしょうね。

もちろん、「自分が悪いと思っていること」を、まったくわかっていない人と言うのも滅多にいないと思いますが、それを、ある程度隅々まで見通せている人もかなり少ないような気がします。
(私も見えません)

ただ、この場合、むしろ違いとして大きいのは、『見えているか?見えていないか?』ではなくて、『見ようとするか?見ようともしないか?』の違いだと思います。
それを「見ようとする人」は、たとえ、見えなくても、「最低限の自分に対する疑い」を持っていることに成りますから、「自己を正当化すること」からは逃れられると思います。
しかし、「見ようともしない人」は、「自分に対する疑い」を失っていきますから、当然の成り行きとして、「自己正当化」に向かうことに成るわけです。


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例えば、これは、コロナ禍で明らかになったことの一つですが、コロナ・ウイルスが最初にパンデミックを起こした当初、「自粛派」か「行動派」かで意見が分かれていたと思います。

しかし、現在に至って振り返って見れば、もし仮に、完全に「自粛」していたとしても、ほとんどパンデミックを抑え込むことは出来なかったと思いますし、それとは逆に、もし仮に、完全に「通常通りの行動」を続けたとしても、ナニカがよく成ったということは無かったと思います。

おそらく、前者では、失業者やホームレスが少し増えて、後者では、死者の数が少し増えたでしょう。
どっちに転んだとしても、それが、どれ程いいことなんでしょうか?


こういう時の「自粛派」とか「行動派」とかと言う主張は、ほとんどの場合「文字情報」からの影響を受けていますし、その結果として「論理」が構成されています。
「文字情報」や「論理」は一見すると、理にかなっていますから、それに従っていれば問題ないように見えますが、実際には、ほとんどが、たいしてあてに成りませんし、「人間の善悪の規準」が、ちょっとした条件によって180度逆転してしまうのと同じように、すぐに、「反転」・「ねじれ」・「歪み」を繰り返して、もとの主張とは似ても似つかないものに変化してしまいます。
そして、その都度、そこに「自己正当化」が加わっていった場合は、必ず、それを主張していた本人自身が「悪いと思っていたこと」を強硬に主張するように成っていくのです。

  ※例えば、オリンピックを開催しながら、「緊急事態宣言発動中」と言うのは、
   どう考えてもデタラメだし、少なくとも最初の話とは、だいぶ違ってしまってい
   ますよね。

つまり、「オプション的な情報」に固執していく過程で、どんどん「基本的な情報」が切り捨てられて言ってしまうために、「自分が悪いと思ってること」と言う「基本情報」は、どうでもよく成って、『自粛か?行動か?』という「論理=オプション」だけが重要に成って行ってしまうということです。

けっきょく、そう言った「自然災害」のようなものに対して、「正しい解決法」などと言うモノは無いと思いますが、一つだけ言えることがあるとすれば、それは、そこで人間同士が罵り合うことは「無意味」であり、「醜いこと」だということだけだと思います。

しかし、これは「自然災害」に限ったことではなく、あらゆることに対して当てはまることで、実際には、

『人間が解決できることなど一つもありません』

これが本当のことだと思います。
そんななかで、人間に出来ることがあるとすれば、それは、「考えること=疑うこと」だと思います。

そして、その「考えること=疑うこと」を排除してしまう行為こそが、「自己正当化」と言う行為なんだと思うわけです。
「疑い」のないところに「思考」は成立しないと思います。
そして、「自己への疑い」こそが、その起点に成るものです。
「自己への疑い」を失えば、必ずや、「全ての疑い」も失われてゆくことに成り、結果として、「思考」も失われてしまうでしょう。


私は、コロナ・ウイルスが教えてくれていることは、そう言うことなんじゃないかと思っています。

『われわれウイルスは考えることなどできない、だから、自然の命じるままに変異を繰り返し、自然の命じるままに人間を殺している、われわれに「善悪」など無いのだから』
『ところで、お前たち人間は考える生き物なんじゃないのか?なぜ「内なる善悪」について考えずに罵り合っているんだ?』
『いや、それどころか、お前たちはずっと殺し合って来たじゃないか?「善悪」を持たないわれわれと同じように』

私は「コロナ・ウイルス」がそう言っているような気がするんですが、どうでしょう?


「善悪の規準」は「経済」ではありません。
「善悪の規準」は「健康」でもありません。
「善悪の規準」は「命」ですらもないでしょう。


人間の「善悪の規準」は「人間の内」にしかないような気がします。


つまり「人間性」ですね。
だから、その「人間性」を現す手段として、『それぞれの人が悪いと思っていることだけはやらない』と言う気持ちを持っていれば、少しいいんじゃないのかなと、そんな風に思うわけです。

そして、もしも「自分が悪いと思っていること」をやってしまったら、その時には、それを認めるだけでも、もう少しいいんじゃないのかなと、そういう風に思うというわけです。

お互いに自分の非を認めることが出きれば、罵り合う必要は無く成るんじゃないかと思います。

 

とりあえず、それだけで、『私はそれを「悪」とは呼ばない』ということですね。

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今回で終わりにしたかったんですが、終わらなかったのでもう一回だけ続けます。

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※この記事は私がメインでやっている下のブログからの転載です。