私は、そんなわけで20世紀をやめました

20世紀のシッポを切り落とすために出来ることを考えます。 20世紀を辞めたら、もしかすると21世紀に就職出来るかもしれない。 いや、もう一度20世紀をやり直せばいいのさ。 もしも、20世紀をやり直せるとしたら、きっと面白いことに成るよ!

「善悪」について(7)

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どうも、こんにちは。

「善悪」についてのつづきです。

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前の記事の

 つまり、「自分が悪いと思っていること」を実行することで「自己内に
 おける悪」を肯定してしまって、さらに、その「実行された悪」を自分 
 の中で、『いや、これは「悪」ではないんだ』という形に無理矢理変
 形させることで「正当化」しようとするというところまで来たら、『もう
 この辺まで来たら、それを「悪」と言ってもいいんじゃないか?』とい
 う風に思うわけですね。

というところからの続きです。

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上の文章、なかなか恐ろしいですよね。
でも、こういうのをやっている人、けっこうたくさん居ます。

と言うか、自分だって、やってしまうことはあります。
だからこそ、こんな記事を書いているのかも知れません。

せめて、そう言うことを、自分の中で少しでも食い止めようということですね。
「自分の行い」を振り返って、そういうモノがあったときには、それは上に書いてあるような「恐ろしいこと」なんだと認めていくようにしようということです。
まぁ、『完全にやめるのは無理だから、認めるだけでも認めて行こう』ということですから、それほど立派なことではないんですけどね。
そんな感じで、やや情けない「善悪の規準」に成ってしまう気配も漂い始めては居るんですが、一応そういうことなんです。


こんなことを言うと、また、『何を、オマエごときがエラそうなことを』と言われてしまうのかも知れませんが、でも、まぁ、そこのところを、ちょっと大目に見ていただいて、と言う前提で言わせていただきます。

やはり、人間と言うのは『まだまだ「人間」に届いていない』という所があると思います。
(『届いてないのは、オマエだけだろ!』という感じで)


『人間として最低限のこと』が、完璧に実行できる人ってどのくらいいるでしょう?
『そんなことするなんて人間じゃないよ』と言うようなことを、みんな一度や二度はやってませんか?

ハッキリ言ってしまえば、人間が「人間」でいられるのは、「恵まれた条件を与えられた場合」に限ってのことだと思います。
「ちょっとしたプレッシャー」くらいでも、『人間じゃない』をやってしまうというのが、むしろ普通なんじゃないでしょうか?
前述の「戦争」の話などからも分かるように、「ちょっと厳しい条件」さえ与えられれば、人間は平気で人を殺しますし、平気で人を差別しますし、平気で大量虐殺にだって加担してしまいます。

これは極端な例ではありますが、、あえて、わかりやすい例を挙げれば、ナチス統制下のごく標準的なドイツ人は、ほぼ全員「ユダヤ人の大量虐殺」に加担させられてしまったんだと思います。
日本人だって例外ではありません。
その当時の日本は、日・独・伊三国同盟に参加していたわけですから、加担していたと言わざるを得ません。

確かに、一般的なドイツ人が、みな「ユダヤ人虐殺」の詳しい状況を知っていたわけではないのかも知れません。
まして、日本人の中に、そんなことを知っている人なんか一人も居なかったでしょう。

でも、『知らなかったんだから仕方ないんだ』と言っていいもんなんでしょうか?
『全部ヒトラーが悪いんだ』ということなんでしょうか?
『その当時の日本の軍国主義が異常だったんだ』だから『自分たち一般人は悪くない』と言えるのでしょうか?

私は、こういうのを含めて「自己内での悪の正当化』と言っています。

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『知らなかったんだからしょうがない』  
確かにそうでしょう。
『でも、知っていたら、ナチスに逆らえたんですか?』
『もしも、あなたが知らされていたら、なんとかして止めようとしましたか?』

『自分のしたことでもないのに責任なんか取れない』  
確かにそうでしょう。
『でも、もしも、あなたが偶然ナチ党の幹部に抜擢されたら、ヒトラーに苦言を呈していましたか?』
『それとも、ユダヤ人をガス室に送り続けたんでしょうか、どっちでしょう?』

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ここで、誤解があるといけないので、お断りしておくと、私は上記のようなことした人を責めているわけではないんです。
それが、この文章の書き始めの記事で述べたことなんです。
つまり、『「生き残るためにやったこと」は「悪」とは言えない』ということです。

それが、「大量虐殺に加担すること」だったとしてもです。
(「ナチス」のような組織に逆らえば、自分が死ぬことに成るわけですから)

もちろん、そんなことが起きないのが一番いいのはわかりきっていることです。
しかし、人間が生きている限りは、そう言うことが起きることを完全に封じ込めることは出来ないと思います。

そう成ったときに、『「人は人を殺してしまうモノ」だというのは防ぎようが無いことなんだ』と言ったら、言い過ぎでしょうか?

「戦争」のような極端な社会情勢に限った話ではなく、現在の一見すると平和な社会にあっても、「イジメ」や「ハラスメント」があると、どうしても、そこに『参加するか?抗議するか?』の二択を迫られます。
そういう時には、ほとんどの人が、「無関心」を装うように成ります。
そして、後で、誰かが自殺したときに『私は知らなかった』と言うわけです。
そして、それを責められることはありません。

しかし、それは「消極的な参加」だと、私は思います。
ただし、間違えないでください。
私は、それを『「悪」ではない』と言っているのです。

私が『「悪」である』と言っているのは、その「消極的な参加をしてしまった人」ではなく、「そういう自分を正当化する人」なんです。


つまり、『知らなかったんだから、自分は悪くない』と言わずに、『知っていたとしても、知らなかったとしても、自分にはそれを止めることができなかったという事実がある限り、自分には、その分の「悪」があった』と、そう言うだけでいいと思うと言っているわけです。

 

確かに、「ナチス」や「戦争」の話は、あくまで極端な状況の中での話です。
しかし、今の日本にも、これと同じような構造の出来事は日常の中で、たくさん起きています。

イジメで自殺する子供にとっては「学校」が、虐待を受けている子供にとっては「家庭」が、「ユダヤ人収容所」そのものなんじゃないでしょうか?
酷いパワハラモラハラを受けている人たちにとっても、そこが「地獄」であることに変わりはないでしょう。

それらの「地獄」が、この「豊かな国」・「豊かな時代」・「豊かな文明」と言われている世界の日常の中に、ごく当たり前の顔をして存在して居ます。

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やや、「善悪の規準」と言う話からは、それてしまいましたが、こういうことを踏まえて「自己内での悪の正当化」ということを考えていくことが、「善悪の規準」を方向付けていくうえで必要になるんじゃないかと思うわけですね。

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本当は、もう少し、希望が持てるような話にもっていったところで話を区切りたかったんですが、そう成るとかなり長く成ってしまいそうなので、この辺で、また次に続けます。

最後に、人間にとって「自分が悪いと思っていること」とは、どういうことなのか?について考えていきます。

まぁ、ここまでお読みに成った方は、かなり忍耐強い方でしょうから、ついでに、最後までお付き合いいただければ嬉しいです。

 

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※この記事は私がメインでやっている下のブログからの転載です。