「善悪」について(11)
どうも、こんにちは。
「善悪」についてのつづきです。
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前の記事の
人間の「潜在意識」の領域は、かなり広い。
そして、その「潜在意識」を見極めることは、なかなか出来ない。
でも、それを「見ようとすること」だったら、出来るんじゃないか?
というところからの続きです。
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まず、この「潜在意識」や「深層心理」と、「善悪の規準」が、どう関係あるのか?ということが、ちょっと見えにくいかと思うので、そこのところを説明しておこうと思います。
前の記事にも書いたように、私の場合は、「悪の規準」を「自分が悪いと思っていることをすること」そして、さらには「それを自己内で正当化してしまうこと」だと考えています。
しかし、『その「自分が悪いと思っていること」とは?』と考えると、どうしても「潜在意識」とか「深層心理」とかと言う領域のことを考えなければならなく成ります。
つまり、『自分が悪いと思っている』と言うのは「表面的な意識」だけで思っていることなのか?それとも「心の奥」で思っていることまで含めて考えるべきなのか?ということを抜きに、この話をすることは出来ないと思うわけです。
※一応、念のためお断りしておきますが、これは私が個人的に考えていること
であって、社会的な道徳や倫理、ましてや、法律などのような公的な基準の
話ではありません。
あくまで、「とあるオッサンの独り言」として言っています。
ですから、この話を、他の人にも『こう思うべきだ!』と言うつもりは全くありま
せんし、それどころか、『こんなこと考えてるとバカが伝染っちゃいますよ!』
と思っているくらいなんです。
さて、どうして、「表層意識」だけでは、話ができないのか?と言うと、それは、人間の場合は、「表層意識=自分が把握している意識」と「潜在意識=自分では把握できていない意識」が、トンデモナクかけ離れていることが非常に多いからです。
もちろん、個人差はあると思いますが、基本的に「人間の潜在意識」は、本人が把握している「表層の意識」とは、裏腹である場合が多いと思います。
前の記事にも書いたように、人間は教育などで、ものすごくたくさんのことを刷り込まれて成長してきますから、歳をとればとる程、たくさんの「理屈」や「知識」を自分の中にため込んでいます。
これは、なにも勉強家の人に限ったことではないと思います。
書物や学問に限らず、「仕事」や「育児」、「家事」などの「生活」から蓄積されていく「情報」も、当然ため込まれて行きますから、「知識」であることに変わりはありません。
そして、それらの「情報」のほとんどが「意識の表層」の領域に蓄積されていくわけです。
たいていの場合、「役に立つこと」は「意識の表層」にため込まれて行きます。
そして、人間は、ほとんどの場合、「役に立つこと」しか覚えようとしません。
だから、どんどん「役に立たないこと」は「意識の深層」に深く沈められて行ってしまうわけです。
基本的に「自己利益的なこと」が表層にため込まれ、「非自己利益的なこと」が深層に沈殿することに成ります。
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さて、ここで、前に書いたことを思い出してください。
「善悪」について(4)に、以下のことが書いてあります。
とにかく、ごく一般的に「悪」とされていることに限ってでさえも、よくよく考えて
みると、ほとんどの場合、「生きること」につながっています。
ほぼ直結していると言ってもいいでしょう。
要するに、人間が「悪」であると考えているようなことを、敢えてやってしまうの
は、「生きるため」であることが多いんだと思います。
じゃなきゃ、やりませんよね。
しかし、そうなると、「生きていてはいけない」ということに成ってしまいます。
「生きること」は、最も「自己利益的なこと」です。
しかし、その「生きること」が「悪」に直結している場合が、とても多いんです。
だからこそ、人間はついつい「悪事」を行ってしまうんだと思います。
これは例を挙げれば、簡単にわかることです。
『なぜ盗むのか?』←『得をするため』←『生きるため』
『なぜ嘘をつくのか?』←『自分の立場を良くするため』←『生きるため』
『なぜ人を傷つけるのか?』←『自分が傷つけられないため』←『生きるため』
すべて、「生きること」につながっていると言ってもいいくらいです。
一見すると、『人間が草食動物を食べなくても生きていかれる』と言うのと同じように、盗まなくても、嘘をつかなくても、人を傷つけなくても、生きてはいけるというように見えるんですが、実際には、生きるためには必ず他者の犠牲が必要に成ります。
『生きる』ということ自体が、そういう「エネルギー交換」で成り立っていることなので、それは絶対に抜けられない法則のようなものだと思います。
だから、それを「悪」と呼んでしまうと、「生きること」が「悪」であるということに成ってしまうのです。
ところが、人間が「悪」と名付けているもののほとんどが、そういうモノなのです。
つまり、「自分のために他者を犠牲にすること」ですね、それを「悪」と言っている場合がほとんどだと思います。
そして、人間は(と言うかすべての命は)『「他者の犠牲」が無いと生きていかれない』ということなんです。
そして、さらに、「生きること」自体は「自己利益的なこと」ですが、その「生きること」が「悪」に直結しているということは、人間にとって、最も認めたくないことであり、また、最も「非自己利益的なこと」なのです。
(なぜならば、『生きていてはいけない』と言う結論を突き付けられてしまうからです)
だから、「生きること」にまつわる、もろもろの「知識」は、すべて「表層意識」の領域に貼り付けられていきます。
それは、いつでも見られて、いつでも使えるように成っています。
そして、「生きること」が「悪」につながっているということに関する「認識」は、完全に見えないくらい深い「心の深層」の領域にしまい込まれてしまうことに成るのです。
だから、ほとんど、見られることは無く成ってしまうし、そうやってなん十年も過ごしているうちに、そこにそういう領域があること自体を忘れてしまうわけです。
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何度も言って、申し訳ありませんが、ここでお断りしておきます。
私は、「生きていること」が「悪」であると言っているのではありません。
それとは逆に、
『そこまでは「悪」と言わないようにしよう』と言っているのです。
ただし、
『それは「悪」ではない』とも断言しない方がいいんじゃないのか?と言いたいわけなんです。
そして、
『それを「正しいと断言すること」こそ「悪」と呼ぶべきものなんじゃないのか?』と言っているのです。
とても、わかりにくくて申し訳ありません。
でも、簡単に言えば、曖昧な状態にしておいた方がいいんじゃないの?と言っているわけです。
一番初めに書いたように、人間には所詮「善悪」を判断するほどの能力は無いんだと思いますから、それを無理やりに判断しようとするのではなく、「善悪の基準」を「曖昧」にしておくことで、フレキシブルな領域を作ることが出来れば、少しいいのかな?と思うわけです。
「善悪」を判断する能力が無いからといて、「善悪の規準」を完全に放棄してしまうと、どうやらあまりいい方向には行きそうもありませんし、かといって、はっきりした「善悪の規準」を設定しようとすれば、結果的には「強い者にとっての善」だけがまかり通っていくことに成ります。
当然、「弱い者」にとっては、最悪の世の中に成るでしょう。
そんなことから、「曖昧な規準」を「善悪の規準」とすることが出来れば、少しいいんじゃないのかな?と思うわけなのです。
そして、私は、そのためには「自己内における悪の正当化」を「悪」と考えていくといいような気がしているわけです。
理由は一つだけ、『それなら出来そうだから』
そして、さらにその「自己内における悪」を規定するのに必要不可欠になってくるのが、「自分の潜在意識の把握」ということだと思うわけです。
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少し、終わりに近づいてきた気がしますが、また、長く成って来たので、次に続けます。
出来れば、もうそろそろ、終わりにしようと思っています。
『こんなの読み続けている、そこのあなた!』
『アホらしくて、とってもステキよ!!』
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※この記事は私がメインでやっている下のブログからの転載です。