私は、そんなわけで20世紀をやめました

20世紀のシッポを切り落とすために出来ることを考えます。 20世紀を辞めたら、もしかすると21世紀に就職出来るかもしれない。 いや、もう一度20世紀をやり直せばいいのさ。 もしも、20世紀をやり直せるとしたら、きっと面白いことに成るよ!

「善悪」について(13)

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どうも、こんにちは。

「善悪」についてのつづきです。

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前の記事の

 こういうのが、私が「善悪の規準」と密接に関係があると思っている
 「潜在意識」ということなんです。

というところからの続きです。

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前の記事では、「児童虐待」のような、どう考えても「悪いこと」だと誰もが思っているようなことであっても、それがどこかで「生きること」や「生き残ること」につながっているということを書きました。

でも、ここでもまた、お断りしておくと、「生きるため」には必ず「児童虐待」をしないと生き続けることが出来ないと言っているわけではありません。
(当たり前ですけど)
そうではなくて、「児童虐待」をしてしまう「親」は、「生きること」から出発してどこかで方向を見失って「児童虐待」に行き着いてしまうんだということが言いたかったわけです。

ごく稀には、「悪意」だけから発生するような「虐待」などもあるのかも知れません。
でも、少なくともほとんどの「虐待」は、「生きること」のような「自己利益の追求」から発生していると思います。

これは「虐待」に限ったことではなく、「イジメ」であっても「ハラスメント」であっても「差別」であっても「迫害」であっても、「生きること」のような「自己利益の追求」から発生しているという点では、ほぼ同じことがいえると思います。

そして、それは、必ずしも「自分だけのため」ということとは限りません。
場合によっては「子供のため」と言う形をとっている場合も含めて、「虐待」に行き着いてしまうことがあるのも確かなことではないでしょうか?

例えば、人間は過去において「差別」や「迫害」から、特定の対立する人種や民族などを虐殺するというようなことを歴史の中で繰り返してきましたが、そういう、かなり「悪」に近いこととしか言いようがないようなことでも、モトのモトのモトをたどってゆけば、必ず何らかの「生きるため」や「自己利益」があるはずです。
そして、その「自己利益」が必ずしも「自分だけのため」とは限らないわけで、「民族の誇りを守るため」である場合もありますし、外敵の侵略の恐怖から「自国を守るため」である場合もあります。

つまり、一見すると、「善」に近いと思えるようなことが、いつの間にか方向を見失って、「悪」としか思えないようなことにねじ曲がって行ってしまうわけです。

そして、その過程で「方向を見失ってしまう原因」と成っているのが、「潜在意識が本人にも見えなく成ってしまっていること」なんではないかと思うわけです。

「潜在意識」の中に含まれている「潜在的な悪意」は誰もが見たくないものです。
それで、それを見ないようにしているうちに、それは、見ようとしても簡単には見ることが出来ないくらいに深いところにしまい込まれてしまい、「表層の意識」に次々貼り付けられ続ける「自己利益的でポジティブな情報」に埋もれてしまって、そう簡単には見ることが出来なく成ってしまいます。

そうなると、当然、それは『初めから無かったんだ』ということにされてしまいます。
誰しも、『自分の中に「虐待」や「差別」や「迫害」や、まして「虐殺」のような「悪事」につながっているような「潜在的な悪意」がある』とは考えたくないでしょう。
つまり、『初めから無かったんだ』と言うのは、ほとんどの人にとって、居心地のいい結論なんですねぇ。
だから、見えないところにあれば都合がいいし、そうなれば、もう二度と見たくないし、見ようともしなく成ります。

そこから起きてくるのが「自己正当化」と言う心理です。
『自分の中には「悪」など存在しない!』
これこそが、「自己正当化」ですが、実は「生きていること」の中に、「潜在的な悪」が存在して居るとすれば、それにはかなりの無理があるはずです。
でも、一度「自己正当化」に向かった人は、もう無理があるとは認められない状態に成っていますから、その無理を強引に捻じ曲げ続けるしかなく成ってしまいます。

これが「自己正当化と言う罠」です。
あまりにも無理なことを続けて行かなくてはならなく成るので、結果的に、やっている本人にも、なんの得も無いという状態が出来上がっていきます。
だから、「罠」なんですね。

もともと、「自己正当化」にハマってしまっているか否かに関わらず、多くの人が『自分の中には「そんなひどい悪意」なんかあるわけない!』と思って生きています。
確かにそうなのかもしれません。
でも、「生きていること」の中に、すでに「潜在的な悪意」が貼り付けられているとすれば、条件によっては、その「悪意」が現れてくることもあるし、その「悪意」がどんな形に成り変わって表れてくるのかは、それが現れて来てからでないとわからないことだと思います。

それが、いつ「イジメ」に成ってしまうのか、いつ「差別」に成ってしまうのか、見えなければわかりませんよね。

もちろん、そうならない場合もあるでしょう。
でも、それは、あくまで条件に恵まれている場合に限っての話です。

悪条件が重なれば、きっと大多数の人が「悪人」に成ってしまう、それが人間の現実だと言ったら言い過ぎでしょうか?

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さて、ここで、もう一つ、私が「善悪の規準」と密接に関係があると思っている「潜在意識」の例を挙げておきます。

これも、きっと、『責められている』と感じる人が居るでしょうし、『そんなことにまでケチを付けられたら、何も出来なく成ってしまうじゃないか!』と考える方がたくさんいらっしゃるかと思います。

でも、やはり、私は責めているわけではありませんし、ケチをつけているわけでもありませんので、そういう話としてご理解いただきたいと思います。

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私が、「善悪の規準」と密接に関係があると思っている「潜在意識」のもう一つの例として挙げるのは、「自動車の運転」です。
(決して、『車に乗ってはいけない』と言う話ではありませんので)


例えば、「飲酒運転」や「危険運転」は刑罰の対象に成りますが、順法の範囲で運転していれば、刑罰の対象になることはほとんどありません。

しかし、順法の範囲で運転していても、大きな事故が起きることはあります。

一番わかりやすい例を挙げれば「居眠り運転」ですね。
「居眠り運転」であれば、「飲酒運転」や「危険運転」と比べた場合、刑罰と言う意味でも社会的責任と言う意味でも、圧倒的に軽くなるのは、ほぼ間違いないことだと思います。

それは、おそらく、運転者に「悪意」が無いと判断されるからです。
確かに、そこにはっきりと意識された「悪意」は無いでしょう。
でも、「潜在意識」にも「悪意」は無いでしょうか?

自動車事故でたくさんの人が死亡しているのは、誰でも知っていることです。
その死亡事故が、居眠り運転などのように「悪意」が無い運転者によって起こされるケースもたくさんあるということも誰でも知っています。
そして、運転する人は、『自分だけは絶対に居眠りをしない』と思っているんでしょうか?

おそらく、その人の「潜在意識」の片隅には『もしかしたら、自分が居眠り運転で人をひき殺してしまうかも知れない』と言う「隠れた悪意」があるというのが、本当のことだと思います。

これは「居眠り運転」に限ったことでもありません。
例えば、運転中に心臓発作を起こす人も居るでしょうし、急に脳溢血を起こす人だっているかもしれませんし、何らかの意識障害に見舞われる人だっているでしょう。
いずれも、本人に「悪意」があって起こすことではありませんが、『自分だけは絶対にそういう状態に成ることは無い』と心の底から思ってる人が居ないのも確かなことだと思います。

でも、『もしかしたら、いつか「心臓発作」を起こすかもしれないけど、運転はやめないよ』と言うのは「悪意」ではないと言い切れるでしょうか?


そして、何よりも大事なことは、「ひき殺される人」にとっては、運転者が「飲酒運転」であるのか「居眠り運転」であるのか「心臓発作」を起こしたのかということは、大した問題ではなく、『自分が自動車にひき殺された』ということだけが重大な問題なのです。

あくまで、法律や道徳を無視して考えた場合の話ですが、
もしも、「飲酒運転」であっても事故を起こす確率がきわめて低いような「超人的に酒に強い人」と、(私のように)順法の範囲で運転していても大事故を起こす可能性が高いような「超人的にそそっかしい人」が居た場合は、前者の「飲酒運転」と後者の「順法運転」では、どちらが「悪意的」なんでしょうか?

さらに、それは、「潜在意識」においてはどうでしょうか?

しかし、よくよく考えると、これは、「歩行者側=被害者側」に非があったとしても、ある程度成り立つ話で、例えば、子供や認知症の老人等が飛び出したり、赤信号で横断していたりした場合であっても、そこにたまたま車が通りかかっていなければ事故は起きないわけで、そうなると、単純に言って、車に乗る人が多ければ多い程事故が起きる確率が高く成るということに成ります。
(田舎の交通量が少ない道では、車自体が走っていないので、子供が飛び出しても事故が起きません)

しかし、そうなると『車の運転自体が「悪」である』ということに成ってしまいます。

こういうことを考えていくと、「善悪の規準」が完全に不透明に成ってしまいまうんですねぇ。


でも、実際には、クリアーな「善悪の規準」なんてあり得ないと思います。
なぜなら、人間に「善悪」を見極めるほどの力は無いからです。
人間に出来ることは、『すべては「善」である』と言うか『すべては「悪」である』と言うかのどちらかしか無いんじゃないでしょうか?

つまり、いきなり、「存在」自体が「善」であると考えるか、それとも「存在」自体を「悪」と考えるかと言う究極の問いにまで持っていかれてしまうわけで、それは人間が産み出した言葉としての「善悪」の容量を超えてしまうほどの話に成ってしまうわけです。

でも、人間が作った言葉としての「善悪」と言うのは、おそらくもうちょっと「中途半端な位置」にあるものなんじゃないのかな?と思うわけです。

そういう「中途半端な善悪の規準」を設定するには、とりあえず「自己正当化」を「悪の規準」と仮定した考え方をしていくのがいいんじゃないのかな?と思うわけですね。


そういうことからも、自分の中の「潜在意識」を見極められると「隠れた悪意」が見えて来て、「自分の中の悪」を認めやすく成るような気がするんですが、どうでしょうか?

それ以外に人間が「自己正当化と言う罠」から抜け出す方法はないような気がします。

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またまた、長く成ってしまいました。

いったい、いつに成ったら終わるんでしょうね。

たぶん、あと二~三回ぐらい?

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※この記事は私がメインでやっている下のブログからの転載です。