私は、そんなわけで20世紀をやめました

20世紀のシッポを切り落とすために出来ることを考えます。 20世紀を辞めたら、もしかすると21世紀に就職出来るかもしれない。 いや、もう一度20世紀をやり直せばいいのさ。 もしも、20世紀をやり直せるとしたら、きっと面白いことに成るよ!

「善悪」について(12)

f:id:nakafutatu:20210724135138j:plain


どうも、こんにちは。

「善悪」についてのつづきです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

前の記事の

 そんなことから、「曖昧な規準」を「善悪の規準」とすることが出来れば、
 少しいいんじゃないのかな?と思うわけなのです。

 そして、私は、そのためには「自己内における悪の正当化」を「悪」と考え
 ていくといいような気がしているわけです。

 理由は一つだけ、『それなら出来そうだから』

 そして、さらにその「自己内における悪」を規定するのに必要不可欠になっ
 てくるのが、「自分の潜在意識の把握」ということだと思うわけです。

というところからの続きです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

まぁ、要するに、『自分がしていることなんて、ほとんど全部「悪」だと言われたら「悪」なのかも知れませんね』と認めることぐらいなら人間にも出来るんじゃないか?と言う程度のことですから、ちっとも立派なことではありません。

でも、人間がそれ以上をやろうとするのには、どうも無理があるようで、「立派なこと」をやろうとする人に限って、「かなり酷いこと」をしてしまいます。
それに、「認めること」だけでも、実際には、なかなか出来ませんから、精一杯です。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

さて、そこで、 

  「自己内における悪」を規定するのに必要不可欠になってくるのが、
  「自分の潜在意識の把握」ということだと思うわけです。

ということについてです。


まず、「潜在意識」をどこまで把握できるものなのか?ということがあります。

もともと、把握できないから「潜在意識」なわけで、本人が十分把握できていれば、それを「潜在意識」とは言わないでしょう。
ということは、「潜在意識」は、やはり把握しにくいものだと考えた方がいいということですね。
そうなってくると、今度は、そのただでさえ把握しにくい「潜在意識」を、どの辺まで把握できていれはいいのか?ということに成ってきます。

これは、ちょっと話の筋が違うことかもしれませんが、例えば「前世の記憶」があるという人なんかも居たりします。
それから、母親の胎内にいたときの記憶があるという人も居るようです。
そういう話を、信じるか?信じないか?ということは、とりあえず置いといて、もしも仮に「そういう記憶」と言うモノがあるとするならば、そういうのも「潜在意識」や「深層心理」の一種に入るんだと思います。

でも、私は、そういうのは、ここでは必要ないと思っていますし、どちらかと言うと、無い方がいいくらいだと思います。

ここで、私が「潜在意識の把握」と言っているのは、そういうものよりも、ずっとありふれた、ごく普通の記憶に過ぎません。

例えば、人の名前なんかでも、忘れていたと思っていた人の名前を、ある時、何のまえぶれもなく唐突に『ポンッ』と思いだすことなんて、誰にでもあることだと思います。
そういう時が「潜在意識」が目に見えた瞬間だと思うわけですね。

人の名前のようなケースでは、ただ単に忘れていたことを思い出したに過ぎないんでしょうし、必ずしも重要な人物の名前を思い出そうとして思い出すとも限りませんが、「善悪の判断」に関する意識の場合は、これまで、述べてきたように『ただ単に忘れた』と言うのとは違って、『見たくないから見えないようにしてしまった』と言う性質があると思うので、同じ「潜在意識」の中でも、強力にブロックされていることが多いわけです。

つまり、『見えない』のではなく『あえて見えないようにしている』と言った方がいいわけですね。
でも、逆に考えると、「あえて、やっていること」だとすれば、『見ようとすれば、見える』ということです。
ただし、強力にブロックされていることが多いので、その『見ようとする』と言うのが、なかなかできないということですね。

でも、少なくとも、自分でブロックしているんだとすれば、自分でなんとか出来るということに成ります。
「前世の記憶」に成ると、見える人と見えない人に分かれてしまうでしょうが、こういう『見たくないから見ない』と言う性質のものに関しては、『見ようとさえすれば、誰にでも見える』と思います。

だから、『見ようとする』だけでも、十分に「自己正当化」からは逃れることが可能になると思っています。
でも、それとは逆に、『見ようともしない』ということに成れば、当然「自己正当化」へまっしぐらということに成ってしまいます。
自分にとって都合のいいものだけを見て、都合の悪いモノは見ないということに成れば、当然「自己」を正当化するように成るでしょうし、「他者」を認めることが出来なく成っていくのも、当然の成り行きだと思います。

こういう段階に成ったとき、私は、それを「悪」と呼んでも差し支えないだろうと考えています。

とはいっても、あくまで、「善悪」を想定せずにいることが不可能だという前提で考えた場合に、私にとって、この「自己正当化」こそが、最も「悪」に近いものであり、「悪」に設定してもいいかな?と思えるものであるということですね。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

さて、ここで、私が「善悪の規準」と密接に関係があると思っている「潜在意識」とは、どういうモノなのか?ということを書いておこうと思います。


例えば、「児童虐待」です。

いきなり重い話で申し訳ないんですが、子供を「虐待」してしまう「親」がいるということは、他人のこととして見た場合は『有り得ない』としか見えないわけですが、実を言うと、ほとんどの「親」が、これと紙一重のことをやっていると思うわけです。

つまり、「教育」や「しつけ」ですね。

子供を「虐待」してしまった「親」の「言い訳」のほとんどが、この「教育」や「しつけ」です。
ほとんどの「虐待」は「教育」や「しつけ」の延長線上にあると思います。
ところが、その「教育」や「しつけ」を完全に放棄してしまうのも、一種の「虐待」に成ります。
そういう、ネグレクトと言われるタイプの「虐待」もたくさんあります。

それでは、まともな「教育」や「しつけ」と「虐待」はどう違うんでしょう?

そこに「愛情」があるかどうかの違いでしょうか?
でも、もしかしたら、その「愛情」があまりにも過大なものに成ってしまって、言うことを聞いてくれない子供を「虐待」してしまう「親」も居るかもしれません。

私は、必ずしも、「虐待している親」に全く「愛情」が無いとは思いません。
ただ、その「愛情」が「自己犠牲的な愛情」ではない場合に、「虐待」に行き着いてしまうんだと思います。

ほとんどの「親」は、何らかの形で、「子供に対する愛情」は持っているものだと思いますが、それと同時に「自分に対する愛情=自己愛」も持っています。
そして、その「自己愛」を捨てて「子供に愛情を注げる親」は、たぶん「虐待」をすることは無いでしょう。
つまり、自分を犠牲にして、子供に「教育」を与えるならば、問題は無いのだと思います。

でも、こういうのが出来る人って、そんなにたくさん居るんでしょうか?

「昔の親」は、ごく普通のこととして、これをやっていたんだと思います。
でも、現在は、そういう「自己犠牲的な考え方」で生きている人は、非常に生きていきにくい時代です。
つまり、「お人好し」は、バンバン切り捨てられてしまうのが、「現在」と言う時代です。

だとすれば、当然、「そういう考え方で生きている人」は少ない、そして、「そういう考え方で生きている人」は社会から切り捨てられてしまっている確率が非常に高く成ります。

そうなると、その「社会から切り捨てられた人」が、そんな状況の中にあっても、まだ、「自己犠牲的な愛情」を持ち続けられるのか?

無理でしょ?

と言うか、そんなことを『やれ!』と言うのは、かなり酷なことなんじゃないでしょうか?


でも、そうなると、「自己犠牲的な愛情を持った親」と言うのは、ほとんど居ないということに成ってしまうのです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

実は、これ、前に書いた『「殺すこと」は「悪なのか?』と言う話とほぼ同じ構造なんです。

前に、『人間が「悪」を行ってしまうのは、「生きるため」であることが非常に多い』ということを書きました。
これと、上のことは、ほとんど同じ構造のことなんだと思います。

つまり、「自己利益=生きること」と「自己犠牲=まともな教育など」が両立できない場合に、
「自己利益」をとれば「他者(子供)の犠牲」が必要に成ります。
「自己犠牲」をとれば親自身が「生存の危機」に直面することに成ります。

これは、現在と言う時代が、人間に突き付けていることだと思いますので、はっきり言ってしまうと、個人にはどうすることも出来ません。

でも、そうなると、
「生きるため」には「悪」を実行するしかないというのと同じように、
「生きていくため」には「虐待と紙一重の教育」を実行するしかないということに成ってしまうわけです。

これもまた、「殺すこと」の話と同じで、「まともな教育」が出来ている「親」と言うのは、ただ単に条件に恵まれているだけだと思います。
実を言えば、「まともな教育」を行っているように見えている「親」の中にも「潜在的な虐待」があると言ってもいいと思います


そして、「生きるため」=「自己利益的な情報」は、「表層の意識」に貼り付けられていきます。
そして、「虐待」などの「悪」を含んだ要素が「生き残ること」と表裏一体のものであると言う「非自己利益的な情報」は、必ず「意識の深層」に深く沈められてしまうために「潜在化」して、見えなく成ってしまうわけです。


こういうのが、私が「善悪の規準」と密接に関係があると思っている「潜在意識」ということなんです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

またもや、長く成ってしまいました。

出来るだけ短めにしようと思って書いてるんですが、どうしても、長く成ってしまいますねぇ。
私は、文章をまとめるという能力がほとんどないようで、どうしてもこういうことに成ってしまいます。
要するに「文を書く」と言うのが出来ないので、「話をする」と言うのに近い形に成ってしまうんですね。
(あなたの周りにも居るででょ?訳の分からない話を延々とし続ける人)

それで、書くのがめんどくさく成ると、適当に話をカットしてしまうので、読んだ方々に誤解を与えてしまうことが多く成ってしまうわけなんですよね。

そういうのを避けようと思って、この文を書いているんですが、案の定こんなことに成ってしまっています。

悪気はないので、どうか、お許しを・・・・

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

※この記事は私がメインでやっている下のブログからの転載です。