私は、そんなわけで20世紀をやめました

20世紀のシッポを切り落とすために出来ることを考えます。 20世紀を辞めたら、もしかすると21世紀に就職出来るかもしれない。 いや、もう一度20世紀をやり直せばいいのさ。 もしも、20世紀をやり直せるとしたら、きっと面白いことに成るよ!

「善悪」について(8)

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どうも、こんにちは。

「善悪」についてのつづきです。

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前の記事の

 最後に、人間にとって「自分が悪いと思っていること」とは、
 どういうことなのか?について考えていきます。

というところからの続きです。

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前の記事では、かなり希望が持てない感じの話に成ってしまったんですが、『人間の存在自体が「悪」』みたいなことが言いたかったわけではなく、実際に私が言いたかったのは『一つ間違えば、人間の存在自体が「悪」ということに成りかねない』ということなんです。

そして、そのための「キーワード」と成るのが「自己内における悪の正当化」と言うものだと思うわけです。

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前の記事では、「自己内での悪の肯定」までだったら「悪」ではないと書いたんですが、実際には『自分が悪いと思っていることをする』わけですから、悪いに決まってます。
だって、自分が「悪いこと」だと認めているわけですから、それをやってしまえば「悪」と言うしかないでしょう。
少なくとも、それは「自分にとっての悪」ではあるわけです。

この一連の記事の一番最初の記事でも述べたように「究極的な意味での悪」と言うモノが無い、又は、それがあったとしても人間には見極めがつかないモノだということなのであれば、そして、さらに、それでも人間と言う生き物は「善悪」という概念を完全に捨てることは出来ないだろうと考えるのであれば、「自分にとっての悪」を「悪」と言うしかありませんし、それを『悪ではない』と言う理由は無いはずです。

それなのに、どうして、その「自分にとっての悪」=「自分が悪いと思っていることをすること」を「悪」とまではいわないのか?と言うと、これも、前の記事で書いたことの繰り返しに成ってしまいますが、『それ以上は、人間には無理』だからです。

前までの記事に書いてきましたが、人間が「自分が悪いと思っていること」をしないでいられるのは、かなり、いい条件に恵まれている場合に限ってであって、ちょっとでも悪条件が重なったりすると、人間はあっと言う間に「人間以下」に成ってしまいます。

こういうことを言うと、「あらさがし」とか「ネガティブ」とか「マイナス思考」と言ったレッテルを張られてしまうことが多いんですが、私は、決して「あらさがし」をしているわけではありませんし、「ポジティブ」を否定しているわけではありませんし、すべての「プラス思考」を潰そうと思って言っているわけでもありません。

そうではなく、
歴史を見て、「あらさがし」なんかしなくても、まざまざと見せつけられた事実を「見えたまま」に言っているだけです。
それを『「悪」ではない』と言ってしまったら、あまりにも「ポジティブ過ぎ」なんじゃないか?と思うだけです。
その「プラス思考」が、まさに「マイナス」を生み続けているんじゃないですか?と言っているだけなんです。

そして、その上で、
『でも、人間には、「その悪」を完全に封じ込めておくことは出来ない』
だから
『それを敢えて「悪」と呼ぶのはやめよう』
それで
『その「悪」を正当化する必要はないということを理解しやすくしていこう』
そうすれば
『「悪」を減らすことは出来なくても、何が「悪」であるのかだけはわかるのかも知れない』
と言っているつもりなんです。

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ここで、お断りしておくと、上にも書きましたが、私は「悪」を減らしたり、無くしたりすることが出来るとは思っていません。
それどころか、「悪を無くすこと」を目的とすることは、一つの「悪」である可能性があると思っています。
なぜならば、またもや、繰り返しに成りますが、『人間には「善悪」を判断するほどの能力は無い』と思うからです。

「善悪」を判断できない人間が、「悪」を無くそうとするということは、自分が勝手に「悪」であると一方的に断定した「悪」を無くすということに他なりません。

でも、それは、もしかしたら、他の誰かにとっては必要なモノなのかもしれません。

もしも、「絶対的な悪」と言うモノが存在するならば、そんなことは有り得ないことでしょう。

しかし、ここまでの記事に書いてきたように、人間の「善悪の規準」が、完全に「場当たり的なモノ」であるということは、ほぼ間違いのないことだと思いますから、「誰かにとっての悪」が「別の誰かにとっての善」である可能性は十分に有り得ることなわけです。

カルト的な意味での「ナチス思想」を持った善良なドイツ第三帝国の国民にとって、「ユダヤ人を撲滅すること」が「善」であったとしても、それじゃあ、ユダヤ人にとっては、たまったものじゃありません。
でも、残念ながら、「人間の善悪の規準」なんて、そんなもんです。

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さて、そうなると、何を頼りにして「善悪」を判断していけばいいのか?

そこで、私が設定している「善」と「悪」を分けるための規準が「自己内での悪の正当化」と言うモノなんです。
(あくまで仮に設定しているということです)

そして、その「自己正当化」を見極めるのも、人間の場合、なかなか難しい作業だと思います。
要するに、「自分が悪いと思っていること」を『いや、あれは悪くないんだ』と言ってしまうことを「自己正当化」と言っているわけですが、その「自分が悪いと思っていること」が、「ナニ」なのか?これが、人間の場合なかなかわからないんですねぇ。

そこに関係してくるのが、「深層心理」と言うモノです。
つまり、人間の場合「表面的な心」と、その奥に隠されてしまっている「本当の心」が、かなりかけ離れていることがあるということなんですよね。

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さて、本当は、ここから先が、この記事で書きたかったことなんですが、前までの記事の内容をおさらいしているうちに、またもや長く成ってしまったので、次の記事に続きを書きます。

 

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※この記事は私がメインでやっている下のブログからの転載です。