私は、そんなわけで20世紀をやめました

20世紀のシッポを切り落とすために出来ることを考えます。 20世紀を辞めたら、もしかすると21世紀に就職出来るかもしれない。 いや、もう一度20世紀をやり直せばいいのさ。 もしも、20世紀をやり直せるとしたら、きっと面白いことに成るよ!

「善悪」について(2)

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どうも、こんにちは。

『「善悪」について』のつづきです。

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はじめに、結論を言ってしまいますが、私が考えるところの「善悪の規準」は「その人が悪いと思っていることをすること」です。

つまり、自己内における「悪の肯定」こそが「悪の本質」であると考えるわけです。
逆に言うと、「自分が悪いと思っていないこと」であれば、それを行うことは「悪」とは言えないということに成ります。
例えば、「泥棒」を悪いことだと思っていない人の場合は、「泥棒」は「悪」ではないということに成ってしまうわけです。

 ※これは、あくまで「善悪」と言うモノを、最も純粋に考えて行った場合の
  「善悪」についての話です。
  したがって、「常識」とか「法律」とか「道徳・倫理」などと言う考えとは、
  根本的に違う視点から考えた「善悪」ということに成りますので、そう
  いう観点を、少し緩めた見方をしていただけると嬉しいです。

  「泥棒=OK」ということを言うつもりではありませんので。

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そもそも、「善悪」と言う概念は人間にしかないものだと思います。
少なくとも、ごく普通に考えた場合は「善悪」という言葉自体が人間が考えた言語ですから、人間にしかない概念だというのが妥当なことなのかもしれません。
でも、さらに深く「善悪」を追求していくとすれば、「人間以外」にも「善悪」と言うモノが存在する必要が出て来ると思います。

もしも、「善悪」が人間にだけしか通用しないものなのであれば、「人間にとって都合の良いこと」こそが「善」であり、「人間にとって都合の悪いこと」こそが「悪」であるということに成ってしまいます。

しかし、そういう「ご都合主義的な善悪」を、果たして「本質的な意味での善悪」と言えるのか?ということに成ると、やはり問題があるような気がしてきます。
まぁ、要するに、「善悪」という言葉の持っている「イメージ」と、その「ご都合主義」が全くそぐわないために、言葉の中で自己矛盾が発生してしまうような気がするわけですね。
つまり、そういう考え方をもって「善悪」を規定してしまうと、「善悪」という言葉自体の意味が失われて、成り立たなく成ってしまうように思うわけですね。

そう成ってくると、「善悪」という概念を「人間以外」にも持ち込んで考えていくしかなくなってきますから、当然「人間以外の動物」や「人間以外の植物」や「人間以外の自然」や「人間以外の物質」など、要するに「人間以外の世界」にも何らかの「善悪」なるものが存在するという前提で考えなければならなく成ってきます。
(「善悪」自体は「人間以外の世界」にも存在するが、それを概念化しているのは「人間」だということですね)

そうしたときに、考え得る「善悪」とは、いったいどういうモノなのか?また、そういう「善悪」を判断する規準をどんなふうに設定していくのか?ということが問題になってきます。

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そこで、まず、考えられることと言えば、「人間以外の動物」についてでしょう。

やはり、「思考」や「意志」を持たないものにおける「善悪」と言うのは、なかなか考えづらいという感じがありますから、とりあえず考えやすい「動物の中の善悪」を考えてみます。


例えば、肉食動物は草食動物を一方的に殺して食べていますが、それは「悪」なのでしょうか?
もしも、それを「悪」であると考えるならば、「本能に従って行動すること」が「悪」であるという可能性が出てきてしまいます。
そう成ると、ほぼすべての「動物の行動」は「悪」ということに成ってしまいますが、それは違うでしょう。
やはり、「善」と「悪」が、ほぼ拮抗している状態があってこそ「善悪」という概念が成り立つわけで、どちらかに一方的に偏っていたり、ましてや、どちらか一方だけしかないということに成ると、「善悪」という概念は成り立たなく成ってしまうと思います。

これは、必ずしも、「偏り」だけの問題でもないんじゃないでしょうか?
例えば、「殺すこと」を「悪」であるとするならば、「肉食動物が草食動物を殺すこと」も「悪」であると言わねばならなく成るでしょうが、その場合「善」と成り得ることは、いったいどういうことなのか?と考えると、肉食動物にとって草食動物を捕食することは、ほとんど「生きること」そのものであると言ってもいいことであるわけですから、そうなると「生きること」が「悪」であるということに成ってきます。
そう考えると、「死ぬこと」だけが「善」であるという結論しか出て来ません。
しかし、もしも、すでに「死んでしまっている」のだとすれば、その肉食動物は、もう存在しないわけですから、「善業」を行うことは出来ません。
つまり、「絶対に行われることのないこと」だけが「善」であり、ほぼすべてのことが「悪」であるということに成ってしまうわけですねぇ。

これは、肉食動物たちにとっては、あまりにもハードルの高すぎる「善悪の規準」なのではないでしょうか?
と言うか、そういう「善悪の規準」を設定することに、何か意味があるとは思えませんね?
でも、そもそも、この文章は一番初めにお断りしてあるように、『もしも、仮に、「善悪の規準」と言うモノを設定するのであれば・・・・』という前提で、書いているわけですから、そういう、不毛な結論に行き着いてしまうことは避けようと思います。
従って、そこは『チガウ!』でいいような気がします。

さて、ここで、『それでは、人間が草食動物を殺して食べていることは「悪」なのか?』と言う問いが発生するのはごく自然なことでしょう。

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長く成って来たので、つづきは次の記事に書こうと思います。

 

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※この記事は私がメインでやっている下のブログからの転載です。