「善悪」について(6)
どうも、こんにちは。
「善悪」についてのつづきです。
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前の記事の
さて、そんなことから、「固定的な結論」は捨てて、
「流動的な結論」を探して見ようというわけです。
というところからの続きです。
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そこで、私が「流動的な結論」として、「善悪の規準」に設定しているのが、一番初めに「私なりの結論」として述べた「自分が悪いと思っていることをすること」=「自己内における悪の肯定」ということに成るわけです。
(おぉ~、やっと戻ってこれたぁ)
それで、はじめに『「泥棒を悪いことだと思っていない人」であれば、「泥棒」は「悪」ではなく成ってしまう』と言うような、ちょっと極端な話が出てきたというわけですね。
要するに、「これは流動的な結論」なんですよということを、お断りするためにあんなことを言ったわけです。
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さて、ようやく「本題」に入ったわけですが、実を言うと、この「本題」の中にも、さらに「本題の中の本題」があります。
つまり、「自分が悪いと思っていることをすること」=「自己内における悪の肯定」は、まだ、「本題の中の本題」ではないんです。
(非常に回りくどくて申し訳ありません)
同じ「自分が悪いと思っていることをすること」の中でも、単なる「自己内における悪の肯定」は、人間にとってはなかなか避けられないことだと思いますし、「自分が悪いと思っていることをすること」を「悪」だとしてしまうと、かなりハードルが高く成ってしまうと思うわけです。
私は「人間」と言うのは、その程度のレベルだと思っていますので、「自分が悪いと思っていることをすること」=「自己内における悪の肯定」くらいのことを「悪」だとしてしまうと、ほぼすべての人が「悪人」ということに成ってしまうような気がするんですね。
私自身も含めて、誰しも、おうおうにして、「自分が悪いと思っていること」を『しない』と言うぐらいは『自分には出来ることだろう』と思ってしまうんですが、実を言うと、人間なんて、『怒ってはいけない』と思っていても『怒ってしまう』ものですし、『他人を妬んではいけない』と思っていても『妬んでしまう』ものですし、一つ間違えば、『妬んでいる相手を落とし入れたりしてはいけない』と思っていながら、『落とし入れてしまう』ものなんだと思うわけです。
そういうのを、絶対にやらない人って、まぁ居ませんし、ほとんどやらない人だって、実際にお目にかかったことはありません。
ショッチュウやる人と、すごくショッチュウやる人ぐらいしか、私は知りません(自分も含めて)。
(しかも、「すごくショッチュウやる人」の方が、やや多数派だったりする)
そして、これは、必ずしも、人間にとって、あまぁ~い条件を設定しようということだけでもなくて、実を言えば、そういう『ついつい~してしまう』と言うのは、ある意味では、人間の最も人間的な部分でもあるという意味も含まれているんです。
つまり、あまりにもキチキチの規準を設定してしまうと、「悪」は排除できたとしても結果的に「人間性」までも排除されてしまうという本末転倒が起きかねないという意味で、こういうユルイ規準を設定して行こうということなんですね。
(と言うか、実際には「悪」は排除できないのに「人間性」だけは排除されてしまう)
そこで一段ハードルを下げて、『まぁ、そこまでは「良し」としよう!』ということにして、私が「本題の中の本題」として設定しているのは、「自己内での悪の正当化」です。
つまり、「自分が悪いと思っていること」を実行することで「自己内における悪」を肯定してしまって、さらに、その「実行された悪」を自分の中で、『いや、これは「悪」ではないんだ』という形に無理矢理変形させることで「正当化」しようとすることをもって、『もうこの辺まで来たら、それを「悪」と言ってもいいんじゃないか?』という風に思うわけですね。
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さて、またまた、長く成ってしまったので、次に続けます。
まぁ、大した結論に到達するわけではありませんので、気軽にお読みいただければ幸いです。
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※この記事は私がメインでやっている下のブログからの転載です。