「善悪」について(4)
どうも、こんにちは。
「善悪」についてのつづきです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
前の記事の
さて、そうなると、どこに「善悪の規準」を設定したらいいのかが、まっ
たく分からなく成ってしまいます。
「殺す」と言う「最も悪に近いこと」だと思っていたことについてですら、
「悪」であると断定する根拠が見いだせなく成ってしまうわけですねぇ。
というところからの続きです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ちょっと考えただけで、「善悪の規準」に対する、方向性が見えなく成ってしまったわけですね。
要するに、『どっち方面を探せばいいのかもわからない』という感じです。
とにかく、ごく一般的に「悪」とされていることに限ってでさえも、よくよく考えてみると、ほとんどの場合、「生きること」につながっています。
ほぼ直結していると言ってもいいでしょう。
要するに、人間が「悪」であると考えているようなことを、敢えてやってしまうのは、「生きるため」であることが多いんだと思います。
じゃなきゃ、やりませんよね。
しかし、そうなると、「生きていてはいけない」ということに成ってしまいます。
ところが、死んでしまうということは、もし仮に、それで自分だけは「悪」から逃れられたとしても、「善」を行うことは出来なく成ってしまいます。
それで、少なくとも自分自身は「悪」からは離れられるのかも知れませんが、仮に自分だけは「悪」から逃れたとしても、「善」が存在しない世の中を肯定してしまうことに成ります。
つまり、【「善」は無く「悪」だけがはびこる世の中】、そういう世の中を置き去りにして、この世を去ることに成ってしまうわけです。
それを「悪」ではないと言えるのか?と言う問題が残ってしまうわけです。
(言葉で言うと、すごく恐ろしい感じですが、この段階までは、あくまで、バーチャルな話ですから)
これは、話を分かりやすくするために「肉食動物VS草食動物」とか「人間VS草食動物(又は植物)」などと言う対立の構図で考えてみたというだけの話で、実を言えば、「人間VS人間」であってもほぼ同じことです。
例え、人間同士であっても、対立する相手を凌駕し、場合によっては殺してでも自分の立場を確保するというのは、ある種の弱肉強食と言う自然の摂理の中で生じていることであって、それを、「悪」としてしまうと、どうしても、最終的には「生きていてはいけない」と言う結論、つまり『生きることが「悪」である』と言う結論に到達してしまうのだと思います。
これは、現在の世の中で考えると表面上では見えにくいと思いますが、例えば「戦争」や、例えば「原始時代のサバイバル」や、例えば「極度の貧困や格差」などの状況下では、ごく一般的なことに成ってきます。
「戦争」を例にとれば、一番わかりやすいでしょうが、戦時下にあって「敵国の人間を殺すこと」を「悪」であるとすれば、自動的に「生きていられない」あるいは「黙って殺されなければならない」と言う結論に達してしまいます。
しかし、いくら「敵国の人間」であっても、「その人」は単なる「知らない人」であって、実を言えば、「自分がすごくいい人だと思うような人」なのかもしれません。
でも、そんなことは、お構いなしに『迷わずぶっ殺してしまわないと』生き残れません。
果たして、これは、「悪」なんでしょうか?
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
というところで、また、長く成ったので、次に続けます。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
通行人A:『ところで、ぜんぜん話が進んでないと思うんですが、これ、いったい、
いつまで続くんです?』
老人A :「ずっと、書き続けてみようかなぁ」
「例えば、三行づつ記事にして更新していったら、十年ぐらい続けられ
るんじゃないか?」
通行人A:『あんた、バカなの?』
老人A :「えっ、今頃気付いたの?」
通行人A:『いえ、知ってました』
老人A :「・・・・・・」
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
※通行人A=たまたま、通りがかりに、こんな記事を目にしてしまったために、
一応、最後まで読まないと気が済まないという泥沼にはまって
しまった、不幸な人の気持ちを代弁する影の声。
※老人A=いくつに成っても、まったく進歩することが無い「初期高齢者」。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
※この記事は私がメインでやっている下のブログからの転載です。