私は、そんなわけで20世紀をやめました

20世紀のシッポを切り落とすために出来ることを考えます。 20世紀を辞めたら、もしかすると21世紀に就職出来るかもしれない。 いや、もう一度20世紀をやり直せばいいのさ。 もしも、20世紀をやり直せるとしたら、きっと面白いことに成るよ!

「善悪」について(3)

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どうも、こんにちは。

「善悪」についてのつづきです。

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前の記事の

  さて、ここで、『それでは、人間が草食動物を殺して食べていることは「悪」

     なのか?』と言う問いが発生するのはごく自然なことでしょう。

というところからの続きです。

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肉食動物の場合は、「草食動物を捕食すること」が、「生きることそのもの」に限りなく近かったので、それを「悪」としてしまうことには、無理があるだろうということが、わりとすんなりと受け入れられたわけですが、それが、「人間が草食動物を殺して食べていること」と成ると、ちょっと微妙な部分が出て来ますよね。

まず、人間の場合は必ずしも草食動物を殺して食べなくても、生きていくことは出来ますし、まして、わざわざ牧畜で草食動物を繁殖させて、さらに肥え太らせてから、それを殺して食べるという行為を、「悪」でないということには、やや抵抗が出てきてしまいます。

なんと言っても、ここまで「身勝手なやり方」をしていながら、それを「悪」と言わないのであれば、「悪」という言葉の規定するところが、いくら何でも曖昧になりすぎてしまうような気がしてきますよね。

でも、ちょっと待てよ。
人間の場合、「草食動物を殺して食べること」は「悪」だとするならば、「植物を殺して食べること」はどうなのか?
植物にも命があり、生きているということに変わりはありませんから、やはり、殺して食べるということであるのは同じなわけです。
しかし、そうなると、ここで、また、「肉食動物」の時と同じように、人間にとっても「生きること」と「食べること」は直結しているわけですから、植物も食べてはいけないとすれば、人間も、また、生きていくことが出来なく成ってしまいます。

さて、そうなると、どうして、人間が牧畜などで動物を繁殖させて、十分に肥え太ったのを見計らってから、殺して食べるということには、「悪」を感じてしまうのか?ということが浮かび上がってきます。

しかし、それは、植物の場合も同じで、やはり、人間は植物を品種改良して、肥料をたっぷり与えて十分に成長したのを見計らってから、殺して食べているわけです。
そういう意味では、牧畜と農業に、根本的な違いは無いでしょう。

ところが、なぜか、植物の栽培に関しては、動物の飼育ほどには「悪」を感じなかったりもするわけです。

宗教上の理由から、菜食主義者だったインドのマハトマ・ガンジーは、『生きたいと願っている動物を殺して食べることと、食べて欲しくて実っている果物を食べることは、まったく違うことだ』と言っていたそうです。
しかし、植物が、殺されたくないと思っている可能性が無いとは言い切れませんし、植物の実は食べていいが植物の本体は殺してはいけないというように、理屈だけを重ねていくことにも、あまり意味がないような気がします。

さて、そうなると、どこに「善悪の規準」を設定したらいいのかが、まったく、分からなく成ってしまいます。

「殺す」と言う「最も悪に近いこと」だと思っていたことについてですら、「悪」であると断定する根拠が見いだせなく成ってしまうわけですねぇ。

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まだまだ、続くと思います。
たぶん読む人はほとんどいないんでしょうね。

『それ、なかなかイイじゃない?』

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※この記事は私がメインでやっている下のブログからの転載です。