私は、そんなわけで20世紀をやめました

20世紀のシッポを切り落とすために出来ることを考えます。 20世紀を辞めたら、もしかすると21世紀に就職出来るかもしれない。 いや、もう一度20世紀をやり直せばいいのさ。 もしも、20世紀をやり直せるとしたら、きっと面白いことに成るよ!

「意味」と「価値」

この記事は私がメイン・ブログにしているトップページ - 「芸術の20世紀 喪失宣言」からの転載です。

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「意味」と「価値」の二つを、日ごろ、同じように使っていることが多いような気がするわけです。


たとえば、『そういうのって、「意味」ないですよね』と言うのと、『そういうのって、何の「価値」もないですよね』と言うのが、ほとんど同じことに成ってしまっているわけです。


でも、実は「意味」と「価値」は、けっこう大事なところが違うような気もするんですね。
そして、その「意味」の方が「芸術」に深く関係していると、私は思っているわけなのです。

まぁ、「価値」の方は『そうでもない』ということですね。


要するに、「価値」には利益的な性格があるんだと思います。
それに対して、「意味」は非利益的という印象があるわけですね。

とは言っても、「意味」にも利益的な面がないわけではありませんから、「利益」と「非利益」の比率のチガイと言うことなんだと思います。

つまり、「価値」は利益重視で、「意味」は利益軽視な感があるということです。


たとえば、「食べ物」と「芸術」や「音楽」を比べた場合、「価値」は「食べ物」の方が高くなるでしょうが、「意味」においては対等だったり、「芸術」や「音楽」の方が上回っていたりするということに成るわけです。


人間は、「芸術」や「音楽」が与えられない場合でも、嫌いな「食べ物」ですら生きのびられますが、「食べ物」が与えられない場合は、好きな「芸術」や「音楽」でも生きのびられません。

嫌いな「芸術」や「音楽」では、命が縮まるかもしれません。
つまり、それだけ、「食べ物」は利益的で、「芸術」や「音楽」は非利益的だということですね。

「食べ物」の「価値」は絶対的ですが、「芸術」や「音楽」の「価値」はそれに比べれば大したことがないということです。


それなら、「芸術」や「音楽」なんてどうでもいいのか?と言うことに成りますが、そこで「意味」が出てくるわけです。


「価値」においては低くなりますが、「意味」においては高く成ることもあるだろうということですね。

生きるだけなら、「価値」だけで十分でしょうが、もしも、生きているだけで他にはなにもないということなら、そこに生きている「意味」がありません。

やはり、「食べて・寝て・死んでいくだけ」だったら、「意味」があるとは言えないでしょう。
そこで、「幸福」とか「喜び」とか言う人間にとって必要不可欠のものになりつつある心の状態が、求められるように成るわけです。

つまり、「意味」と言うのは、「価値」の中でとくに、人間の「心の豊かさ」や「知性」や「感性」などを満たしてくれるものと言うことなんだと思います。


それで、「芸術」との関係が深く成るんだと思います。


そんなわけですから、「芸術」においては「価値」よりも「意味」を創り出していきたいもんだなと。

そんな風に思うわけです。


「売れるモノ」には「価値」がありますが、「意味」においては「売れるモノ」の方が「売れないモノ」よりも高いとは限りませんし、「売れないモノ」の方に「意味」があることもあるわけです。


そういう「意味性」が強いモノを創り出せたらいいんじゃないかなと。

そんな風にも思うわけなのです。