私は、そんなわけで20世紀をやめました

20世紀のシッポを切り落とすために出来ることを考えます。 20世紀を辞めたら、もしかすると21世紀に就職出来るかもしれない。 いや、もう一度20世紀をやり直せばいいのさ。 もしも、20世紀をやり直せるとしたら、きっと面白いことに成るよ!

人は「価値」ではなく「意味」に感動する

 この記事は私がメイン・ブログにしているトップページ - 「芸術の20世紀 喪失宣言」からの転載です。

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「有名な絵」と「無名な絵」だったら、どっちで感動する人が多いんでしょうねぇ。

いや、あくまで、「有名な絵」=「スバラシイ絵」かつ「無名な絵」=「スバラシクナイ絵」ということを抜きに考えた場合ですよ。
だいたい同じくらいにスバラシイ絵が、「たまたま有名だった時」と「たまたま無名だった時」という条件でですね。


実際は、たぶん「有名な絵」で感動する人が多いんじゃないかと思うわけですが、『それ、はたして本当に感動してるんですか?』とも思ってしまうわけなのです。


つまりです。

『なんだかんだ言っても、ただ単に「有名な絵」だから感動したと思い込んでるだけなんじゃないの?』
ということです。

もっと言えば、「有名な絵」を見るときに、『見る前から、きっと感動するに違いないと決めてかかってるんじゃないの?』
ということですねぇ。


そういうの、実際に多いと思いますよ。

というか、ほとんどの「感動」って、その手の「感動モドキ」なんじゃないでしょうか?
(すいません!、言い過ぎです!でも、たぶんホント)

まぁ、それも「一種の感動」なんだと思いますから、否定するつもりなんか全然ないですけど、でも、そういう「予定調和」を含まない「純粋な感動」と言うのもあるんじゃないかと思ったりもするわけです。


で、そういう「純粋な感動」について言うと、「無名な絵」の方が「純粋な感動」に出会える確率が高いんじゃないかなと思うわけなんですねぇ。


たとえば、『ゴッホ』ですけど(まぁ、他の貧乏絵描きの人でもいいんですけど)、『ゴッホ』が生きている間には、絵がチョットしか売れなかったというのは有名な話ですけど(1枚~数枚までの説があるらしい)、その時『ゴッホ』の絵を買った人たちって、どうしたんでしょうね?

大事にしてたんでしょうか?それともホッタラカシでしょうか?
捨てちゃった人なんかもいたんでしょうか?


まぁ、それはともかくとして、もしも、その『ゴッホ』の絵を買った人たちの中に、その絵を非常に気に入って大事にしていた人が居たとします。

その後、『ゴッホ』は大ブレイクして、その絵は一躍「無名な絵」から「有名な絵」に成るわけです。

確かに、「有名な絵」に成った『ゴッホの絵』は、その後、美術展などでたくさんの人を感動させることに成るわけです。
でも、それは、もしかしたら全部「感動モドキ」かも知れませんよね。


それに対して、「有名な絵」に成る前の「どこの誰だかわからないヤツが描いた絵」だった『ゴッホの絵』を買って、後生大事に持っていた人が、『この絵、なんだかいいんだよなぁ』と言って眺めている時の「感動」って、おそらく「感動モドキ」ではないだろうと思うわけです。


さらに言えば、もし仮に、その後も『ゴッホ』が売れることなく、その絵が「無名な絵」のままだったとしたら、そして、その人が、それでも、その絵を手放さずに後生大事に持ち続けていたとしたら、そして、物置や蔵の中に大切にしまっていて、時々出して眺めては、やっぱり、『この絵、なんだかいいんだよなぁ』と言っていたとしたなら、その時の「感動」こそが、本当の「予定調和」を一切含まない「純粋な感動」なんじゃないのかなと。

そんな風に思ってしまうわけです。


たとえば、その家にお客さんが来るたびに、その人が、自慢の「無名な絵」を見せていたとします。


客人が薄暗い物置部屋に入って行くと、主人がパチンッと照明をつけます。
(時代的にはランプか?)

そこに浮かび上がるのは、まったく無名で誰が描いたかわからないけど、間違いなく『ゴッホの絵』であるわけです。


客人の中には、『へっ!誰の絵かもわからないような絵じゃね』と思う人も居るでしょう。
でも、その絵の持ち主と同じように『なんだかわかんないけど、この絵イイよ!』と思う人も居るんじゃないですか?

いや、きっといるに違いないじゃないですか?
だって、そこにあるのは間違いなく『ゴッホの絵』なんですから。

そういうのを「感動」と言うんだと、私は思っているわけです。


つまり「想定外の美しさに出会った時の衝撃」ですね。


「有名な絵」はどうしても先に「想定」が入ってくるわけです。

なにせ「有名」ですから。

そこら辺に転がってないし。


要するに、『ゴッホの絵』が、たまたま「無名な絵」としてそこら辺に転がっていた時に、「そういうモノに出会った人が受ける衝撃」を「感動」と言うんじゃないかと思うわけです。


これを言い換えるならば、『人は「価値」ではなく「意味」に感動する』とも言うことが出来ると思います。


「有名な絵」には、ハズレなく「価値」があります。
でも、その分「意味」は薄くなってしまうわけです。
(「想定外の衝撃」が無い分ですね)


「無名な絵」にはあまり「価値」はありません。
少なくとも、「一般に通用する価値」はかなり低くなってしまいます。
でも、そこには「意味」があるかもしれません。

つまり、そこに「想定外の衝撃」があるかもしれないということです。

そして、本当の「純粋な感動」とは、そういう所にしかないモノだと思うわけです。
(まぁ、めったに無いってことですけどね)


だから、「有名な絵」ばかり見ていても、『それじゃ、本物の「純粋な感動」からは、どんどん遠ざかってるのかもよ?』と。


そんな風に言いたいわけなのです。