私は、そんなわけで20世紀をやめました

20世紀のシッポを切り落とすために出来ることを考えます。 20世紀を辞めたら、もしかすると21世紀に就職出来るかもしれない。 いや、もう一度20世紀をやり直せばいいのさ。 もしも、20世紀をやり直せるとしたら、きっと面白いことに成るよ!

「芸術を芸術すること」と「哲学を哲学すること」

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 注:この記事は内容のわりに長いです。
   読んでトクなことは何一つ書いてません。
   一般的に言って、お読みにならないことをお勧めいたします。

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「芸術すること」とは、どんなことか?と言えば、たいてい「創作すること」が頭に浮かぶと思います。
「哲学すること」とは、どんなことか?と言えば、たいてい「考えること」が頭に浮かぶと思います。

それでは、「芸術を芸術すること」とか、「哲学を哲学すること」と言った場合、どんなことを頭に思い浮かべるでしょう?

「芸術」で言えば、「芸術の批評」や「芸術の鑑賞」が「芸術を芸術すること」に当たるんじゃないかと思うわけです。
「哲学」で言えば、「哲学の諸説の研究」や「哲学者の思想の研究」が「哲学を哲学すること」に当たるんじゃないかと思うわけですね。

どうして、こんなことを考えるかと言うと、「芸術すること」と「芸術を芸術すること」や、「哲学すること」と「哲学を哲学すること」があまり区別されていないような気がするんですね(特に「哲学」の場合は)。

 ※これは「芸術」や「哲学」だけでなく「科学」などでも同じことがいえると思います。
  つまり、「科学すること」と「科学を科学すること」が、必ずしも区別されていなか
  ったりするわけですね。
  でも、「芸術」と「哲学」において、これらのことが区別されていないことの影響が
  わりと大きいのかな?ということですね。

そして、それらを区別していくと、見えやすくなってくることがあるんじゃないか?と思ったので、それを考えてみたわけです。

それから、もう一つ、このブログでも前から書いていることなんですが、「芸術する人」のことを、私は「芸術者」と呼ぶようにしているんですが、その「芸術者」という言葉には、「創作者・鑑賞者・批評者」の三者を対等な関係として考えていきたいという意味を込めているわけなんですねぇ。
だから、「芸術する人」だけでなく、「芸術を芸術する人」も含めて「芸術者」として考えていきたいわけです。
それで、そういう意味も含めて、「芸術すること」と「芸術を芸術すること」や「哲学すること」と「哲学を哲学すること」の違いを考えてみようというわけです。

まず、「芸術」についてなんですが、「現在の芸術の世界」においては、【「創作者・批評者」:「鑑賞者」】の比重がかなり偏っているということがあると思うわけです。

「芸術の世界」においては、「芸術の世界の人」というのは「創作者」と「批評者」だけであって、「鑑賞者」はあくまで「素人」または「部外者」ということに成っていて、プロフェッショナルなのは「創作者」と「批評者」であるという感じが非常に強いと思います。

 ※ここで言う「プロフェッショナル」は、必ずしも「お金を稼いでいる人」とい
  う意味ではなく、「専門性を持ってやっている人」という意味です。
  
  「プロフェッショナル」という言葉には、「専門性」という意味が、もう少し
  取り入れられてもいいような気がします。
  「金銭的な価値」に重点を置いて「プロ」を考えた場合、「プロの専門性」は
  堕落することも多くなるでしょうが、「専門性」に重点を置いて「プロ」を考
  えた場合は「プロの価値」が高くなることはあっても、堕落することはないは
  ずです。
  その「プロの価値」こそが、「金銭的な価値」に置き換えて相当な「本当のプ
  ロフェッショナル」の姿だと、私は思います。

しかし、実際には、「専門性を持った鑑賞者」は存在しますし、「鑑賞者」が「創作者」や「批評者」と対等に「芸術者」として扱われるようになれば、きっと、もっとたくさんの「専門性を持った鑑賞者」が出てくると思います。

現在は、どうしても「ごく一部のコレクター以外の鑑賞者」は、置いて行かれてしまう傾向があって、けっきょく、ここでも「カネがものを言う世界」が出来てしまっています。
(「コレクター」として認められるようになるのには、けっこうお金がかかりますからね)
そういうことではなくて、「鑑賞すること」自体が「芸術表現の一部分」として捉えられるようになっていかないと、「芸術」自体も循環できなくなって息が詰まってしまうと思うわけですね。

つまり、「芸術すること=創作」と「芸術を芸術すること=批評・鑑賞」が対等な関係で対峙しつつ循環することで、「創作」~「鑑賞」~「批評」~「創作」~という繰り返しで「芸術」が回り続けることが出来るようになって、その結果、初めて「芸術」が「表現」として成り立つんだと思うわけです。

だから、その「芸術三者」が対等でなかったり、循環していなかったりしている状態というのは、本当の意味で『「芸術」が表現されている』とは言えないような気がします。

そういうことから、「芸術すること」と「芸術を芸術すること」が区別されて、それぞれに意味があると言うことが認識されるようになった方が、少しいいような気がするわけですね。

 ※今は、この二つが対等なものとして区別されていませんから、同じモノとして扱わ
  れてしまって、「創作」の優位性ばかりが強調されてしまうんだと思います。
  どうしたって、「作品」がなければ「鑑賞」できませんからね。
  それぞれの意味が、区別されていないと「鑑賞サイド」が絶対に不利ですよね。
  それでいて、職業的な「批評家」だけは影響力がありますから、ある意味では「創
  作者」以上の権威に成ってしまっているようなところがあるのも確かなことだと思
  うわけです。
  こういうアンバランスな力関係があるために、「芸術」が循環できなくなっている
  んだと思います。
  「鑑賞者」が「芸術の中心」がら排斥されるようになれば、結果的に困るのは「創
  作者」でもあるわけですから。
  (今、そうなってませんか?「芸術の世界」が閉鎖的な世界に成ってないでしょうか?)

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次に、「哲学」ですが、どちらかと言えば、「芸術」以上に区別されていないのが、「哲学すること」と「哲学を哲学すること」だと思います。

こちらは「哲学を哲学すること」を「哲学すること」の本流だと思っている人の方が多いくらいなんじゃないか?とも思います。
つまり、「自分の哲学」ではなく「誰か有名な人の哲学」について研究することの方を「哲学の本流」だと思っている人が多いと思うわけです。
(そういう意味では「芸術」と逆ですね)

「哲学」は「真理を探究する学問」だと思いますが、その「真理」は、人間がどんなに頑張っても到達できないものだと思いますから、当然、「真理」を提示することが出来た人(哲学者)は居ないはずです。
ということは、特定の哲学の説の中に「真理」はないはずです。
ということは、ある哲学者の思想や生涯を研究し尽くしたとしても、「真理」に巡り合えることはあり得ません。
つまり、「哲学を哲学すること」というのは、初めから「真理の探究」ではないという前提で行われる、「哲学」とは少し違う作業だということだと思います。

 ※これは「哲学のテーマ」を「真理」以外のことに置き換えたとしても、ほぼ同じ
  ことがいえると思います。
  「哲学のテーマ」をほかのことに置き換えるとしても、どう転んでも「哲学のテ
  ーマ」は世界の根源的な様相にかかわっているでしょうから、人間に到達できな
  いものであることには変わりないと思いますので。

もちろん、「哲学すること」であっても、現実に「真理」に達することはないので、その点では同じなんでしょうが、少なくとも『真理を目指している』ということは言えるわけです。
でも、「哲学を哲学すること」となると、やはり『真理を目指している』とは言えないと思います。
「哲学すること」と「哲学を哲学すること」が、全く違うことだとは思いませんが、少し違う方を向いていることは間違いないんじゃないかと思うわけですね。

「哲学を哲学すること」の意味は、『真理の探究』ではなく「哲学的な思想に出会うこと」の意味だと思います。
(有名な哲学者の思想に限らずですね)
回りくどい言い方に成りますが「真理を探究した人が、真理には到達できないまでも、その真理に向かう思考の過程で持つに至った哲学的思想との出会い」ということに成るんじゃないでしょうか?
つまり、そこにあるのは「真理」ではなく、『いかにして真理に到達できなかったのか』という「不達成の記録」なわけですから、言ってみれば「不達成哲学の研究」が「哲学を哲学すること」ということに成るわけです。
だから、やっぱり「哲学すること」とは違うと思うわけですね。

ただし、だからと言って、そこに意味がないかと言えば、そうとは限りませんし、もちろん意味がある場合もあると思います。
ただ、『「哲学すること」とはチガウ』ということだと思います。

「他人の哲学思想に出会うこと」が「哲学を哲学すること」の意味であって、それは「哲学すること」の意味ではないということが意識されてさえいれば、その「出会い」にも確かな意味が生まれると思います。
でも、それとは逆に、「他人の哲学思想に出会うこと」を「哲学すること」そのものだと考えてそれを行ってしまうと、そこに「哲学的な意味」はなくなってしまうような気がします。

「哲学」とチガウモノを「哲学」だと思って「哲学する」わけですから、そこに「哲学としての意味」が生まれるわけないですよね。
ハッキリ言えば、そこからの「哲学への発展性」もほとんどないと思いますね。
「チガウ方向」へ向かってしまっているわけですから、離れていくことはあっても近づくことはできないんじゃないかと思いますよ。
最初に方向性がズレた位置まで戻ってからじゃないと難しいんじゃないでしょうか?
要するに、それまでに習得したものを、かなりのところまで切り捨てるような意識がないと、戻れないような気がしますね。
(まして、その「自分が習得した知識」にしがみついているんだとすれば)

一度戻った後で、自分の中から生み出された思想があれば、それがどんなに単純なものであっても、どんなに不完全なものであっても、それは「その人の哲学」であり、それを考えることこそが「哲学すること」に成るんだと思います。

『自分は、そんなこと初めからわかってやっているから大丈夫!』と思っている人が多いような気がしますが、実際には『そんなことわかっている人』は、初めから「他人の哲学」ではなく「自分の哲学」を追究するような気がしますね。

ただし、、これは、「師弟関係」のように、直に接した人から受け継がれる「思想」に関する話とは、ずいぶん違う話だと思います。
つまり、『本を読んだ』とか『授業を受けた』とか『大学で専攻した』とかと言うようなことに関する話です。
そういうことから、吸収されるのは、主に「知識」であって「思想」ではないと思います。
なぜなら、「本」や「授業」から「思想」を吸収するには、その人の中にすでに「その思想に匹敵するくらいのサイズの思想」が存在する必要があるからです。
自分より大きいものを吸収できるわけがありませんからね。

 ※その哲学者本人に、長い時間をかけて直に接することで、「その人の思想」を
  丸ごと吸収できる可能性はあると思います。
  その場合は、必ずしも「その人に匹敵する思想」は必要ないのかも知れません。
  これは、「師弟関係」に限らず「親子関係」において、親から子に受け継がれ
  る思想があることを考えればわかることだと思います。
  「子供」が初めから「親」に匹敵する思想」を持っているわけではないのに、
  「子供」は確実に「親の思想」をコピーしますから。

  でも、それも「学問」においては、研究者同士の師弟関係など特殊な関係に限
  られるでしょうね。

やはり、「知識」はあくまで「知識」として吸収して、あとに成ってから「自分の思想」に役立てられたらいいんじゃないかと思います。
「知識」を「思想」として捉えてしてしまえば、改めて「自分の思想」を築き上げるという多大な労力を要する作業を行うことはなくなってしまうのが普通でしょう。

さらに言えば、「哲学」のようなジャンルに関しては、「思想全体を吸収すること」であっても「思想のごく一部分を吸収すること」であっても、ほとんど同じ「受け手側の容量」が必要だということもあると思います。
だから、「他人の哲学思想に出会うこと」と言っても、「本」や「授業」だけでは、それは、あくまで「出会い」にとどまるわけで、そこからの「哲学への発展性」には、ほとんど期待できないと思うわけです。

 ※こういうの言うと、怒る人も居るでしょうが、『なぜ、自分は怒るのか?』
  と考ええてみてほしいですね。
  その人が、本当に、「他人の哲学思想との出会い」から「自分の哲学」を導
  き出せたんだとすれば、こんなこと言われたぐらいで怒らないんじゃないか
  と思いますよ。

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さて、ここで、いったん最初に話を戻します。

まぁ、要するに、「芸術を芸術すること」は、あまりに軽視されているし、「鑑賞」と「批評」も区別されていないような状態だということです。
そして、「プロの批評家」と「素人の鑑賞者」との間の関係も非常にアンバランスであって、それが「芸術」を停滞させている原因の一端なのではないのかと思うわけです。

そして、「哲学」においては、「難解過ぎる哲学」が「哲学の世界」を覆いつくしてしまっているために、それを修学するのに力を使い果たしてしまって、一番肝心な「哲学すること」が、そっちのけに成っているんじゃないだろうか?と思うわけですね。

さらに言えば、「そこで力を使い果たした人」こそが「教授」や「学者」に成っていくことに成るわけで、そうなれば、エラク成ったその人たちは、その後、その「難解すぎる哲学」を手放さなくなってしまうに違いないのです。
そうなれば、当然、その「教授」や「学者」から、さらに「難解すぎる哲学を修学すること」、つまりは、「哲学を哲学すること」に長けた人が、また、次も力を使い果たした後で、「教授」に成り「学者」に成るということです。
それで、ごく一般的な人が人生の中でたどり着いた、単純であっても「本当のその人の哲学」といえるものが、完全にナイガシロにされてしまうわけです。

要するに、「芸術の世界」では「芸術を芸術すること」があまりに軽視されているし、「哲学の世界」では「哲学すること」の方が、むしろ、除外されてしまうような環境が出来てしまっているわけです。
つまり、「芸術」と「哲学」において、まったく逆のことが起きていて、しかも、それらの反対のことがほとんど同じ結果を生み出してしまっているわけです。

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ここで「芸術」と「哲学」において、なんでこんなことが起きているのか?ということです。

おそらく、これらのことは、「芸術」や「「哲学」において、本質が失われているということからきているんじゃないかと思うわけです。

「芸術」は「真実の美しさ」を表現しようとするものですし、「哲学」は「真理」を探究するものだと思います。
ところが、その「真実」や「真理」が、人間には到達できるようなものではないということがあるわけです。
つまり、「芸術」や「哲学」というのは、不可能なことを追求するという、人間にとっては極めて不条理で、不満足な作業の連続ということに成るわけです。
そこで、やっぱり達成感が欲しくなるわけですね。
その「達成感への渇望」が「芸術」と「哲学」において、共通して、本質が失われてしまった原因だと思います。

もともと、「芸術」は「現実(自然)」を表すことで「美しさ」を追求して来たわけですが、ある時から、それだけではもの足りなくなってきて、より「真実」に迫るようなものを表現しようとするようになります。
それが、印象派以前から続いてきて、現代の「抽象表現」に至った「現在の芸術の流れの源泉」だと思います。

ところが、その「抽象」が思ったほど自由でも簡単でもなかったので身動きが出来なくなってしまって、進むべき方向性を見失ってしまったというのが「現代美術」の現状だと思うわけです。

要するに、どうしていいのかわからなくなってしまったんだと思いますが、そんな無根拠な状態を無理やり肯定しようとしたために、「無根拠を自己肯定するための論理」が必要になって、「抽象以降の現代美術」には難解な論理がくっつけられるようになっていくことに成るわけです。

そして最終的には、「論理」の方に乗っ取られてしまい、「芸術」や「表現」が後回しにされるという本末転倒が起きてしまったということでしょう。
(この文章も「難解な論理」の一つだと思われるかもしれませんが、この文章に難解な所は無いはずです)

また、「哲学」においては、「真理」を探究するうえで、おそらく初めのうちは、自分たち人間のことや自分たちに見えている世界について探求していけば「真理」に到達できると思われていたのかもしれませんが、それでは「真理」の断片が垣間見えることはあっても、「真理」にまでは届きませんから、少しでも「真理」に近づきたかったんだと思います。
それで、どんどん難解になって行ってしまったんじゃないでしょうか?

でも、実際には、どんなに手の込んだ論理を立てたとしても、人間は「真理」に到達できませんし、本当のことを言えば近づくこともできないわけです。
それで、『もっともっと』とますます難解になって行って、最終的に「哲学」は「最も単純なことを最も難解に説明する学問」のようになってしまったんだと思います。

けっきょく「哲学」も「芸術」も「難解な論理」に乗っ取られてしまったんだと思いますね。
それで、本質を見失ってしまったことによって、「哲学すること」や「芸術すること」という、もっとも中心的な部分が失われてしまったんだと思います。


「芸術」の場合は、「芸術すること」が軽視されているわけではなく、前述のように、むしろ、軽視されているのは「芸術を芸術すること」の中の「鑑賞すること」です。

しかし、その結果、創作者だけが肥大化して、自己顕示的な創作者や創作物だけが、人目を惹くように成ってしまっていて、「自己表現」と「自己顕示」が取り違えられてしまっていると思います。

そもそも「自己表現」とは、作者自身の中にある「真の姿」、つまり、もっとも「その人である姿」を、余さず、隠さずに表現することだと思います。
どちらかといえば、作者は「人に見せたくない自分」を表現しなければならなくなるということですね。
それに対して「自己顕示」とは、作者本人が「人に見せたい自分の姿」だけを強調して表現することだと思うわけです。
つまり、自分の中の一番いいと思っているところだけを表現することに成るわけです。

だから、「自己表現」と「自己顕示」は近いように見えて、まったく逆の方向性を持っているともいえるわけです。
そして、その二つが入れ替わってしまっているとすれば、「芸術の本質」が失われるのは当然のことだと思うわけです。


一方、「哲学」では、「哲学全体」が論理に走りすぎたために、その「論理」を競い合うことを「哲学すること」であると勘違いされているような気がします。
(これを『勘違いではない!』という人もいるんでしょうか?)

しかも、「哲学を哲学すること」の場合、その「論理」は「その人の論理」ではなく「誰かの論理」であるわけです。

それが「哲学を哲学すること」であることを前提にしているのであれば、つまり、それが「自分の論理」ではなく「他人の論理」であるということが前提に成っているのであれば、その「他人の論理」を使って論理を競い合うことに意味がないということがわかりやすくなると思いますが、それを「哲学すること」つまり、「自分の論理」であるとして考えてしまうと、その議論が「自分の論理」に基づいた「自分の議論」であると思ってしまうでしょう。
しかし、「他人の論理」をそのまま議論に転用するのだとすれば、それは「議論」ですらなく、まして「哲学」ではないと思います。

もしも、その人が、「ある有名な誰かの論理」を非常に正確に理解していたとしても、そこに「その人の論理」が全く加えられていなかったとすれば、それは「その人の論理」ではないでしょう。
そうなれば、それは「その人の議論」ではなく、「ある有名な誰かの議論」ということに成ります。
それは議論と言えなくはないでしょうが、「その人の議論」ではないでしょうし、「その人の哲学」ではないと思うわけです。

その上、そういうケースにおいて、そういう人がその「有名な誰かの論理」を正確に理解していることなどほとんどありませんから、そうなれば、もう、それは知識を羅列しているだけであって、ウイキペディアの記述を読み上げているようなものではないでしょうか? 

要するに、「芸術」においても「哲学」においても、「論理」に、重点を置きすぎたんだと思いますね。
それで、「本質」が失われる結果に成ってしまったんだと思います。

 ※実際には、「論理的」であることが問題なわけではなく、むしろ、問題なのは、
  「非論理的」であることの方が多いのかもしれません。
  「芸術」や「哲学」が、「真実」や「真理」を提示して見せることが出来ない
  ことの弁解として、「不必要に難解な論理」を使ってしまっていることに本当
  の問題があるんだと思います。
  そして、そういう時の「不必要に難解な論理」というのが、有り得ないほどに
  「非論理的」であったりするわけですね。
  


でも、これらのことには、さらに、根本的な原因があると思うわけです。
つまり、どうして「論理」に頼るようになっていったのか?ということですね。

おそらく、その原因とは、繰り返しに成りますが、「芸術」や「「哲学」で追究するものが、「真実」や「真理」といった根源的なものであり、それらがあまりにも純粋過ぎるために達成不可能なものであるということが問題なんだと思うわけです。
要するに、「芸術」や「哲学」において、その「本質」に向かうということは、「不可能」に向かうということであって、「達成」を捨てる意識が必要になる作業であるということです。

そして、その「不達成感」を補う意味で「論理」が使われてしまったんだと思うわけです。

「難解な論理」によって、「論理の迷宮」を築き上げると、結果的に、その「論理」の中に必ず、本人にも解析しきれないような部分が出てきます。
当然、他人に説明することもできません。
すると、そこだけは、誰からも見えなくなるなるわけです。
「論理の迷宮」の中にそういう「死角」を作り上げて構築しきってしまうと、もう、ほとんどその「迷宮」が崩されることはありません。
「論理の迷宮」についての矛盾や疑問を追求していくと、どこかの時点で、必ずその「死角」に行き当たります。
そこだけはだれにも見えませんから、それ以上はだれにも追及できないわけです。
だから、崩されることはありません。

本人にも見えなくなってしまうわけですから、本人ですら崩せません。

つまり、それが「ある種の達成」となるわけです。
それは、厳密に言えば「達成」とは言えないでしょうが、「達成感」を味わうことはできるということでしょう。
このことによって、「芸術の世界」と「哲学の世界」において「論理」が不自然なくらいに偏重されてきたんだと思います。

 ※最も厄介なのは、この「論理の迷宮」は、その気に成りさえすれば、誰にでも
  築き上げることが出来るということでしょう。
  それどころか、『誰にでもできる』というよりも、むしろ、『必ずそう成ってしまう』
  と言った方がいいくらいだと思います。

  これは「言葉」が根源的に持っている「二律背反的な性質」による所が大きいわ
  けですから、「言葉」を使った「論理思考」においては、「逃れられない罠」のよう
  なものだということですね。
  つまり、「言葉」を使った「論理」においては、世界を限りなく細分化して詳細に
  説明していくことはできても、世界全体を把握したり説明したりするということは
  できないということです(だから、真理には到達できないんでしょうね)。
  そして、その「詳細さ」が極限に達した時点からは、同じ「論理」が少しづつ言葉
  を変えながらグルグルと回り続けることに成りますから、難解に成っていく一方で、
  そこから先には、ほとんど意味のない「理屈の羅列」があるだけに成ってしまうと
  いうことだと思います。

  このように、「論理」が「逃れられない罠」にハマった状態を、ここでは「論理の迷
  宮」と言っています。
  


ただ、これも「論理」自体の問題ではなく、「論理の使い方や目的」が本質から外れているということが一番大きな問題なんだと思います。

現在の「芸術の世界」と「哲学の世界」を客観的にみると、どう考えても不必要に難解な論理が横行しているようにしか見えませんが、「それぞれの世界」の中にいる人達にとっては、それこそが「芸術の世界の常識」であり、「哲学の世界の道理」なわけで、そこに疑問を持つことは、「それぞれの世界」からの撤退を意味するわけです。
(「論理の迷宮」が、鉄壁の要塞のように作用してしまうわけですね)

だから、「芸術の世界」には「芸術の世界の常識」を持った人しか居続けられませんし、「哲学の世界」には「哲学の世界の道理」を重んじる人しか居続けることが出来ません。
それで、それらの常道がさらに強化されて行ってしまうというわけです。

その結果、現在では、その「不必要な難解さ」や「無意味な競争」に対して違和感を感じる人すら居なくなりつつあります。
これは、それぞれの「世界の中」でも言えることですが、それらの「世界の外」にいる人たちでも、そこにあえて疑問を投げかけ、問題を提起しようとする人は、もう、ほとんど居ません。
要するに、諦められてしまったということでしょうね。

それぞれの「世界の中」に居る人は、それが当然だと思っていますし、そこに居心地の良さを感じていますから、そこから抜け出そうとはしませんし、決してその安全な場所を変えようとはしません。
また、「世界の外」に居る人が、そこに一石を投じるような機会はほとんど与えられていませんし、もし、何らかの疑問を提示したとしても、「難解な議論」に巻き込まれて、「絶対に崩せない論理の迷宮」に引き込まれますから、結果的にはかき消されてしまって、なんの影響も残せません。

そして、今、「芸術」と「哲学」という二つの分野は、完全に孤立して瀕死の状態にあると思うわけです。

現在、「芸術」と「哲学」において出来ることは、「不可能の追求」に立ち返ることだと思います。
その「不可能性の追求」という作業の過程で、現れてくる「迷い」の中に最も純粋な「その人性(そのひとせい)」が発露します。
その「迷い」の表現こそが、現在「芸術」と「哲学」において指標と成り得る唯一の「可能性」を持つものだと思います。


話が長くなりましたが、この辺で終わりにします。

もはや、「芸術」と「哲学」においては「達成」を求める必要はなくなりました。
もう、「競争」は不要であり、勝つことにも、上昇することにも何の意味もありません。
「達成」のないところに「競争」は存在しません。

自己の内に向かって問い続け、その「不達成」の中の「不可能性」に現れる「迷い」を表出することだけが、現在「芸術」と「哲学」に示すことが出来ることではないかと思います。

つまりは、今、「芸術」と「哲学」に言うことが出来ることといえば、ただただ、『できませんでした』と言うことなのではないのでしょうか?
そして、その『できませんでした』を言うために、どれだけの力を使い、どれだけの時間を費やしたのかを示すことぐらいしか、「できること」などないのではないのでしょうか?と。

 


まぁ、そんな風に思ったわけなのです。

 

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※この記事は私がメインでやっている下のブログからの転載です。