私は、そんなわけで20世紀をやめました

20世紀のシッポを切り落とすために出来ることを考えます。 20世紀を辞めたら、もしかすると21世紀に就職出来るかもしれない。 いや、もう一度20世紀をやり直せばいいのさ。 もしも、20世紀をやり直せるとしたら、きっと面白いことに成るよ!

「善悪」について(1)

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どうも、こんにちは。

こういうの書くと、書いている本人はけっこう大変なわりに、読んだ人のご気分を害してしまうことが多いみたいなんで、あまり書かないようにしているんですが、これは前から書こうかと思っていたことだし、まぁ、時々書くぐらいならいいかなと思ったので、書いてみようかと思いました。

でも、一気に長い文章を書くのは大変なので、少しづつ書いていこうと思います。

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まず、はじめにお断りしておきますと、私自身は究極的な意味での「善悪」と言うのは無いと思っていますし、もし、そういうモノがあったとしても、人間にそれが判断できるとは思っていません。
(ましてや、私ごときが?・・・ですよね)

ですから、これから書くことは、あくまで、『もしも仮に「善悪」というものを設定するのであれば、この辺がいいのかな?』と言う程度の話に成りますので、この話が、何かの役に立つとか、人の生き方に影響を及ぼすほどのことであると言った重要な内容の話ではありません。
(タイトルから、そのような深い内容をご想像に成る方が居らしたならば、ごめんなさい。ちがいます。)

まぁ、要するに、「とあるオッサンの独り言」みたいなジャンルの話に成りますので、その辺はアシカラズ。

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ということで、「善悪」についてです。


まず、上に書いたように、私自身は絶対的な意味での「善悪」と言うモノを自分の中に設定しないようにしています。

人間はどうしても「自分が正しいと思うこと」や「自分が好きなモノ」や「自分に近しい存在」を「善」とし、「自分が間違っていると思うこと」や「自分が嫌いなモノ」や「自分からかけ離れた存在」を「悪」としてしまう性質があると思います。
つまり、「自己規準」で「善悪」を判断してしまうわけですね。

でも、「自己規準」を「善悪」としてしまうと、いつの間にか、「自己規準」=「善悪の規準」と言う方程式が成り立って行ってしまい、結果的に自分勝手に「善悪」を判断するように成りますし、ひいては、そういう「自分勝手な規準」に沿って、他人や物事を一方的に断罪したり、決めつけたりするように成ってしまうと思います。
そういう「独断的な判断」が、『ほとんどブレ無い』という人も居ると思いますけど、私にはとても無理で、はっきり言ってしまえば、「ブレブレ」なので、『いや、「ブレブレブレ」ぐらいか?』なので、そういうことはしないようにしているわけです。

そんな理由から、私は、少なくとも自分に関する限り、「善悪の判断」においては、なるべく「自己規準」を遠ざけておいた方がいいと思っているわけです。
(これは「自己規準」を「自己利益」と言い替えてもだいたい同じような意味に成ると思います)

とは言え、人間の判断はすべて「自己判断」に違いないわけで、「自己規準」に基づいていない判断と言うモノは、まぁ、ほとんど無いと言ってもいいわけですから、「自己規準」に頼らずに「善悪」をどうやって判断すればいいのか?ということに成ると、なかなか答えが見つかりません。

それなら、いっそのこと『「善悪」なんてものは、はじめから存在しないんだ』ということにしてしまって、『「善悪」に関する判断をすべて放棄してしまえばいいじゃないか?』と言う考え方もあるのかも知れません。

しかし、私は、これも難しいと思います。
どんなことをされても、それをした相手やその行為を「悪」であると思わずにいるのは、人間にはほとんど無理だと思います。
やはり、人間は「嫌なこと」・「害と感じること」・「間違っていると思うこと」をする相手や、その行為自体を「悪」と考えてしまうモノだと思いますし、そう考えずにいることは、ほぼ不可能だと思います。
(これも、出来る人は居ると思いますが、かなり少ないし、『私にはとても無理!』という意味です)

つまり、人間が、どうしても何らかの形で「善悪」を判断してしまうモノであるという前提で考えた場合、そこに、出来る限り「自分勝手な規準」を持ち込まずに、例えば「自分にとっての利益・不利益」とか「自分にとっての好き嫌い」とかいうような「自己規準」ではない「規準」を探すことは出来ないだろうか?と考えた場合、いったい何が考え得ることなのだろうか?ということをこれから書いていきたいと思っています。


「善悪」に決定的な「規準」を設定することには、無理があると思いますが、それでも、ある程度の「普遍性」を持った「善悪の規準」と言うモノについて「考えること」くらいは出来るんじゃないのかな?と思うわけです。
  
  ※ここで、「普遍性」を持った「善悪の規準」と言っているのは「自己を中心
   として導き出された判断」ではなく、「純粋に善悪ということを考えた結果
   として導き出された判断」と言うような意味です。

その辺が人間にとっての限度だと思いますので、その程度の話ですが、もしも興味のある方がいらっしゃれば読んでみて下さい。
(それですら「私の限度」は超えてしまうのかも知れませんが)


つづく・・・・