私は、そんなわけで20世紀をやめました

20世紀のシッポを切り落とすために出来ることを考えます。 20世紀を辞めたら、もしかすると21世紀に就職出来るかもしれない。 いや、もう一度20世紀をやり直せばいいのさ。 もしも、20世紀をやり直せるとしたら、きっと面白いことに成るよ!

「芸術における匿名性」について

この記事は私がメイン・ブログにしているトップページ - 「芸術の20世紀 喪失宣言」からの転載です。

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「芸術作品」を評価する時に、作者の名前は必要なんでしょうか?
本当の意味で「芸術作品」を判断するのに、「作品」だけでは何か足りないことがあるんでしょうか?


たとえば、『ミロのビーナス』などのギリシャ彫刻は作者がハッキリしていないことが多いでしょうし、ほとんどの人が『ミロのビーナス』は知っていても、「その作者」は知らないでしょう。

でも、それで何か問題があるでしょうか?


たとえば、それ相当の信ぴょう性がある文献が新たに発見されて、『ミロのビーナス』の作者がハッキリしたとして、何かが変わるでしょうか?


ほとんど何も変わりませんよね。たぶん。
要するに、「芸術作品」の評価に「作者の名前」は必要ないということなんだと思います。


もちろん、昔と今では「芸術の意味」が変わってきているわけですから、「自己表現」としての「現在の芸術」においては、当然「作者」がクローズ・アップされるように成るわけですが、それは「芸術作品の評価」に必要なことではないだろう?ということですね。


でも、それが、なぜかそうなっていないわけですね。

これは、「芸術作品」を売り買いすることから出てくる現象なんだと思うわけです。
(『ミロのビーナス』は売り買いされることはありませんから、関係ないんでしょうね)

売る側にも買う側にも「評価額」と言うモノが必要に成るということですよね。
それじゃないと、安心して売ったり買ったりできないということなんでしょう。


でも、本当は、「誰の作品」だろうが、『イイ!』と思った作品ならば、その『イイ!』に対して「評価」が決まって来るはずなんだと思うわけですね。


もしも、すべての「芸術作品」の作者が不明であったならば、つまり、「芸術作品」と言うモノは「匿名」で創作されるものであるということが決められていたならですね、その時の「評価」こそが、その作品の「本当の評価」なんだと思うわけです。

まぁ、「芸術」を「「商売」や「オシゴト」と考えている人(画商などだけではなく)にとっては、かなり都合の悪いことに成るわけですが、それが本当のことなんだと思います。
(「芸術作品の値段」がかなり安くなってしまうでしょうね。少なくとも極端に高額な売買は無くなるでしょう)


いずれにしても、この「芸術における匿名性」と言うのは、これから必要に成っていくことなんじゃないかと思っているわけです。

「匿名」であることで、イロイロな意味で平等になりますし(「創作者同士」も平等になるし、「鑑賞者同士」や「鑑賞者」と「批評者」も平等になります)、「匿名」であることで、みんなが「作品」をよく見るようになります。
(今は、「作品」よりも「先入観」を見ている)


『誰の作品かなんて、どうでもいいよ』と言える人が、
「純粋な評価者」だと思いますし、「純粋な創作者」でもあると思います。


これ、口で言うだけの人はすごくたくさん居るんですけど、本当にそう思っている人は少ないですね。

ところが、本当にそう思っている人で、それを口に出して言う人はもっと少ないわけですから、
けっきょく、そう言う人はほとんど居ないということに成るわけです。


それ以外は、「商売人」と「そのお客さん」ですね。


本人が純粋な気持ちで評価しているつもりでも、「作者のネームバリュー」と言う価値を否定したうえで評価を下さない限り、結果的には「芸術の商売」に加担させられてしまうわけです。
(それが絶対に悪いということではありませんけど)


つまり「芸術の価値」=「ネーム・バリュー」になっていて、しかも、その「ネーム・バリュー」で「評価額」を」を割り出すというシステムに成っていて、その「評価額」こそが「芸術の価値」であると言う基準に否が応にも従わされてしまうわけですから、「本当の評価」も「本当の芸術」も出てこないですよね。


こういう状況を抜け出すための唯一の手段が「芸術の匿名化」だろう?と思うわけです。
それによって、失うモノも大きいでしょうが、得るモノも大きいんじゃないのかなと。


失うモノは「誰かの利益」です。

得るモノは「芸術の利益」ですね。


そんな風に思いますよ。