私は、そんなわけで20世紀をやめました

20世紀のシッポを切り落とすために出来ることを考えます。 20世紀を辞めたら、もしかすると21世紀に就職出来るかもしれない。 いや、もう一度20世紀をやり直せばいいのさ。 もしも、20世紀をやり直せるとしたら、きっと面白いことに成るよ!

新しい「ネット鑑賞」についての一つの発想

この記事は私がメイン・ブログにしているトップページ - 「芸術の20世紀 喪失宣言」からの転載です。 

f:id:nakafutatu:20210630154104p:plain

 

以下の文章は、私のメイン・ブログ

 

 

からの引用です。

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


絵画などのアート作品をインターネット上で鑑賞することについての話です。

ただし、はじめに申し上げておきますと、私自身は「ネット鑑賞」を肯定的にはとらえていません。
ですから、この記事は、必ずしも、「ネット鑑賞」を推奨するものではありません。
しかし、現状を考えれば、「ネット鑑賞」は、これからもしばらくは普及していくでしょうし、それを止める術はないでしょうから、「ネット鑑賞」が普及していくことを前提にして考えるしかないのでしょう。
その中で、『ナニが出来るか?』とか『ナニカ出来ることはあるのか?』と言う話ですね。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

この記事は、昨日の投稿の中で、自分の絵のタイトルを入れ替えたり、「ダブル・ネーム」と言う「二つ目の題」を設定したりしているうちに、自分でもかなり混乱して来て『自分自身にもわからないのに、これを読んだ人にどう説明すればいいんだろうか?』と思ったことが切っ掛けで書こうと思いました。

 

 ※私は自分の絵に「詩のような題」と言う長い題をつけているんですが、その「詩のような題」は

  一つの作品に一つのタイトルと言う一対一の対応ではなく、「入れ替え可能なタイトル」と言う

  方向で考えています。

その記事を書いていて、『どう説明したとしても、かなりわかり辛いだろうなぁ』と思って、けっきょく『まぁ、暇つぶしのつもりでクロス・ワード・クイズでもやるような感覚で見ていただけたら嬉しいです』と書いたんですが、その時ふと思ったのは『これ、もしかすると「ネット鑑賞」に向いてるんじゃないか?』ということなんですねぇ。

インターネットって、つまるところ「暇つぶし」だと思うんですよね。
オフィスなどでのビジネス利用を抜きに考えた場合のインターネットの最も大きい利用目的は、なんだかんだ言っても「暇つぶし」だと思います。
(私はインターネット自体にあまり高い価値があると思わないので、「暇つぶし」程度が「ネットの限度」だと思ってしまうんですよね)

そういう、やや投げやりな考え方ではありますが、そんなことでも「新しい発想」に成れば「儲けもん」かなという感じです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

自分のやっていることの話で恐縮なんですが、私は絵に「ダブル・ネーム」=「二つ目の題」を付けるということをやっています。
それから、絵のタイトルを時々入れ替えることがありますし、それ以前に「絵」と「タイトル」を一対一の関係ではなく、フレキシブルな関係として考えていて、「入れ替え可能なタイトル」と言う発想を持っています。

そして、「絵」に対して「音楽」を合わせるということもやっています。

これらのことが、クロス・オーバーして(重なり合って)来ると、どうしてもわかり辛く成ることがあるんですが、けっして、わかり辛くしようと思ってやっているわけではないので、そのこと自体には、日ごろから多少の『見た人には申し訳ないなぁ』と言う気持ちも感じているんです。

でも、そういう「あまり人がやっていないこと」と言うのは、必ずどこかが理解しにくかったり、違和感があったりするものだと思うんですね。
だからと言って、そういう「新しい発想」を排除していってしまうと、結果的に、いつも同じようなものを見ていなければならなく成ってしまいます。

私のような「つたない者」がやれば、当然「出来のいいもの」は出来ませんが、それでも「新しい発想」を一つでも見つけられれば、少しいいのかな?と言う気持ちで、そんなことをやっているわけですね。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

で、
これが、どうして「ネット鑑賞向き」なのか?というと、インターネットの世界には「物質性」が欠けていると思うからなんです。
これはインターネットの長所でもあるのかもしれないんですが、間違いなく短所ではあると思います。

ネット上では「大きさ」や「距離」や「立体感」と言った「物質的な性質」が、すべて希薄に成ってしまうわけです。
要するに、「ナマ」な部分がないんですね。

たとえば、絵を見る時でも、立体作品を見る時でも、ネット上では、すべて同じような大きさで見ることに成ります。
また、天井画であっても見る人が上を見上げるという動作(身体性)を必要としないので、臨場感が失われてしまいます。
当然、立体作品であればなおのことで、後ろから見たり斜めから見たり戻ってまた別の角度から見たりということができません。
つまり、立体であるはずなのに、平面的な画像が全てです。
それから、『あの時、どこそこに行って、あの作品を見たんだよ』と言う「距離感」も「時間的な感覚」も完全に失われてしまいますね。
これらは、間違いなく「ネット鑑賞」の短所だと思います。


さて、そこで、その「物質性」や「身体性」や「物理性」の希薄さを逆利用できるんじゃないか?ということなんです。

たとえば、私がやっている「ダブル・ネーム」ですが、せっかくタイトルを二つ付けても、直に絵を見たのでは、あまり効果的な気がしません。
一枚の絵の横に二つのタイトルが掲示してあったとしても、大した意味がなく成ってしまうような気がするわけですね。

でも、「ネット鑑賞」では、同じ絵であっても別のページを開いて改めて「違うタイトルの絵」として、その絵を見てもらうことが出来ます。
そのことによって、見る人は、新たな視点から「その絵」に向き合うことに成るわけですね。
これは、やはり私がやっている【「絵・題・曲」の組み合わせ】ということでも、ほぼ同じようなことが言えて、やはり、新しいページを開くということによって、「同じ絵」を「別の視点」から見ることができるように成ると思います。

そういうことで、理解しにくく成ってしまうという欠点はあると思いますが、少なからず可能性もあるような気がするんですね。

「音楽」について言えば、私は、記事の中に「YOU TUBE」のリンクを貼って使わせてもらっているんですが、これなんかも「ネットならでは」のことだと思います。
実際の会場などで、美術鑑賞することを考えれば、いろいろな絵が並んでいる中で、それぞれの絵に違う「音楽」を流せば、そこら中でいろんな曲のいろんな音がゴチャ混ぜに成って単なる騒音に成ってしまうでしょう。
でも、「ネット鑑賞」では、その時見ている人だけが、好きな時に好きな音量で好きなだけ、音楽を聴くことができますし、聞くのをやめるのも自由です。

こういうことが、「物質性」や「身体性」や「物理性」の希薄さと関係しているのも確かなんですが、せめて、そこにプラス要素を創り出せれば、「儲けもん」かなと。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

私自身がやっていることと言えば、これくらいしかなくて、正直言ってしまえば「その程度のこと」ではあるんですが、実は、こういう発想をもっとうまく引き出せる人が現れて、もっと画期的な「インターネットの利用法」を生み出してくれるんじゃないかな?と言うような気もしていて、どっちにしろネットの普及を止められないのならば、美術鑑賞に限らず、そういったネットの利用方法がたくさん出てくれればいいのになぁと思っている次第でございます。