私は、そんなわけで20世紀をやめました

20世紀のシッポを切り落とすために出来ることを考えます。 20世紀を辞めたら、もしかすると21世紀に就職出来るかもしれない。 いや、もう一度20世紀をやり直せばいいのさ。 もしも、20世紀をやり直せるとしたら、きっと面白いことに成るよ!

「善悪」について(10)

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どうも、こんにちは。

「善悪」についてのつづきです。

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前の記事の

  だから、誰かが自殺しても、誰かが鬱病に成っても、誰かがヒキコモリに成っても、
  『私は知らなかった』
  と言えば、誰からも責められません。
  なぜなら、ほとんどの人が、
  『私も知らなかった』
  と言うからです。

  主に、こういうのを、私は、「自己正当化」と言っています。

というところからの続きです。

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上のようなことを言うと、どうしても、言われた人が「責められたような感じ」を受けてしまうと思います。
でも、何度も言いますが、
私は、責めているんじゃありません。

『イジメられている子が居たら助けてやれよ!』
『なぜ、助けてやらなかったんだよ?』
と言っているわけではないんです。

そうではなくて、
私は
『イジメられている子がいたのは薄々知っていたけど、自分には助けてやることが出来なかった』
『それは、とても悲しいことだけど、また、同じことがあっても、自分には助けられないかもしれない』
と言うことぐらいは出来るんじゃないだろうか?
『なんだかんだ言って、イジメられる子の側にも悪いところがあったんじゃないの?』
こんなことを言わないでいることぐらいは出来るんじゃないか?
と言っているのです。

もちろん、私だって同じです。

誰も、助けることは出来ません。
一人も、救い出すことは出来ません。
希望を失っている人の中に、希望を創り出すことは出来ません。
ハッキリ言えば、
ナニも出来ません。


ただ、
『出来ない』と認めることだけは、
『出来ます』と言いたいだけなんです。


要するに、
『出来ない』

『出来る』
と言いたいがために「自己正当化」が必要になってしまうんだと思うわけです。
捻じ曲げてしまうんですねぇ。
(人間の習性なんだと思います)

だから、はじめから『出来ない』と認めていれば、「自己正当化」は必要なく成るんじゃないかと思うわけですね。
もともと『出来ない』と言う方が事実に近いのは間違いないことなんだし。

そして、そういうことのためには、どういうことを考えていくのが少しマシなのか?と考えて、こんなことを書いているわけなんです。

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ですから、出来れば(あくまで「出来れば」ですよ)
『オマエごときが、なにをエラそうに!』
とか
『そんな風に人を責めていると、自分に返ってきますよ!』
とか
『ネガティブな発想ばっかりしていないで、もっと前向きなことを考えられないのか?』
とかと言わないで欲しいんですね。

その「ポジティブ」の影で、虐待を受けている子やイジメられている人が居る「現在と言う時代」にあっては、その「ポジティブ」がイジメや虐待やハラスメントや差別などの「隠れみの」に成ってしまうんだと思いますね。


でも、そんなのぜんぜん「ポジティブ」じゃないでしょ?
だったら、やめちゃえばいいじゃないかと思うんですね。

もう、
『出来ない』
でいいんじゃないのかな?と思うんですが、
それは
『そんなに「ネガティブ」なことなんでしょうか?』


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いや、ヘンテコな弁解のようなことを書いているだけで、すでに、かなり長く成ってしまいましたが、さて、「潜在意識」の話です。

人間の場合、「潜在意識」の領域は、非常に広いと思います。
どちらかと言えば、「顕在化している意識」よりもはるかに広い領域があるんじゃないでしょうか?

本人が、はっきりと認識している意識は、むしろ氷山の一角に過ぎないというのが実際のところだと思います。

人間の場合、幼いころから親や学校などから、いろいろな情報をメイッパイ詰め込まれ続けて成長するわけですね。
そして、その教育によって刷り込まれ続ける情報と言うのは、ほとんどが「論理的な情報」であって、それらは、ほぼすべて「表層意識」に貼り付けられていくわけです。

そして、その「表層意識」の上に、さらに次から次へと「論理的な情報」が上書きされて貼り付けられていきます。

つまり、新しい情報が更新されていくたびに、「古い情報」は、どんどん奥へ奥へと深く埋め込まれて行ってしまうわけです。
そうなると、もう、奥深くへ埋め込まれた情報を開いて見ようとしても、どこにしまい込まれてしまったのかすらわからないという状態に成ります。
そういう「本人にも見えない領域」に成ってしまっているのが、人間の「潜在意識」だと思うわけです。


そして、「潜在意識」は、ほとんどの人が見ようともしません。
自分の中に「潜在意識」と言う「自分にも見えない領域」があることを、ほとんど認めていない人なんかも、けっこう居るんじゃないかと思います。
と言っても、「潜在意識」の領域を、完全に認識することは、かなり難しいことだと思います。

でも、まぁ、「見ようとすること」だったらできると思います。
そして、それで十分なんじゃないかとも思うわけです。


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スイマセン、前置きが長く成ってしまったので、また次に続けます。

 

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※この記事は私がメインでやっている下のブログからの転載です。