『今の世の中はチョット・オカシイよ!』について
社会批判などをするときに、わりと簡単に『今の世の中はチョット・オカシイよ!』と言ってしまうことがありますよね。
(自分自身もよく言っていると思いますけど)
でも、『じゃあ、「いい世の中」ってどういう世の中なんだ?』とか『そもそも、「いい世の中」って、いつ、どこの国にあった世の中なんだ?』ということになると、たぶん、誰も答えられないんじゃないでしょうか?
要するに、実を言えば、「いい世の中」なんて、今までに一度も実現されていないわけです。
というか、今までにあったのは「悪い世の中」と「非常に悪い世の中」だけであって、「いい世の中」はおろか「まぁまぁ、いい世の中」ですら、『本当に、そんな時代があったのかぁ?』とずいぶん怪しい感じもしてくるほどなわけですねぇ。
(「いい世の中」とされるのが、「バブル期」のような「ややイカレタ時代」だったりしますよね)
※こういう話をすると、『いやいや、昔に比べればゼンゼン・マシですよ』
という人がいますが、そういう人に『えっ!?子供から大人まで自殺や
イジメが蔓延するこの世の中が、あなたにとってはそんなにマシな世の
中なんですか?』と聞きたくなってしまいますね。
要するに、「社会」とか「政治」というものに対して「理想」とか「信頼」を持ちすぎてきたんじゃないでしょうか?
だから、『きっと、いつか「いい世の中」が実現されるに違いない!』という思い込みが出来上がってしまって、その「思い込み」が独り歩きしてしまっているような気もするわけですね。
まぁ、こういうことを言うと、『なんでも悲観的に考えてはいけない』とか『そういうマイナス思考は何の役にも立たない』と思う方もいるんでしょうね。
でも、やっぱり『魚のいないところで釣りをしても、釣れないでしょ?』
『というか、それを釣りと呼べるのかどうかも怪しいんじゃないの?』と思ってしまいますね
まぁ、それぐらい、「いい世の中」は実現不可能なものなんじゃないのかなと。
そんな風に思ってしまうわけですね。
まず、なんといっても、「社会」が「個人を阻害するもの」であるということが認識されていないわけです。
だから、「社会の完成度」を高めていけば「いい世の中」になると思われているわけです。
でも、実際には「社会の完成度」が高くなると、むしろ「社会」は「人間」に対して高い要求を突き付けてくるようになるわけで、そういう「社会の要求」や「社会からの使役」についていけない人が出てきてしまうわけです。
こう言うと、いかにも「劣等な人間」が置いて行かれるというイメージになってしまいそうですが、実を言えば、『ついて行かれなくなる』のは「人間的な人間」であって、「劣等」かどうかは関係ありません。
逆に、『ついて行かれる』のは「機械的な人間」であるか、または「動物的な人間」であるわけです。
こちらも、「劣等」であるか「優等」であるかは関係ありません。
※これは、必ずしも「社会に適応できる人」が「人間性」において劣るという
ことではありません。
つまり、「人間性」が「その人の社会への適応度」に比例しているのではな
く、「その人が社会から受けるストレス」に比例しているということです。
要するに、「社会的なストレスを受けている人」というのは、その人の中の
少なくとも一部分が、「社会」から置いて行かれているということに成るわ
けですね。
ということは、「いい(完成された)社会」を目指せば、必ず「人間」が阻害されるということです。
つまり、「いい社会」であればあるほど、人間にとっては「いい世の中」から離れていってしまうモノだということなんですねぇ。
これは、「いい社会」だけでなく「いい政治」でも「いい経済」でも「いい制度」でも、ほとんどの「社会的秩序」に当てはまると思います。
でも、それでいて「秩序」も必要ではあるわけですから、そんなわけで「いい世の中」が実現しないというわけです。
それから、もう一つ大きいのは、「人間」は常に歴史とともに「社会に対する期待値」を上げてしまうということです。
例えば、「戦乱の世の中」から「平和な世の中」になっても、『いや、まだまだ、本当の平和とは言えない!』というように、どんどん「社会に対する期待値」を高いところへ持ち上げてしまうわけです。
(この話も、そういう話の一つですけどね)
ただでさえ、「社会」には「人間を阻害する性質」があるのに、その「社会に対する期待値」を、どんどん上げていってしまうわけですから、人間が満足するような「いい世の中」なんて実現できるわけがないですよね。
まぁ、それで、いつもいつも『今の世の中はチョット・オカシイよ!』と言っていなければならなくなるわけです。
それは、たぶん仕方ないことだと思うわけですが、そんな中でも、少しづつ「マシな世の中」が出来ていけば、渋々ではあってもそれはそれでいいのかな?とも思うわけで、それ以上を望むつもりはないわけなんですが、それにつけても、やっぱり『今の世の中はチョット・オカシイよ!』と言いたくなるような「今の世の中」って、いったいどうなのよ?とも思うわけで、どうして、こんなに豊かなのにこんなに貧しくて悲しいのだろうか?と言わざるを得ないわけなのです。
で、『なぜ、そうなってしまうのか?』と考えてみるわけです。
やっぱり、「カネ」をすべての原理にしてしまっていることに、一番の問題があるような気がしますねぇ。
前述のように、「いい世の中」は実現不可能だとしても、ある意味で、どんどん悪くなっているところがあるのも否定できないのは、やはり「カネという妄想」にとらわれてしまっているからではないのかなと、そんな風に思ってしまうわけです。
とにかく、「カネ」を原理として生み出されるものが、ことごとく「人間の幸福」を削ぎ取ってしまう性質があるわけです。
なぜなら、「人間」は絶対に「カネ」には逆らえないからです。
現在、「カネ」に逆らうということは、ある意味で「死」を意味するところがあって、「世の中で生きていくための絶対価」として設定されてしまっているものこそが「カネという妄想」なわけですね。
(個人的に「カネに振り回されない人」もいるということとは別の話です)
だから、絶対に逆らえないし、逆らえば、その人の中の一部分が死んでいくわけです。
当然、逆らい続けていけば、本当に生きられなくなるということですね。
だから、『服従するか?』・『殺されるか?』の二者択一になるわけです。
そして、その「二者択一」が、人間に耐えられる範囲を超えつつある状態が「今」なんだと思うわけです。
つまり、世の中が二極化してきていると思うんですね。
「カネに服従する側」を選択した人は、極端に「カネ」に執着した生き方をしています。
(例えば、「IT系の起業家」の人などですね←まぁ、そういう人ばかりではなないんでしょうけどね)
「カネに逆らう側」を選択した人は、「生きること」自体を解脱しようとする生き方に向かう傾向があります。
(例えば、「スピリチュアル系」の人などですね←まぁ、そういう人ばかりではないんでしょうけどね)
といっても、実際は、時と場合によって「服従する側」と「逆らう側」を行ったり来たりしている人がほとんどなわけですが、そういう人達ですら、「服従する側」にいるときには、かなりな「カネの亡者ぶり」だし、そうかと思うと、一転して「逆らう側」に回ったときには、『えっ、聖人?』というようなことを言っていたりするわけです。
つまり、一人の人の中でも「二極化」が起きてしまっているということだと思いますね。
そんな感じで二極化してしまっていますから、いつも、どちらかに一方的に偏った極端なことしか起きなくなってきています。
ところが、とんでもなく偏った人以外の多くの人間は、その極端についていけないわけで、ここでも、また、「置いて行かれる人」が出てしまうわけです。
しかも、この場合は、ほとんどの人が「置いて行かれる側」になってしまいます。
ごく一部分の「成功した人」や、それとは反対に「物欲から解脱した人」以外のすべての人たちが、全部置いて行かれてしまうことになるわけです。
しかも、「解脱できる人」なんてほとんどいませんし、「成功する人」は居ても、それが続くことはやっぱりほとんどありませんから、だれも残れないのかもしれません。
そういうことで、「カネ」を原理にしていくと、「人間の幸福」がそぎ取られて行ってしまうんだと思いますよ。
そういうの、だれにとっても、なんのトクもないという気がしますね。
だから、もう「カネ」は二の次にした世の中に成って行って欲しいなと。
そんな風に思います。
※もしかすると、この記事を読むと、一見、「物欲を捨てる側」の話のよ
うに見えてしまうかもしれないんですが、「人間」が「物欲」を捨てる
という話ではなくて、「社会全体が支配されてしまっているカネという
妄想」からナントカシテ解脱しましょうよ!という話です。
つまり、解脱するのは「個人」ではなく「世の中」ということですね。
人間は、そこに方向づけをするだけで十分なんじゃないでしょうか?
でも、それも簡単ではないでしょうね。
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※この記事は私がメインでやっている
と言うブログからの転載です。