私は、そんなわけで20世紀をやめました

20世紀のシッポを切り落とすために出来ることを考えます。 20世紀を辞めたら、もしかすると21世紀に就職出来るかもしれない。 いや、もう一度20世紀をやり直せばいいのさ。 もしも、20世紀をやり直せるとしたら、きっと面白いことに成るよ!

「現在の芸術」は「ナニ」を鑑賞するものなのだろうか?

この記事は私がメイン・ブログにしているトップページ - 「芸術の20世紀 喪失宣言」からの転載です。 

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現在「芸術作品」を見るときに、「鑑賞者」はいったい「ナニ」を鑑賞しているんでしょうか?


まぁ、一昔前であれば、『当然、「作品の中の美しさ」を鑑賞してるんでしょ』ということだったわけですよね。
でも、これが「現在の芸術」ということに成ると、どうもはっきりしないところが出てくるわけです。


たとえば、「インスタレーション」と言う表現形態がありますけど、必ずしも関係があるとも思えないようなモノが、いろいろと並べられていたりするのを見て、「鑑賞者」が鑑賞しているのは、その作品の中の「ナニ」なんでしょうか?

それは、一般的に言うところの「作品の中の美しさ」を鑑賞していると言うのとは違うと思うわけです。

その並べられているモノや、並べ方、展示方法などから、「ナニカの物語」を感じ取ってそれを鑑賞しているんでしょうか?
または、もっと単純な「オモシロサ」を鑑賞しているんでしょうか?
それとも、その作品の奥に隠された「もっと深い意味」を見つけ出して鑑賞するのが、「インスタレーション」の正しい鑑賞法なのでしょうか?

まぁ、早い話が『見る人の自由でしょ』ってことなんでしょうが、それはそれでいいとしても、「現在の芸術」が提供している「鑑賞するモノ」とは、いったい「ナニ」なのだろうか?ということは考えてもイイように思うわけです。


インスタレーション」のことはともかくとして、「現在の芸術」が提供している「鑑賞するモノ」とはいったい「ナニ」なんでしょうね?


それが「単純な美しさ」でなくなってしまっていることは、多くの人が認めることでしょう。
「オモシロサ」を選択する人はそれなりに居るでしょうが、こちらも『「単純なオモシロサ」でイイんですか?』と聞かれたら多くの人が躊躇するんじゃないでしょうか?


でも、だからと言って『私は「複雑な美しさ」を鑑賞しているんです』と言い切れる人も、そう沢山は居ないでしょうし、それは「複雑なオモシロサ」でも同じでしょう。
 

さて、そうなると、いよいよ「現在の芸術」が提供している「鑑賞するモノ」とはいったい「ナニ」なのか?
と言う疑問に対する答えが見つからないわけです。


これは、おそらく現在、「思想的な意味での芸術」が与えられている方向性と、「実際の芸術作品」が持っている方向性が大きく食い違っていることによって、起きてきている現象だと思うわけです。


「思想的な意味での芸術」は「作者の自己表現」と言う方向性を与えられているわけですが、「実際の芸術作品」は「作者の自己主張」と言う方向で制作されていることが多く、また、それでないと評価されないというところがありますから、その二つが微妙にズレているわけです。


そして、その状態が百年ほども続いていますから、ズレが大きくなってしまったわけですね。


「自己表現」と「自己主張」の主な違いは、「自己表現」が「ありのままの自分」を現そうとするのに対して、「自己主張」は「自分のいい所だけ」を現そうとするということですね。

しかも、出来れば、その「自分のいい所だけ」をできるだけ誇張して大きく見せようとするわけです。


そして、これが一番大きな食い違いに成っていると思いますが、「自己表現」においては「作者」は「何らかの犠牲的な力を使う」ことに成りますが、「自己主張」においては「ほとんどの力が作者自身のために使われる」ことに成るわけです。


結果的に、「自己表現」において、「鑑賞者」が鑑賞するモノとは、「作者の苦悩」である場合が多く成るはずですが、「自己主張」においては「作者の快楽」を「鑑賞者」が鑑賞することに成るわけです。


どちらを鑑賞したいと思うかは、人ソレゾレでしょうし、「好みの問題」なんでしょうが、この「食い違い」を意識しないで「芸術」を鑑賞してしまうと、『あれ?いったい「ナニ」を鑑賞したんだろう??』ということに成りかねないと思います。


「作者の苦悩する姿」に共感するという人は「自己表現タイプの作品」を見た方がイイと思いますし、「作者の喜び」に共鳴するという人は「自己主張タイプの作品」を見ればいいんだと思うわけですね。


ただし、ここで言っておきたいのは、「心の動き」と言うのも物理法則のようなもので、必ず「作用と反作用」があります。


「自己表現タイプの作品」を鑑賞した人は、「作者の苦悩」に共感することが出来れば、その「反作用」として「自分の苦悩」が癒される可能性があるわけです。

でも、「自己主張タイプの作品」を鑑賞した人は、「作者の快楽」に共感したとしても、「自分の苦悩」が癒されることは無いと思います。

もちろん、鑑賞者が「自分の快楽」を求めている場合は、「作者の快楽」との共鳴作用によって、鑑賞者の「快楽」も増幅されるかもしれませんが、それは、「芸術」ではなく「エンターテイメント」の領域に成ってしまうと思うわけです。

まぁ、これは、すべてのケースに100%当てはまることだとは思いませんが、こういうことを理解するうえでも、「現在の芸術」は「ナニ」を鑑賞するものなのか?ということは考えてみてもいいのかなと。


そんな風に思いました。

 

 

 

「芸術における匿名性」について

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「芸術作品」を評価する時に、作者の名前は必要なんでしょうか?
本当の意味で「芸術作品」を判断するのに、「作品」だけでは何か足りないことがあるんでしょうか?


たとえば、『ミロのビーナス』などのギリシャ彫刻は作者がハッキリしていないことが多いでしょうし、ほとんどの人が『ミロのビーナス』は知っていても、「その作者」は知らないでしょう。

でも、それで何か問題があるでしょうか?


たとえば、それ相当の信ぴょう性がある文献が新たに発見されて、『ミロのビーナス』の作者がハッキリしたとして、何かが変わるでしょうか?


ほとんど何も変わりませんよね。たぶん。
要するに、「芸術作品」の評価に「作者の名前」は必要ないということなんだと思います。


もちろん、昔と今では「芸術の意味」が変わってきているわけですから、「自己表現」としての「現在の芸術」においては、当然「作者」がクローズ・アップされるように成るわけですが、それは「芸術作品の評価」に必要なことではないだろう?ということですね。


でも、それが、なぜかそうなっていないわけですね。

これは、「芸術作品」を売り買いすることから出てくる現象なんだと思うわけです。
(『ミロのビーナス』は売り買いされることはありませんから、関係ないんでしょうね)

売る側にも買う側にも「評価額」と言うモノが必要に成るということですよね。
それじゃないと、安心して売ったり買ったりできないということなんでしょう。


でも、本当は、「誰の作品」だろうが、『イイ!』と思った作品ならば、その『イイ!』に対して「評価」が決まって来るはずなんだと思うわけですね。


もしも、すべての「芸術作品」の作者が不明であったならば、つまり、「芸術作品」と言うモノは「匿名」で創作されるものであるということが決められていたならですね、その時の「評価」こそが、その作品の「本当の評価」なんだと思うわけです。

まぁ、「芸術」を「「商売」や「オシゴト」と考えている人(画商などだけではなく)にとっては、かなり都合の悪いことに成るわけですが、それが本当のことなんだと思います。
(「芸術作品の値段」がかなり安くなってしまうでしょうね。少なくとも極端に高額な売買は無くなるでしょう)


いずれにしても、この「芸術における匿名性」と言うのは、これから必要に成っていくことなんじゃないかと思っているわけです。

「匿名」であることで、イロイロな意味で平等になりますし(「創作者同士」も平等になるし、「鑑賞者同士」や「鑑賞者」と「批評者」も平等になります)、「匿名」であることで、みんなが「作品」をよく見るようになります。
(今は、「作品」よりも「先入観」を見ている)


『誰の作品かなんて、どうでもいいよ』と言える人が、
「純粋な評価者」だと思いますし、「純粋な創作者」でもあると思います。


これ、口で言うだけの人はすごくたくさん居るんですけど、本当にそう思っている人は少ないですね。

ところが、本当にそう思っている人で、それを口に出して言う人はもっと少ないわけですから、
けっきょく、そう言う人はほとんど居ないということに成るわけです。


それ以外は、「商売人」と「そのお客さん」ですね。


本人が純粋な気持ちで評価しているつもりでも、「作者のネームバリュー」と言う価値を否定したうえで評価を下さない限り、結果的には「芸術の商売」に加担させられてしまうわけです。
(それが絶対に悪いということではありませんけど)


つまり「芸術の価値」=「ネーム・バリュー」になっていて、しかも、その「ネーム・バリュー」で「評価額」を」を割り出すというシステムに成っていて、その「評価額」こそが「芸術の価値」であると言う基準に否が応にも従わされてしまうわけですから、「本当の評価」も「本当の芸術」も出てこないですよね。


こういう状況を抜け出すための唯一の手段が「芸術の匿名化」だろう?と思うわけです。
それによって、失うモノも大きいでしょうが、得るモノも大きいんじゃないのかなと。


失うモノは「誰かの利益」です。

得るモノは「芸術の利益」ですね。


そんな風に思いますよ。

 

『スラム・ダンク イン ミー』

 

 


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「詩のような題」=「ポエティック・タイトル」

 

 

『スラム・ダンク イン ミー』

えらばれる ものは 
いつも えらばれ
えらばれない ものは
いつも すてられる

たましいを


すてられた たましいは どこへ ゆくのか
 
どこへも いきや しないさ
そこらへんに ころがってるよ

ほら
そんな たましいを あわれんで めに なみだを うかべて いる
あなたが ふんづけて いる
それが すてられた たましいさ
いや
あわてて とびのいたり しなくたって いいよ
どこに とびのいたって おんなじさ
この あたりは 
そんな すてられた たましいで うめつくされて いるから

そうさ
あなたは えらばれた ひとだから
だから
そこに たって いられるのさ
もちろん
だれにも もんくを いわれることは ないよ

あなたは 
そこに いるだけで
どんどん とくてんを かさねて いく

おおきな しってんは しない

だから
きっと また つぎも えらばれるに ちがいないよ


でも もしも 

それでも あなたが 
そこに たっていたく ないと おもうなら

でも もしも

それでも あなたが 
だれかの たましいを ふみつづけて いたくないと おもうなら

たましいを すてられて 
すてられた たましいの なかまに なれば いい

ただし
もう にどと とくてんは もらえなく なる


でも
そんな ときに たった ひとつだけ てんを とる ほうほうが ある

『スラム・ダンク イン ミー』

じぶんの なかに
ゴールの リングを ぶっちぎる くらいの ダンクを 
たたきこんで やれば いいのさ

すてられた たましいの さけび 
それが
『スラム・ダンク イン ミー』
だから
だれにも とめられない

ただし
どんなに はでに ダンクを きめても
2てんしか はいらないから ぎゃくてんは できないけどね

それでも それは 
きっと 
たましいの ヴィクトリーに なる

あなたが やれば 『スラム・ダンク イン ユー』
きっと
あなたの ヴィクトリーに なる


ようするに
えらばれずに
まけても いいけど
えらばれる ために
あたまを さげちゃ ダメだって ことなのさ

 

だから
めいっぱい たかく とんで
だから
めいっぱい からだじゅうの かんせつを のばして
だから
めいっぱいの ぜんしんぜんれいを こめて

『スラム・ダンク イン ミー』

たった 2てんだけ とるために 
まけると わかっていても 
たましいを たたきこむ

『スラム・ダンク イン ミー』


それには かちが あるのさ

 

えらばれた ものには

できない

 

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※『 』 の中は「題の題」のようなものです。

その絵を呼ぶのに使う「呼び名(ニックネーム)」だと思ってください。

あぁ、言い忘れてましたが、「絵の題」としてつくっています。

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※上の記事に関連することを、下のリンクでも説明しています。

 

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「天才」も努力すれば、きっと「凡人」に成れるよ!

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「凡人」も努力次第で「天才」に成れるのか?と聞かれれば、『成れません、無理です!』ということに成るんでしょうけど、じゃあ、「天才」は努力次第で「凡人」に成れるのか?ということだったらどうなんでしょうね?

『ハイ!もちろん成れますよ!』ということなんでしょうね、たぶん。


でも、待てよ。
やっぱり努力しないと成れないのか?
「天才」が「凡人」に成ればいいんだから、努力なんかしなくてもいいんじゃないの?


そうはいかないんですね。

「天才」は努力しなくても、”いろいろなことが出来てしまう”んですね。
それじゃあ、「凡人」には成れません。

だから、やっぱり努力しないと「凡人」にはなれないわけなのです。


同じことが同じようにできるにしても、「努力して出来る人」と「努力しないで出来る人」が居た場合、「努力しないでできる人」の方が「天才性」が高いというようなことですね。

だから、努力すれば、その分だけ「凡人」に近づくことが出来るというわけです。


何が言いたいかと言うと、過去に置いては、「凡人」と「天才」だったら、「天才」に成ることの方に、圧倒的に価値があったんでしょうが、現在においては、そうでもなくなってきているんじゃないか?ということなんですね。
と言うよりも、「天才」では足りなくなってきているということです。

つまり、過去に置いては「天才」で十分だったのに、現在に置いては、「天才」が不十分になって来ているんじゃないか?ということなんですね。

さて、そこで「不十分なもの」を「天才」と言えるのか?っていうことに成るわけです。
それで、私は「天才の時代は百年前に終わっている」と思うわけです。

実際には百年前に終わっていたことが、今になって見えてきたということですね。


それはともかく、何が不十分に成ったのかと言うと、単純に言って”飽きてきた”ということだと思います。


今は、まだ「天才」と言う言葉に、社会全体が依存してしまっていますから、”飽きている”ことが見えにくいということなんでしょうが、そもそも、「依存」と言うのは、そういうもので、実際には、もうウンザリしているのに止められないし、自分がそういうウンザリした状態に成っていることは、見えなくなっているということでしょう。


いま、本当に求められているのは、「凡人」がどこまでやるのか?って言うことなんじゃないかと思うわけです。


人間が「宇宙の存在」を知って、その広がりには際限がないことを意識するように成ってから、また、「時間と言う軸」の不思議には、人間は到底及ばないだろうということを考えるようになってからは、人間にとって、「高さ」や「速さ」などの、それまで「良い」とされてきたものは、競い合う意味のないものに成ったんじゃないかと思います。


つまり、それらの「不思議」に比べてしまうと、「人間の高さ」や「人間の速さ」はあまりにも小さくて『競い合うほどでもないんじゃないかな?』と思ったということじゃないでしょうか。


それで、そういう「一つの頂点」に向かう「天才」と言う存在にも意味が無くなってきて、それで”飽きてきてる”んだと思います。
「ドングリの背比べ」の「天才」だったら「天才」と呼ぶ意味がないですからね。


あと、もう一つには、『天才にも普通の人として生きる権利を与えましょう』ということがあるわけです。

「天才」であることで「早死に」しなければいけなくなりますし(実を言えば、長生きした天才は沢山いますし、早死にした凡人はもっと沢山いますけどね)、「普通じゃないこと」をやらないといけなくなりますから、ナニカにつけて、不都合なこともあろうかと思いますので、「基本的人権」の一つとして、「天才」にも「普通の人として生きる権利」が与えられるべきなんじゃないかと思うわけですね。


そんなことからも、『「天才」も努力すれば、きっと「凡人」に成れるよ!』と言いたいわけなのです。

そうすれば、もしかしたら、「超・凡人」にだってなれるかもね。
まぁ、「超」がついても、つかなくても、「凡人」は「凡人」なんですけどね。

「超越」しちゃったら、また、「天才」に戻っちゃいますからね。


まぁ、もう少ししたら「凡人の時代」に成ると思いますよ。
取り敢えず、もう、「神の時代」も「天才の時代」も終わってると思いますからね。

 

 

もう「天才」は「芸術」の領域ではない

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「天才」と言うと、「芸術」には付き物のように成っているわけですけど、実は、この「天才」というのは、もう「芸術」の領域ではなくなってしまっているんじゃないかと思うのです。


本当のことを言えば、「芸術」に限った話でもなくて、他のどんな分野においても、もう「天才」の領域は小さくなくなっているのだと思うわけです。

例えば「政治」の場において、いま「天才」は居るでしょうか?
『居ないと思います』

それは、これから先、現れて来るのでしょうか?
『現れてこないと思います』

それは、何故なんでしょうか?
『もう、そこに領域が無いからです』


かつては、「政治」の場においても、「カリスマ的指導者」と言われた人が居たわけですし、「芸術」においても、「天才」と言われる人たちが居たわけです。

しかし、それが”出現”しなく成って来ているわけです。


さらに言えば、「宗教」の場においても、時代を遡れば、「カリスマ」は、繰り返し現れて、その時、生み出された「宗教思想」が、現代の主な「宗教」や「宗派」の基盤に成っているわけです。


しかし、今後、またキリストやシャカやマホメッドのような「宗教的カリスマ」が現れたりすることがあるのでしょうか?

『無いと思います』

『なぜなら、もう、彼らの領域が無いからです』


いまの世の中に、彼らのような人間が現れたとしても、「カリスマ」や「天才」にはならないでしょう。
(狭い範囲で強く支持されることはあるでしょうが、それはいわゆる「カルト」でしょう)


確かに、彼らには人の心を動かすような”ナニカ”があったのでしょう。

しかし、その前に、世の中に、彼らを「カリスマ」として受け入れる領域があったということ無くしては、彼らが「カリスマ」と言われることも無かったのだと思うわけです。

そして、いま、その領域が限りなく小さくなっていると思うわけなのです。


と言っても、「天才」や「カリスマ」がもう現れなくなってしまって残念だという話ではありません。
むしろ、「天才」や「カリスマ」の領域が無くなりつつあるということは、人間が、そういう段階を卒業したということなんじゃないかと思っているわけです。

つまり、次なるステップへ向かうために、そういうものから抜け出して「新たな人間」として、道を模索するべきなんじゃないかと思うのです。


そして、そういう作業においては、「芸術」は、いち早く道を切り開いて行くべきものなんじゃないかと思っているわけです。

「芸術」には、かつて無いほどの「自由」が与えられていると思うのです。
その、言わば特権的に与えられてる「自由」を、そうしたことに向けて使う義務のようなものが、「芸術」にはあるのだと思っているわけです。

義務と言うと、ちょっと違うのかも知れませんが、どちらかと言えば、『そうせざるを得ない』と言うことなんじゃないかと思います。


世の中に「天才」の領域が無くなっているのに、その「天才」を追い求めていたんでは、「芸術」とは言えませんし、むしろ、まだその領域が残っているうちに、先駆けてその偶像を消し去ることこそが、「芸術」に与えられている役割なんじゃないかと思うわけです。

そういう意味では、かなり”遅まきながら”の感もありますけれど、そういうところに力を使って行くのがいいんじゃないかなと。


そんな風に思っているわけです。

 

 

『Wake Up Again』

 

 


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この絵は連作の中の一枚に対応していて、その連作では「ジミ・ヘンドリクス」と「スライ&ファミリーストーン」のどちらかの曲を合わせているので、一応、上の曲がこの絵と「詩のような題」に対応する曲ということなんですが、下の曲もいいので貼っておきます。(むしろ、下の曲の方が合ってるような気もしますけどね)

 


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「詩のような題」=「ポエティック・タイトル」

 

 

『Wake Up Again』

かのじょは 
いま ふたたび 
めざめた

かのじょは
この ほしを
また
あおみどりいろに かがやかせることが できる だろうか

かのじょは
ここに いつまで
いられる だろう


もう ここは 
めがみが いきられる ばしょでは ない

 

どうして われわれは 
この 
めがみが いきられない ほしを 

いっしょうけんめい つくりつづけて いるのだろう

 

 

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※『 』 の中は「題の題」のようなものです。

その絵を呼ぶのに使う「呼び名(ニックネーム)」だと思ってください。

あぁ、言い忘れてましたが、「絵の題」としてつくっています。

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※上の記事に関連することを、下のリンクでも説明しています。

 

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『ゆめらしい』

 

 


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「詩のような題」=「ポエティック・タイトル」

 

 

ゆめの なかでは 

すべての ものが うつくしく 
なんでも かんでも たのしくて
わけも ないのに うまくいく

そんな せかいが きえないように
いつでも ゆめが みられるように

えに かいて みたけれど

そんなに うつくしい わけでもないし 
なにひとつ うまくいく わけでもない

このえは ぼくの げんじつだから

ゆめのようには いかないらしい

のこる のぞみは
このえが みたひとにとっての ゆめであること

ようやく きづいた ことだけど

それこそ ぼくの 『ゆめらしい』

 

 

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※『 』 の中は「題の題」のようなものです。

その絵を呼ぶのに使う「呼び名(ニックネーム)」だと思ってください。

あぁ、言い忘れてましたが、「絵の題」としてつくっています。

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※上の記事に関連することを、下のリンクでも説明しています。

 

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『Do The Right, Do The Fault, Do The Own』

 

 


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※絵やタイトルとの相性から上の曲を選びましたが、下の曲もすごく気に入ってしまったので、残します。
 デビット・ボウイがこんな曲をやっているとは・・・・


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「詩のような題」=「ポエティック・タイトル」

 

 

『Do The Right, Do The Fault, Do The Own』

ただしくても まちがっていても かまわない
それが
じぶんで あれば いみは ある


ただしくても まちがっていても
それが
じぶんで なければ

 

いみが ない

 

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※『 』 の中は「題の題」のようなものです。

その絵を呼ぶのに使う「呼び名(ニックネーム)」だと思ってください。

あぁ、言い忘れてましたが、「絵の題」としてつくっています。

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※上の記事に関連することを、下のリンクでも説明しています。

 

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『ストリームに ながされる』 『スパイラルに まきこまれる』 そして 『スクエアの まんなかに すいこまれる』

 

 


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「詩のような題」=「ポエティック・タイトル」

 

 

『ストリームに ながされる』
『スパイラルに まきこまれる』
そして
『スクエアの まんなかに すいこまれる』

ふしぎな ながれに みを まかせ
ちゅうしんに むかって すいこまれ
この ばしょに たどりつく


それは せかいの ちゅうしん
それは じぶんの ちゅうしん
それは こころの ちゅうしん

そう 
それは うちゅうの ちゅうしんの ばしょ

そう 
ここが すべての エネルギーの みなもと

 

 

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※『 』 の中は「題の題」のようなものです。

その絵を呼ぶのに使う「呼び名(ニックネーム)」だと思ってください。

あぁ、言い忘れてましたが、「絵の題」としてつくっています。

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※上の記事に関連することを、下のリンクでも説明しています。

 

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『いのちの メリーゴーランド』

 

 


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「詩のような題」=「ポエティック・タイトル」

 

まわる まわる
じんせいの メリーゴーランド
おどる おどる
『いのちの メリーゴーランド』


ひとの いっしょうは 
メリーゴーランドの ように まわり つづける
はしる もくばに のって

ひとの うんめいは 
メリーゴーランドの うえで おどり つづける
アコーディオンの しらべに のって


まわって まわって まわり つづけ
おどって おどって おどり つづける かいてんもくば
おなじ ばしょで ぐるぐる まわる


いったい なんの ために

 

みんなを たのしませるため

いくら さがしても
ほかの りゆうが みつからない 

 

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※『 』 の中は「題の題」のようなものです。

その絵を呼ぶのに使う「呼び名(ニックネーム)」だと思ってください。

あぁ、言い忘れてましたが、「絵の題」としてつくっています。

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※上の記事に関連することを、下のリンクでも説明しています。

 

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『ながされる いやされる』

 

 


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「詩のような題」=「ポエティック・タイトル」

 

 

『ながされる いやされる』

ながされる

じだいの ながれに ながされる
せけんの くうきに ながされる

いやされる

はてしなく いやされる
すべてを わすれて いやされる


それにしても

ながされずに いやされたいと おもうことは
たかのぞみ なのでしょうか

 

 

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※『 』 の中は「題の題」のようなものです。

その絵を呼ぶのに使う「呼び名(ニックネーム)」だと思ってください。

あぁ、言い忘れてましたが、「絵の題」としてつくっています。

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※上の記事に関連することを、下のリンクでも説明しています。

 

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『きんいろの かべの なかで めざめる』

 


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「詩のような題」=「ポエティック・タイトル」

 

 

『きんいろの かべの なかで めざめる』

そして
その かがやきに つつまれて 
ゆっくりと のびをする


かのじょは
その ひかりの かべに とじこめられて いることに

 

まだ きづいて いない 

 

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※『 』 の中は「題の題」のようなものです。

その絵を呼ぶのに使う「呼び名(ニックネーム)」だと思ってください。

あぁ、言い忘れてましたが、「絵の題」としてつくっています。

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※上の記事に関連することを、下のリンクでも説明しています。

 

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『そらの なみだは あおく』

 

 


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「詩のような題」=「ポエティック・タイトル」

 

 

『そらの なみだは あおく』
あるときには
そこに オレンジいろの つぶが あらわれる

そう
この せかい ぜんたいが かなしんで いる ときには
そんな ことも あるの かもしれない


ひとが かなしめば 
そらが ないて
そらが ブルーの なみだを ながせば
ひとは かなしみを ふかめる

そして 
この せかい ぜんたいが かなしみに そまった その ときには
きっと ブルーの あめの なかに 
オレンジいろの つぶが あらわれる

その いろで 
ブルーの かなしみを やわらげる ために

 

あぁ また 
オレンジいろの つぶが はじけて

あおい なみだが きえて ゆく

 

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※『 』 の中は「題の題」のようなものです。

その絵を呼ぶのに使う「呼び名(ニックネーム)」だと思ってください。

あぁ、言い忘れてましたが、「絵の題」としてつくっています。

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※上の記事に関連することを、下のリンクでも説明しています。

 

geijutuno20ctsousitu.hateblo.jp
  

 

『Sitting Woman's Heart』

 

 


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「詩のような題」=「ポエティック・タイトル」

 

 

『Sitting Woman's Heart』

 

かのじょの こころは
いつも 
だれかを あいすることを のぞんでる
だれかに あいされることを のぞむ よりも 

でも

そんな かのじょを


だれもが あいさずには いられない 

 

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※『 』 の中は「題の題」のようなものです。

その絵を呼ぶのに使う「呼び名(ニックネーム)」だと思ってください。

あぁ、言い忘れてましたが、「絵の題」としてつくっています。

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※上の記事に関連することを、下のリンクでも説明しています。

 

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『ちょうのように さき  はなのように まう』

 

 


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「詩のような題」=「ポエティック・タイトル」

 

 

『ちょうのように さき 
はなのように まう』


そらに さく はなは
ちょうのように まい

えだを のばして とぶ ちょうは
はなのように さきみだれる


そんな ときには
ちょうと はなを へだてている かべは きえ
せかいは ひとつに なる だろう

 

いちにち だけ

そういう せかいに くらすことが

いまの のぞみ

 

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※『 』 の中は「題の題」のようなものです。

その絵を呼ぶのに使う「呼び名(ニックネーム)」だと思ってください。

あぁ、言い忘れてましたが、「絵の題」としてつくっています。

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※上の記事に関連することを、下のリンクでも説明しています。

 

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