私は、そんなわけで20世紀をやめました

20世紀のシッポを切り落とすために出来ることを考えます。 20世紀を辞めたら、もしかすると21世紀に就職出来るかもしれない。 いや、もう一度20世紀をやり直せばいいのさ。 もしも、20世紀をやり直せるとしたら、きっと面白いことに成るよ!

「健康」について

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何かにつけて、「健康」の大切さが身に染みている今日この頃なわけです。


「健康」が大事なのは当たり前のことなのかもしれませんが、人間の場合「体の健康」と「心の健康」の両方に気を配らなければならないので、そこの所が特に難しくなっているように思うわけです。


ただ、言葉の上で「健康」と言ってしまうと、「完全な状態」が「健康」で、「不完全な状態」は「不健康」のようになってしまうのですけれど、「完全な状態」などは、ほとんどないわけですから、実際は、「不完全な状態」の中での健康を「健康」と言っているわけなのでしょう。

「一病息災」みたいな感じですか?

でも、実体としては「二病」でも「三病」でも「息災」であればいいように思うのです。


「息災」って何なんだかよくわからない言葉なわけですが、それでも、取り敢えず「息災」ならいいんじゃないの?と言うところですかね。


重い病気の人に関しては、可哀相だと思うのもかえって失礼なようにも思いますし、逆に、そう思わないのも非道なことのようにも思えて、そこの所の判断は付きませんけれど、少なくとも、かなり重い病気の人の中にさえ「息災」はあるのだと思うわけです。


そして、「体の病気」についても「心の病気」についても言えることだと思いますけれど、病気であることを自覚していることは、とても「健全なこと」のように思うわけです。
もっとも「病的」なのは、「病気」を自覚できないことだと思うのです。

そして、そこには「息災」はないように思います。


自分の「病気」を自覚できている人と言うのは、どこか「健康」な気がしてしまうのです。
それは、ただ「頑強」ではないというだけで、「健康」に近いのかなと。
そんな風に思ってしまうわけなのです。


「病気」と言うのは、完全に克服しなくても、自覚して把握してしまうと「病気」とは言い切れなくなってしまうようなところもあると思うわけですね。


もともと、全ての命は、生まれた瞬間から「死」に向かっているとも言えるわけで、「病気」があってもなくても はじめから「余命〇〇年」なのだと思うのです。

ただ、若いうちはその「〇〇年」が長いと思っているというだけのことなのでしょう。


だから、どんなに健康な人でも生まれたときには、もう「余命100年ぐらい」なわけで、その人が50歳なら「余命50年ぐらい」なわけです。

それと「余命3年」というのとが、どれほど違うことなのかはわかりませんけれど、少なくとも、みんな”期限付きの人生”を生きているのは同じなわけなのです。


つまり、全ての人が「余命〇〇年」の「病気」の人生を生きているとも言えるし、逆に、全ての人が、”不完全な”「健康」の人生を生きているとも言えるわけです。


だから、そういう感じで「病気」を把握してしまうと、あとは人生の期間が長いか短いかと言うだけの問題なわけです。


人生の長さは絶対的なことでもないと思いますけれど、「健康」を大切にしていないと、「病気」を把握することもできないので、やっぱり「健康」は大切にする方がいいのかなと。


そう思う、今日この頃なのであります。

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※この記事は私がメインでやっている

 

と言うブログからの転載です。