私は、そんなわけで20世紀をやめました

20世紀のシッポを切り落とすために出来ることを考えます。 20世紀を辞めたら、もしかすると21世紀に就職出来るかもしれない。 いや、もう一度20世紀をやり直せばいいのさ。 もしも、20世紀をやり直せるとしたら、きっと面白いことに成るよ!

「善悪」について(5)

f:id:nakafutatu:20210724135138j:plain

どうも、こんにちは。

「善悪」についてのつづきです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

前の記事の

 「戦争」や「極度の貧困」などの、人間にとって過酷な状況の下でも、
 「人を殺してでも生き残る」ということは、「悪」だと言えるのだろうか?

というところからの続きです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

「生き残り」自体がギリギリな状況下で「人を殺してでも生き残る」ということは「悪」なのでしょうか?

もしも、それを『「悪」ではない』としてしまえば、おそらく完全に「善悪の規準」は失われてしまうでしょう。
そうなれば、「悪」ははびこり、「善」は失われて、世の中がすさんでいくに違いないでしょう。

しかし、逆に、それを『「悪」である』としてしまえば、おそらく「悪を免れる手段」は「死ぬこと」しかなく成ってしまいます。
でも、すべての人間が死なない限りは、「悪」は消えませんから、けっきょく「悪」が存続し続けることに変わりはありません。
しかも、「生き残る」ためには「悪」を実行し続けるしかありません。

さあ、どうすればいいんでしょう?

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

どうしようもないですよね?こういうの。
まぁ、こういう話は、話としては面白くても、おうおうにして『そんなのどうしようもないでしょ』と言う結論に達してしまいます。

そう成ると、もう話はそこで終わってしまうのか?

いや、その逆で、ここまでは前置きで、ここからが本題に成ります。
実は、ここまでの話は、こういう話をするときには、「固定的な結論」を求めることには、あまり意味が無いんじゃなか?ということを言いたいがために、長々と書いてきたことで、この話の本題ではないんです。


要するに、「善悪」のような問題に、「固定的な結論」を求めるのには無理があるんだと思います。
(実際には、どんなことにも「固定的な結論」と言うのは無いのかも知れませんが、そこまで話を広げると収拾がつかなく成るので止めておきます)

ここで、「固定的な結論」と言っているのは、『〇〇は悪(又は善)である』とか『~することは悪(又は善)である』と言うように、ある単独の物事や行為を指して、それを「悪(又は善)」として固定的に断じてしまうことです。

前の例で言えば、『「生きものを殺すこと」は「悪」である』と言うのが「固定的な結論」ということに成ります。
そして、これは、「生き物」を「人間」に置き換えても、他のどんなものに置き換えても同じということに成るわけです。

それが、例えば「人間が人間を殺すこと」のような、一般的に言って「悪」と規定されていることであっても、いや、それどころか、あえて極論すれば、「親を殺すこと」であっても「子供を殺すこと」であっても、そういう行為やその行為を行った人を固定的に「悪」であるとしてしまうことには、あまり意味がありません。

過去の歴史を見れば一目瞭然ですが、ほぼすべての人が「戦争」のような状況を与えられると、わりと平気で「人を殺す」と言う行為を行ってしまいます。
それどころか、「戦争」の間だけに限って言えば、「たくさん人を殺した人」は「英雄」でありこそすれ、「悪人」と言われることなど、まずありません。
もちろん、世間的に「英雄」と言われるか、「悪人」と言われるかで、本質的な意味での「善悪」が決まるとは言えないんでしょうが、その時、その場に居る人の「善悪の規準」なんて、そのぐらい「テキトー」なものだということです。

だから、そういう「固定的な結論」を求めても、状況が変わったときには、全く通じないわけですから、そういう、その時々でコロコロ変わってしまうようなことだったら、頭を使って考えたりしないで、その時、その場の流れに「テキトー」に合わせて生きていれば、それでいいじゃないかということに成るわけで、それを前もって考えたり、結論を導き出そうとすることには、まったく意味が無く成ってしまうということです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

さて、そんなことから、「固定的な結論」は捨てて、「流動的な結論」を探して見ようというわけです。
(こちらが本題に成ります)

ここで「流動的な結論」と言っているのは、単独の「行為」や「物事」ではなく、その「行為」や「物事」が発生した「状況」や「行為者の心理」との関連で、「善悪」を判断するという立場から導き出された結論のことです。

だから、一つの同じ行為であっても、ケース・バイ・ケースでまったく違う結論が出て来るということです。
つまり、同じことでも、時と場合によって、それが「善」と成ることもあるし「悪」と成る場合もあるということに成ります。
(まぁ、当たり前のことなんですけどね)

そして、さらに言うと、それらの「心理的背景」や「周囲の状況」などまで含めてすべてが、まったく同じ環境であったとした場合ですら、それを判断するのがどの立場にいる人なのかということで、一つのことが「善」にも「悪」成ってしまうということを含めた意味で、「流動的な結論」と言っています。


つまり、ここで言う「流動的な結論」と言うのは、「結論」と言っても、「正しい答え」のことではなく、それらのことを考えたり判断したりする過程における「精神の中にある方向性」のことです。
その「方向性」に、何らかの「正しさ」を見つけ出す人も居るかもしれませんし、「正しさ」と言うほどではないが「一貫性」のようなモノを見出す人も居るでしょうが、いずれにしても、そこにナニカしらの「人間が向かうべき方向」と考えられるものは無いだろうか?と言うことを考えてみようということですね。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

さて、また長く成って来たので、次の記事に続けます。

そろそろ、読む人も少なく成って来たでしょうから、この辺から、本題に入ります。
(こういう、へそ曲がりって「悪」でしょうか?)

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

※この記事は私がメインでやっている下のブログからの転載です。