「ビンボー」と「貧困」の違い
「ビンボー」と「貧困」は、ほとんど同じイメージだと思うんですが、でも、ナニカが違うという感じもあるわけです。
私なんかも、かなり「ビンボー」なような気がするんですけど(『いや、もしかすると気のせいか?』 『・・・あぁ、気のせいじゃなかった』)、「貧困」かと言うとそうでもなくて、実を言えば、かなり豊かな暮らしをしていたりするわけなのです。
確かに「おカネ」はないんですが、そんなに「おカネ」を使わないんで困ってないんですね。
つまり、「貧」だけど「困」ではないということです。
私の場合、今は妻の収入に頼って、絵を描くことに専念させてもらっていますから、「ビンボー」と言うのも失礼な話なんですけど(働いている妻に対してですね)、取り敢えず、困ってはいないですねぇ。
『女房を働かせといて、なにを偉そうなことを言っているんだ!』と言われそうですけど、一応、私なりに一所懸命にやっている結果がこうなっているわけですから、まぁ、その辺のところは、大目に見てやっているわけです。
(いや、自分が)
それはともかくとして、ここで言う「ビンボー」と「貧困」の違いって、いったいどこから来るんだろうかと思うわけです。
ただ単に、「困っているかどうか」と言うことだけでもないような気がするわけですね。
私は、「ビンボー」と「貧困」の決定的な違いは、「本人が受け入れているかどうか」だと思うわけです。
つまり、その「ビンボー」を本人が受け入れていれば「単なるビンボー」で、本人が受け入れていない場合は、「貧困」に成るんだと思います。
私の場合だと、むしろ積極的に「ビンボー」をやっているところもありますから、「豊かなビンボー」と言うことに成るわけですね。
逆に言うと、客観的に見て「裕福」でも、本人がそれを「裕福」として受け入れていない場合は、どこか貧しいという印象があって、それも、どちらかと言うと「貧困に近い貧しさ」と言う感じがしてしまうわけです。
そして、現代社会では、この「ビンボーを受け入れている人」が、
昔よりも少ないような気がするわけなのです。
例えば、江戸落語に出て来る「長屋暮らし」などは、「破れ障子にせんべい布団」と言うような、かなりの「ビンボー生活」だと思いますけど、ちっとも「貧困」は感じないですね。
むしろ、楽しそうです。
これは必ずしも「落語の中の世界」だからということだけでも無いような気がするんですね。
要するに、周りもみんな生活レベルが同じくらいで、当時の江戸は「江戸全体」が豊かだったんでしょうから、「食うのには困らない」と言うことがあったんだと思います。
それで、『宵越しの銭は持たねぇ』みたいな感覚があったんでしょうね。
これなんか、どちらかと言うと『すすんでビンボーに成ったろうじゃねぇか!』と言う感じですよね。
たぶん、「ビンボーを受け入れやすい状況」があったんだと思います。
さらに言えば、「ビンボー」を楽しむような状況があったといっても過言ではないような気がします。
ところが、現代社会では「食うのには困らない」と言うことが、「ビンボー受け入れの条件」にはならないみたいです。
「貧困層」と言われる人たちでも「スマホ」や「パソコン」を持っていることはフツウでしょうし、「クルマ」だって持っているかも知れません。
また、かなり立派な家のローンを支払うために「ビンボー」に成っているというような、「貧困層」なのか「富裕層」なのかよくわからないような人たちも、場合によっては「貧困」に含まれていたりします。
つまり、それだけいろいろ持っていても、まだ「ナニカに困っている」と言うことですね。
要するに、現代は「ビンボーを受け入れにくい状況」にあるんだと思います。
現代と言う時代の中で、「ビンボー」を受け入れるにはどうすればいいのか?
まぁ、単純に言って、二つのモノのうち一つを諦めればいいんだと思いますね。
「二者択一」が発生した時に『自分にとって重要なモノを取って、他は捨てる』これだけでいいような気がしますね。
そうすれば、現代は「江戸時代」以上に、「ビンボーを受け入れやすい時代」に成るんじゃないかと思いますね。
現代人は、いつも二つとも取ろうとするんですね。
それで、二つとも取れないと悔しくてその状況を「受け入れられなく」なってしまうわけです。
私といたしましては、「リッチな貧困」よりも「豊かなビンボー」がいいんじゃないのかなと。
『どっちもよくねぇよ!!』という声が聞こえてきそうですけど。
「そんな馬鹿な?!」
と、そんな風に思ってしまうわけなのです。