私は、そんなわけで20世紀をやめました

20世紀のシッポを切り落とすために出来ることを考えます。 20世紀を辞めたら、もしかすると21世紀に就職出来るかもしれない。 いや、もう一度20世紀をやり直せばいいのさ。 もしも、20世紀をやり直せるとしたら、きっと面白いことに成るよ!

「善悪」について(6)

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どうも、こんにちは。

「善悪」についてのつづきです。

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前の記事の

 さて、そんなことから、「固定的な結論」は捨てて、
 「流動的な結論」を探して見ようというわけです。

というところからの続きです。

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そこで、私が「流動的な結論」として、「善悪の規準」に設定しているのが、一番初めに「私なりの結論」として述べた「自分が悪いと思っていることをすること」=「自己内における悪の肯定」ということに成るわけです。
(おぉ~、やっと戻ってこれたぁ)

それで、はじめに『「泥棒を悪いことだと思っていない人」であれば、「泥棒」は「悪」ではなく成ってしまう』と言うような、ちょっと極端な話が出てきたというわけですね。
要するに、「これは流動的な結論」なんですよということを、お断りするためにあんなことを言ったわけです。

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さて、ようやく「本題」に入ったわけですが、実を言うと、この「本題」の中にも、さらに「本題の中の本題」があります。

つまり、「自分が悪いと思っていることをすること」=「自己内における悪の肯定」は、まだ、「本題の中の本題」ではないんです。
(非常に回りくどくて申し訳ありません)

同じ「自分が悪いと思っていることをすること」の中でも、単なる「自己内における悪の肯定」は、人間にとってはなかなか避けられないことだと思いますし、「自分が悪いと思っていることをすること」を「悪」だとしてしまうと、かなりハードルが高く成ってしまうと思うわけです。

私は「人間」と言うのは、その程度のレベルだと思っていますので、「自分が悪いと思っていることをすること」=「自己内における悪の肯定」くらいのことを「悪」だとしてしまうと、ほぼすべての人が「悪人」ということに成ってしまうような気がするんですね。

私自身も含めて、誰しも、おうおうにして、「自分が悪いと思っていること」を『しない』と言うぐらいは『自分には出来ることだろう』と思ってしまうんですが、実を言うと、人間なんて、『怒ってはいけない』と思っていても『怒ってしまう』ものですし、『他人を妬んではいけない』と思っていても『妬んでしまう』ものですし、一つ間違えば、『妬んでいる相手を落とし入れたりしてはいけない』と思っていながら、『落とし入れてしまう』ものなんだと思うわけです。

そういうのを、絶対にやらない人って、まぁ居ませんし、ほとんどやらない人だって、実際にお目にかかったことはありません。
ショッチュウやる人と、すごくショッチュウやる人ぐらいしか、私は知りません(自分も含めて)。
(しかも、「すごくショッチュウやる人」の方が、やや多数派だったりする)

そして、これは、必ずしも、人間にとって、あまぁ~い条件を設定しようということだけでもなくて、実を言えば、そういう『ついつい~してしまう』と言うのは、ある意味では、人間の最も人間的な部分でもあるという意味も含まれているんです。
つまり、あまりにもキチキチの規準を設定してしまうと、「悪」は排除できたとしても結果的に「人間性」までも排除されてしまうという本末転倒が起きかねないという意味で、こういうユルイ規準を設定して行こうということなんですね。
(と言うか、実際には「悪」は排除できないのに「人間性」だけは排除されてしまう)

そこで一段ハードルを下げて、『まぁ、そこまでは「良し」としよう!』ということにして、私が「本題の中の本題」として設定しているのは、「自己内での悪の正当化」です。

つまり、「自分が悪いと思っていること」を実行することで「自己内における悪」を肯定してしまって、さらに、その「実行された悪」を自分の中で、『いや、これは「悪」ではないんだ』という形に無理矢理変形させることで「正当化」しようとすることをもって、『もうこの辺まで来たら、それを「悪」と言ってもいいんじゃないか?』という風に思うわけですね。

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さて、またまた、長く成ってしまったので、次に続けます。

まぁ、大した結論に到達するわけではありませんので、気軽にお読みいただければ幸いです。

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※この記事は私がメインでやっている下のブログからの転載です。

 

『walling sky walk』

[Little Walter - Mellow Down Easy]


www.youtube.com

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「詩のような題」=「ポエティック・タイトル」

 

『walling sky walk』

この 
かべの ような そらを
ぬけだして


さて
どこへ いこうか

いや  


もう どこだって いい


※[walling]と言うのは、「壁のような」という感じの意味みたいです。
詳しくはわかりませんが、「グーグル翻訳」で出てきました。
ここでは[walling sky walk]を「壁のような空の上を歩く」と言うような意味で使いました。
「スカイ・ウォーク」と言うと空の上をフワフワと漂うようなイメージがありますが、この場合は、もう少しシッカリとした方向性をもって歩くイメージに近いのかも知れません。
ただし、「その方向」は『もう どこだって いい』というような感じでしょうか。

 

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※『 』 の中は「題の題」のようなものです。

その絵を呼ぶのに使う「呼び名(ニックネーム)」だと思ってください。

あぁ、言い忘れてましたが、「絵の題」としてつくっています。

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※上の記事に関連することを、下のリンクでも説明しています。

 

geijutuno20ctsousitu.hateblo.jp
  

 

「善悪」について(5)

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どうも、こんにちは。

「善悪」についてのつづきです。

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前の記事の

 「戦争」や「極度の貧困」などの、人間にとって過酷な状況の下でも、
 「人を殺してでも生き残る」ということは、「悪」だと言えるのだろうか?

というところからの続きです。

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「生き残り」自体がギリギリな状況下で「人を殺してでも生き残る」ということは「悪」なのでしょうか?

もしも、それを『「悪」ではない』としてしまえば、おそらく完全に「善悪の規準」は失われてしまうでしょう。
そうなれば、「悪」ははびこり、「善」は失われて、世の中がすさんでいくに違いないでしょう。

しかし、逆に、それを『「悪」である』としてしまえば、おそらく「悪を免れる手段」は「死ぬこと」しかなく成ってしまいます。
でも、すべての人間が死なない限りは、「悪」は消えませんから、けっきょく「悪」が存続し続けることに変わりはありません。
しかも、「生き残る」ためには「悪」を実行し続けるしかありません。

さあ、どうすればいいんでしょう?

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どうしようもないですよね?こういうの。
まぁ、こういう話は、話としては面白くても、おうおうにして『そんなのどうしようもないでしょ』と言う結論に達してしまいます。

そう成ると、もう話はそこで終わってしまうのか?

いや、その逆で、ここまでは前置きで、ここからが本題に成ります。
実は、ここまでの話は、こういう話をするときには、「固定的な結論」を求めることには、あまり意味が無いんじゃなか?ということを言いたいがために、長々と書いてきたことで、この話の本題ではないんです。


要するに、「善悪」のような問題に、「固定的な結論」を求めるのには無理があるんだと思います。
(実際には、どんなことにも「固定的な結論」と言うのは無いのかも知れませんが、そこまで話を広げると収拾がつかなく成るので止めておきます)

ここで、「固定的な結論」と言っているのは、『〇〇は悪(又は善)である』とか『~することは悪(又は善)である』と言うように、ある単独の物事や行為を指して、それを「悪(又は善)」として固定的に断じてしまうことです。

前の例で言えば、『「生きものを殺すこと」は「悪」である』と言うのが「固定的な結論」ということに成ります。
そして、これは、「生き物」を「人間」に置き換えても、他のどんなものに置き換えても同じということに成るわけです。

それが、例えば「人間が人間を殺すこと」のような、一般的に言って「悪」と規定されていることであっても、いや、それどころか、あえて極論すれば、「親を殺すこと」であっても「子供を殺すこと」であっても、そういう行為やその行為を行った人を固定的に「悪」であるとしてしまうことには、あまり意味がありません。

過去の歴史を見れば一目瞭然ですが、ほぼすべての人が「戦争」のような状況を与えられると、わりと平気で「人を殺す」と言う行為を行ってしまいます。
それどころか、「戦争」の間だけに限って言えば、「たくさん人を殺した人」は「英雄」でありこそすれ、「悪人」と言われることなど、まずありません。
もちろん、世間的に「英雄」と言われるか、「悪人」と言われるかで、本質的な意味での「善悪」が決まるとは言えないんでしょうが、その時、その場に居る人の「善悪の規準」なんて、そのぐらい「テキトー」なものだということです。

だから、そういう「固定的な結論」を求めても、状況が変わったときには、全く通じないわけですから、そういう、その時々でコロコロ変わってしまうようなことだったら、頭を使って考えたりしないで、その時、その場の流れに「テキトー」に合わせて生きていれば、それでいいじゃないかということに成るわけで、それを前もって考えたり、結論を導き出そうとすることには、まったく意味が無く成ってしまうということです。

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さて、そんなことから、「固定的な結論」は捨てて、「流動的な結論」を探して見ようというわけです。
(こちらが本題に成ります)

ここで「流動的な結論」と言っているのは、単独の「行為」や「物事」ではなく、その「行為」や「物事」が発生した「状況」や「行為者の心理」との関連で、「善悪」を判断するという立場から導き出された結論のことです。

だから、一つの同じ行為であっても、ケース・バイ・ケースでまったく違う結論が出て来るということです。
つまり、同じことでも、時と場合によって、それが「善」と成ることもあるし「悪」と成る場合もあるということに成ります。
(まぁ、当たり前のことなんですけどね)

そして、さらに言うと、それらの「心理的背景」や「周囲の状況」などまで含めてすべてが、まったく同じ環境であったとした場合ですら、それを判断するのがどの立場にいる人なのかということで、一つのことが「善」にも「悪」成ってしまうということを含めた意味で、「流動的な結論」と言っています。


つまり、ここで言う「流動的な結論」と言うのは、「結論」と言っても、「正しい答え」のことではなく、それらのことを考えたり判断したりする過程における「精神の中にある方向性」のことです。
その「方向性」に、何らかの「正しさ」を見つけ出す人も居るかもしれませんし、「正しさ」と言うほどではないが「一貫性」のようなモノを見出す人も居るでしょうが、いずれにしても、そこにナニカしらの「人間が向かうべき方向」と考えられるものは無いだろうか?と言うことを考えてみようということですね。


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さて、また長く成って来たので、次の記事に続けます。

そろそろ、読む人も少なく成って来たでしょうから、この辺から、本題に入ります。
(こういう、へそ曲がりって「悪」でしょうか?)

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※この記事は私がメインでやっている下のブログからの転載です。

 

『エンジェル・ランディング』

 


www.youtube.com

※同じ曲です。
 上の方が有名なんですが、この場合は下の方があってるのかな?


www.youtube.com

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「詩のような題」=「ポエティック・タイトル」

 

てんしのように やさしく
てんしのように あいらくしく
そして
てんしのように あざやかに

かのじょは まいおりて きた


ミス・クラウド
もしかすると かのじょは 
ほんとは てんし なんかじゃ ないの かもしれない

それでも 
それは それで


ぼくに とっては じゅうぶんに スウィートな

『エンジェル・ランディング』



 

※「ミス・クラウド」と言うのは、このキャラクターの名前です。

 頭のところが「クラウド=雲」みたいでしょ?

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※『 』 の中は「題の題」のようなものです。

その絵を呼ぶのに使う「呼び名(ニックネーム)」だと思ってください。

あぁ、言い忘れてましたが、「絵の題」としてつくっています。

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※上の記事に関連することを、下のリンクでも説明しています。

 

geijutuno20ctsousitu.hateblo.jp
  

 

「善悪」について(4)

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どうも、こんにちは。

「善悪」についてのつづきです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

前の記事の

  さて、そうなると、どこに「善悪の規準」を設定したらいいのかが、まっ
  たく分からなく成ってしまいます。

  「殺す」と言う「最も悪に近いこと」だと思っていたことについてですら、
  「悪」であると断定する根拠が見いだせなく成ってしまうわけですねぇ。

というところからの続きです。

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ちょっと考えただけで、「善悪の規準」に対する、方向性が見えなく成ってしまったわけですね。
要するに、『どっち方面を探せばいいのかもわからない』という感じです。

とにかく、ごく一般的に「悪」とされていることに限ってでさえも、よくよく考えてみると、ほとんどの場合、「生きること」につながっています。
ほぼ直結していると言ってもいいでしょう。
要するに、人間が「悪」であると考えているようなことを、敢えてやってしまうのは、「生きるため」であることが多いんだと思います。
じゃなきゃ、やりませんよね。
しかし、そうなると、「生きていてはいけない」ということに成ってしまいます。

ところが、死んでしまうということは、もし仮に、それで自分だけは「悪」から逃れられたとしても、「善」を行うことは出来なく成ってしまいます。
それで、少なくとも自分自身は「悪」からは離れられるのかも知れませんが、仮に自分だけは「悪」から逃れたとしても、「善」が存在しない世の中を肯定してしまうことに成ります。
つまり、【「善」は無く「悪」だけがはびこる世の中】、そういう世の中を置き去りにして、この世を去ることに成ってしまうわけです。
それを「悪」ではないと言えるのか?と言う問題が残ってしまうわけです。
(言葉で言うと、すごく恐ろしい感じですが、この段階までは、あくまで、バーチャルな話ですから)


これは、話を分かりやすくするために「肉食動物VS草食動物」とか「人間VS草食動物(又は植物)」などと言う対立の構図で考えてみたというだけの話で、実を言えば、「人間VS人間」であってもほぼ同じことです。

例え、人間同士であっても、対立する相手を凌駕し、場合によっては殺してでも自分の立場を確保するというのは、ある種の弱肉強食と言う自然の摂理の中で生じていることであって、それを、「悪」としてしまうと、どうしても、最終的には「生きていてはいけない」と言う結論、つまり『生きることが「悪」である』と言う結論に到達してしまうのだと思います。

これは、現在の世の中で考えると表面上では見えにくいと思いますが、例えば「戦争」や、例えば「原始時代のサバイバル」や、例えば「極度の貧困や格差」などの状況下では、ごく一般的なことに成ってきます。

「戦争」を例にとれば、一番わかりやすいでしょうが、戦時下にあって「敵国の人間を殺すこと」を「悪」であるとすれば、自動的に「生きていられない」あるいは「黙って殺されなければならない」と言う結論に達してしまいます。

しかし、いくら「敵国の人間」であっても、「その人」は単なる「知らない人」であって、実を言えば、「自分がすごくいい人だと思うような人」なのかもしれません。
でも、そんなことは、お構いなしに『迷わずぶっ殺してしまわないと』生き残れません。

果たして、これは、「悪」なんでしょうか?

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

というところで、また、長く成ったので、次に続けます。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

通行人A:『ところで、ぜんぜん話が進んでないと思うんですが、これ、いったい、

     いつまで続くんです?』

老人A :「ずっと、書き続けてみようかなぁ」

      「例えば、三行づつ記事にして更新していったら、十年ぐらい続けられ

     るんじゃないか?」

通行人A:『あんた、バカなの?』

老人A :「えっ、今頃気付いたの?」

通行人A:『いえ、知ってました』

老人A :「・・・・・・」

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※通行人A=たまたま、通りがかりに、こんな記事を目にしてしまったために、
      一応、最後まで読まないと気が済まないという泥沼にはまって
      しまった、不幸な人の気持ちを代弁する影の声。

※老人A=いくつに成っても、まったく進歩することが無い「初期高齢者」。

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※この記事は私がメインでやっている下のブログからの転載です。

 

「善悪」について(3)

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どうも、こんにちは。

「善悪」についてのつづきです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

前の記事の

  さて、ここで、『それでは、人間が草食動物を殺して食べていることは「悪」

     なのか?』と言う問いが発生するのはごく自然なことでしょう。

というところからの続きです。

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肉食動物の場合は、「草食動物を捕食すること」が、「生きることそのもの」に限りなく近かったので、それを「悪」としてしまうことには、無理があるだろうということが、わりとすんなりと受け入れられたわけですが、それが、「人間が草食動物を殺して食べていること」と成ると、ちょっと微妙な部分が出て来ますよね。

まず、人間の場合は必ずしも草食動物を殺して食べなくても、生きていくことは出来ますし、まして、わざわざ牧畜で草食動物を繁殖させて、さらに肥え太らせてから、それを殺して食べるという行為を、「悪」でないということには、やや抵抗が出てきてしまいます。

なんと言っても、ここまで「身勝手なやり方」をしていながら、それを「悪」と言わないのであれば、「悪」という言葉の規定するところが、いくら何でも曖昧になりすぎてしまうような気がしてきますよね。

でも、ちょっと待てよ。
人間の場合、「草食動物を殺して食べること」は「悪」だとするならば、「植物を殺して食べること」はどうなのか?
植物にも命があり、生きているということに変わりはありませんから、やはり、殺して食べるということであるのは同じなわけです。
しかし、そうなると、ここで、また、「肉食動物」の時と同じように、人間にとっても「生きること」と「食べること」は直結しているわけですから、植物も食べてはいけないとすれば、人間も、また、生きていくことが出来なく成ってしまいます。

さて、そうなると、どうして、人間が牧畜などで動物を繁殖させて、十分に肥え太ったのを見計らってから、殺して食べるということには、「悪」を感じてしまうのか?ということが浮かび上がってきます。

しかし、それは、植物の場合も同じで、やはり、人間は植物を品種改良して、肥料をたっぷり与えて十分に成長したのを見計らってから、殺して食べているわけです。
そういう意味では、牧畜と農業に、根本的な違いは無いでしょう。

ところが、なぜか、植物の栽培に関しては、動物の飼育ほどには「悪」を感じなかったりもするわけです。

宗教上の理由から、菜食主義者だったインドのマハトマ・ガンジーは、『生きたいと願っている動物を殺して食べることと、食べて欲しくて実っている果物を食べることは、まったく違うことだ』と言っていたそうです。
しかし、植物が、殺されたくないと思っている可能性が無いとは言い切れませんし、植物の実は食べていいが植物の本体は殺してはいけないというように、理屈だけを重ねていくことにも、あまり意味がないような気がします。

さて、そうなると、どこに「善悪の規準」を設定したらいいのかが、まったく、分からなく成ってしまいます。

「殺す」と言う「最も悪に近いこと」だと思っていたことについてですら、「悪」であると断定する根拠が見いだせなく成ってしまうわけですねぇ。

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まだまだ、続くと思います。
たぶん読む人はほとんどいないんでしょうね。

『それ、なかなかイイじゃない?』

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※この記事は私がメインでやっている下のブログからの転載です。

 

 

「善悪」について(2)

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どうも、こんにちは。

『「善悪」について』のつづきです。

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はじめに、結論を言ってしまいますが、私が考えるところの「善悪の規準」は「その人が悪いと思っていることをすること」です。

つまり、自己内における「悪の肯定」こそが「悪の本質」であると考えるわけです。
逆に言うと、「自分が悪いと思っていないこと」であれば、それを行うことは「悪」とは言えないということに成ります。
例えば、「泥棒」を悪いことだと思っていない人の場合は、「泥棒」は「悪」ではないということに成ってしまうわけです。

 ※これは、あくまで「善悪」と言うモノを、最も純粋に考えて行った場合の
  「善悪」についての話です。
  したがって、「常識」とか「法律」とか「道徳・倫理」などと言う考えとは、
  根本的に違う視点から考えた「善悪」ということに成りますので、そう
  いう観点を、少し緩めた見方をしていただけると嬉しいです。

  「泥棒=OK」ということを言うつもりではありませんので。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

そもそも、「善悪」と言う概念は人間にしかないものだと思います。
少なくとも、ごく普通に考えた場合は「善悪」という言葉自体が人間が考えた言語ですから、人間にしかない概念だというのが妥当なことなのかもしれません。
でも、さらに深く「善悪」を追求していくとすれば、「人間以外」にも「善悪」と言うモノが存在する必要が出て来ると思います。

もしも、「善悪」が人間にだけしか通用しないものなのであれば、「人間にとって都合の良いこと」こそが「善」であり、「人間にとって都合の悪いこと」こそが「悪」であるということに成ってしまいます。

しかし、そういう「ご都合主義的な善悪」を、果たして「本質的な意味での善悪」と言えるのか?ということに成ると、やはり問題があるような気がしてきます。
まぁ、要するに、「善悪」という言葉の持っている「イメージ」と、その「ご都合主義」が全くそぐわないために、言葉の中で自己矛盾が発生してしまうような気がするわけですね。
つまり、そういう考え方をもって「善悪」を規定してしまうと、「善悪」という言葉自体の意味が失われて、成り立たなく成ってしまうように思うわけですね。

そう成ってくると、「善悪」という概念を「人間以外」にも持ち込んで考えていくしかなくなってきますから、当然「人間以外の動物」や「人間以外の植物」や「人間以外の自然」や「人間以外の物質」など、要するに「人間以外の世界」にも何らかの「善悪」なるものが存在するという前提で考えなければならなく成ってきます。
(「善悪」自体は「人間以外の世界」にも存在するが、それを概念化しているのは「人間」だということですね)

そうしたときに、考え得る「善悪」とは、いったいどういうモノなのか?また、そういう「善悪」を判断する規準をどんなふうに設定していくのか?ということが問題になってきます。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

そこで、まず、考えられることと言えば、「人間以外の動物」についてでしょう。

やはり、「思考」や「意志」を持たないものにおける「善悪」と言うのは、なかなか考えづらいという感じがありますから、とりあえず考えやすい「動物の中の善悪」を考えてみます。


例えば、肉食動物は草食動物を一方的に殺して食べていますが、それは「悪」なのでしょうか?
もしも、それを「悪」であると考えるならば、「本能に従って行動すること」が「悪」であるという可能性が出てきてしまいます。
そう成ると、ほぼすべての「動物の行動」は「悪」ということに成ってしまいますが、それは違うでしょう。
やはり、「善」と「悪」が、ほぼ拮抗している状態があってこそ「善悪」という概念が成り立つわけで、どちらかに一方的に偏っていたり、ましてや、どちらか一方だけしかないということに成ると、「善悪」という概念は成り立たなく成ってしまうと思います。

これは、必ずしも、「偏り」だけの問題でもないんじゃないでしょうか?
例えば、「殺すこと」を「悪」であるとするならば、「肉食動物が草食動物を殺すこと」も「悪」であると言わねばならなく成るでしょうが、その場合「善」と成り得ることは、いったいどういうことなのか?と考えると、肉食動物にとって草食動物を捕食することは、ほとんど「生きること」そのものであると言ってもいいことであるわけですから、そうなると「生きること」が「悪」であるということに成ってきます。
そう考えると、「死ぬこと」だけが「善」であるという結論しか出て来ません。
しかし、もしも、すでに「死んでしまっている」のだとすれば、その肉食動物は、もう存在しないわけですから、「善業」を行うことは出来ません。
つまり、「絶対に行われることのないこと」だけが「善」であり、ほぼすべてのことが「悪」であるということに成ってしまうわけですねぇ。

これは、肉食動物たちにとっては、あまりにもハードルの高すぎる「善悪の規準」なのではないでしょうか?
と言うか、そういう「善悪の規準」を設定することに、何か意味があるとは思えませんね?
でも、そもそも、この文章は一番初めにお断りしてあるように、『もしも、仮に、「善悪の規準」と言うモノを設定するのであれば・・・・』という前提で、書いているわけですから、そういう、不毛な結論に行き着いてしまうことは避けようと思います。
従って、そこは『チガウ!』でいいような気がします。

さて、ここで、『それでは、人間が草食動物を殺して食べていることは「悪」なのか?』と言う問いが発生するのはごく自然なことでしょう。

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長く成って来たので、つづきは次の記事に書こうと思います。

 

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※この記事は私がメインでやっている下のブログからの転載です。

 

「善悪」について(1)

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どうも、こんにちは。

こういうの書くと、書いている本人はけっこう大変なわりに、読んだ人のご気分を害してしまうことが多いみたいなんで、あまり書かないようにしているんですが、これは前から書こうかと思っていたことだし、まぁ、時々書くぐらいならいいかなと思ったので、書いてみようかと思いました。

でも、一気に長い文章を書くのは大変なので、少しづつ書いていこうと思います。

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まず、はじめにお断りしておきますと、私自身は究極的な意味での「善悪」と言うのは無いと思っていますし、もし、そういうモノがあったとしても、人間にそれが判断できるとは思っていません。
(ましてや、私ごときが?・・・ですよね)

ですから、これから書くことは、あくまで、『もしも仮に「善悪」というものを設定するのであれば、この辺がいいのかな?』と言う程度の話に成りますので、この話が、何かの役に立つとか、人の生き方に影響を及ぼすほどのことであると言った重要な内容の話ではありません。
(タイトルから、そのような深い内容をご想像に成る方が居らしたならば、ごめんなさい。ちがいます。)

まぁ、要するに、「とあるオッサンの独り言」みたいなジャンルの話に成りますので、その辺はアシカラズ。

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ということで、「善悪」についてです。


まず、上に書いたように、私自身は絶対的な意味での「善悪」と言うモノを自分の中に設定しないようにしています。

人間はどうしても「自分が正しいと思うこと」や「自分が好きなモノ」や「自分に近しい存在」を「善」とし、「自分が間違っていると思うこと」や「自分が嫌いなモノ」や「自分からかけ離れた存在」を「悪」としてしまう性質があると思います。
つまり、「自己規準」で「善悪」を判断してしまうわけですね。

でも、「自己規準」を「善悪」としてしまうと、いつの間にか、「自己規準」=「善悪の規準」と言う方程式が成り立って行ってしまい、結果的に自分勝手に「善悪」を判断するように成りますし、ひいては、そういう「自分勝手な規準」に沿って、他人や物事を一方的に断罪したり、決めつけたりするように成ってしまうと思います。
そういう「独断的な判断」が、『ほとんどブレ無い』という人も居ると思いますけど、私にはとても無理で、はっきり言ってしまえば、「ブレブレ」なので、『いや、「ブレブレブレ」ぐらいか?』なので、そういうことはしないようにしているわけです。

そんな理由から、私は、少なくとも自分に関する限り、「善悪の判断」においては、なるべく「自己規準」を遠ざけておいた方がいいと思っているわけです。
(これは「自己規準」を「自己利益」と言い替えてもだいたい同じような意味に成ると思います)

とは言え、人間の判断はすべて「自己判断」に違いないわけで、「自己規準」に基づいていない判断と言うモノは、まぁ、ほとんど無いと言ってもいいわけですから、「自己規準」に頼らずに「善悪」をどうやって判断すればいいのか?ということに成ると、なかなか答えが見つかりません。

それなら、いっそのこと『「善悪」なんてものは、はじめから存在しないんだ』ということにしてしまって、『「善悪」に関する判断をすべて放棄してしまえばいいじゃないか?』と言う考え方もあるのかも知れません。

しかし、私は、これも難しいと思います。
どんなことをされても、それをした相手やその行為を「悪」であると思わずにいるのは、人間にはほとんど無理だと思います。
やはり、人間は「嫌なこと」・「害と感じること」・「間違っていると思うこと」をする相手や、その行為自体を「悪」と考えてしまうモノだと思いますし、そう考えずにいることは、ほぼ不可能だと思います。
(これも、出来る人は居ると思いますが、かなり少ないし、『私にはとても無理!』という意味です)

つまり、人間が、どうしても何らかの形で「善悪」を判断してしまうモノであるという前提で考えた場合、そこに、出来る限り「自分勝手な規準」を持ち込まずに、例えば「自分にとっての利益・不利益」とか「自分にとっての好き嫌い」とかいうような「自己規準」ではない「規準」を探すことは出来ないだろうか?と考えた場合、いったい何が考え得ることなのだろうか?ということをこれから書いていきたいと思っています。


「善悪」に決定的な「規準」を設定することには、無理があると思いますが、それでも、ある程度の「普遍性」を持った「善悪の規準」と言うモノについて「考えること」くらいは出来るんじゃないのかな?と思うわけです。
  
  ※ここで、「普遍性」を持った「善悪の規準」と言っているのは「自己を中心
   として導き出された判断」ではなく、「純粋に善悪ということを考えた結果
   として導き出された判断」と言うような意味です。

その辺が人間にとっての限度だと思いますので、その程度の話ですが、もしも興味のある方がいらっしゃれば読んでみて下さい。
(それですら「私の限度」は超えてしまうのかも知れませんが)


つづく・・・・

「芸術を芸術すること」と「哲学を哲学すること」

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 注:この記事は内容のわりに長いです。
   読んでトクなことは何一つ書いてません。
   一般的に言って、お読みにならないことをお勧めいたします。

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「芸術すること」とは、どんなことか?と言えば、たいてい「創作すること」が頭に浮かぶと思います。
「哲学すること」とは、どんなことか?と言えば、たいてい「考えること」が頭に浮かぶと思います。

それでは、「芸術を芸術すること」とか、「哲学を哲学すること」と言った場合、どんなことを頭に思い浮かべるでしょう?

「芸術」で言えば、「芸術の批評」や「芸術の鑑賞」が「芸術を芸術すること」に当たるんじゃないかと思うわけです。
「哲学」で言えば、「哲学の諸説の研究」や「哲学者の思想の研究」が「哲学を哲学すること」に当たるんじゃないかと思うわけですね。

どうして、こんなことを考えるかと言うと、「芸術すること」と「芸術を芸術すること」や、「哲学すること」と「哲学を哲学すること」があまり区別されていないような気がするんですね(特に「哲学」の場合は)。

 ※これは「芸術」や「哲学」だけでなく「科学」などでも同じことがいえると思います。
  つまり、「科学すること」と「科学を科学すること」が、必ずしも区別されていなか
  ったりするわけですね。
  でも、「芸術」と「哲学」において、これらのことが区別されていないことの影響が
  わりと大きいのかな?ということですね。

そして、それらを区別していくと、見えやすくなってくることがあるんじゃないか?と思ったので、それを考えてみたわけです。

それから、もう一つ、このブログでも前から書いていることなんですが、「芸術する人」のことを、私は「芸術者」と呼ぶようにしているんですが、その「芸術者」という言葉には、「創作者・鑑賞者・批評者」の三者を対等な関係として考えていきたいという意味を込めているわけなんですねぇ。
だから、「芸術する人」だけでなく、「芸術を芸術する人」も含めて「芸術者」として考えていきたいわけです。
それで、そういう意味も含めて、「芸術すること」と「芸術を芸術すること」や「哲学すること」と「哲学を哲学すること」の違いを考えてみようというわけです。

まず、「芸術」についてなんですが、「現在の芸術の世界」においては、【「創作者・批評者」:「鑑賞者」】の比重がかなり偏っているということがあると思うわけです。

「芸術の世界」においては、「芸術の世界の人」というのは「創作者」と「批評者」だけであって、「鑑賞者」はあくまで「素人」または「部外者」ということに成っていて、プロフェッショナルなのは「創作者」と「批評者」であるという感じが非常に強いと思います。

 ※ここで言う「プロフェッショナル」は、必ずしも「お金を稼いでいる人」とい
  う意味ではなく、「専門性を持ってやっている人」という意味です。
  
  「プロフェッショナル」という言葉には、「専門性」という意味が、もう少し
  取り入れられてもいいような気がします。
  「金銭的な価値」に重点を置いて「プロ」を考えた場合、「プロの専門性」は
  堕落することも多くなるでしょうが、「専門性」に重点を置いて「プロ」を考
  えた場合は「プロの価値」が高くなることはあっても、堕落することはないは
  ずです。
  その「プロの価値」こそが、「金銭的な価値」に置き換えて相当な「本当のプ
  ロフェッショナル」の姿だと、私は思います。

しかし、実際には、「専門性を持った鑑賞者」は存在しますし、「鑑賞者」が「創作者」や「批評者」と対等に「芸術者」として扱われるようになれば、きっと、もっとたくさんの「専門性を持った鑑賞者」が出てくると思います。

現在は、どうしても「ごく一部のコレクター以外の鑑賞者」は、置いて行かれてしまう傾向があって、けっきょく、ここでも「カネがものを言う世界」が出来てしまっています。
(「コレクター」として認められるようになるのには、けっこうお金がかかりますからね)
そういうことではなくて、「鑑賞すること」自体が「芸術表現の一部分」として捉えられるようになっていかないと、「芸術」自体も循環できなくなって息が詰まってしまうと思うわけですね。

つまり、「芸術すること=創作」と「芸術を芸術すること=批評・鑑賞」が対等な関係で対峙しつつ循環することで、「創作」~「鑑賞」~「批評」~「創作」~という繰り返しで「芸術」が回り続けることが出来るようになって、その結果、初めて「芸術」が「表現」として成り立つんだと思うわけです。

だから、その「芸術三者」が対等でなかったり、循環していなかったりしている状態というのは、本当の意味で『「芸術」が表現されている』とは言えないような気がします。

そういうことから、「芸術すること」と「芸術を芸術すること」が区別されて、それぞれに意味があると言うことが認識されるようになった方が、少しいいような気がするわけですね。

 ※今は、この二つが対等なものとして区別されていませんから、同じモノとして扱わ
  れてしまって、「創作」の優位性ばかりが強調されてしまうんだと思います。
  どうしたって、「作品」がなければ「鑑賞」できませんからね。
  それぞれの意味が、区別されていないと「鑑賞サイド」が絶対に不利ですよね。
  それでいて、職業的な「批評家」だけは影響力がありますから、ある意味では「創
  作者」以上の権威に成ってしまっているようなところがあるのも確かなことだと思
  うわけです。
  こういうアンバランスな力関係があるために、「芸術」が循環できなくなっている
  んだと思います。
  「鑑賞者」が「芸術の中心」がら排斥されるようになれば、結果的に困るのは「創
  作者」でもあるわけですから。
  (今、そうなってませんか?「芸術の世界」が閉鎖的な世界に成ってないでしょうか?)

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

次に、「哲学」ですが、どちらかと言えば、「芸術」以上に区別されていないのが、「哲学すること」と「哲学を哲学すること」だと思います。

こちらは「哲学を哲学すること」を「哲学すること」の本流だと思っている人の方が多いくらいなんじゃないか?とも思います。
つまり、「自分の哲学」ではなく「誰か有名な人の哲学」について研究することの方を「哲学の本流」だと思っている人が多いと思うわけです。
(そういう意味では「芸術」と逆ですね)

「哲学」は「真理を探究する学問」だと思いますが、その「真理」は、人間がどんなに頑張っても到達できないものだと思いますから、当然、「真理」を提示することが出来た人(哲学者)は居ないはずです。
ということは、特定の哲学の説の中に「真理」はないはずです。
ということは、ある哲学者の思想や生涯を研究し尽くしたとしても、「真理」に巡り合えることはあり得ません。
つまり、「哲学を哲学すること」というのは、初めから「真理の探究」ではないという前提で行われる、「哲学」とは少し違う作業だということだと思います。

 ※これは「哲学のテーマ」を「真理」以外のことに置き換えたとしても、ほぼ同じ
  ことがいえると思います。
  「哲学のテーマ」をほかのことに置き換えるとしても、どう転んでも「哲学のテ
  ーマ」は世界の根源的な様相にかかわっているでしょうから、人間に到達できな
  いものであることには変わりないと思いますので。

もちろん、「哲学すること」であっても、現実に「真理」に達することはないので、その点では同じなんでしょうが、少なくとも『真理を目指している』ということは言えるわけです。
でも、「哲学を哲学すること」となると、やはり『真理を目指している』とは言えないと思います。
「哲学すること」と「哲学を哲学すること」が、全く違うことだとは思いませんが、少し違う方を向いていることは間違いないんじゃないかと思うわけですね。

「哲学を哲学すること」の意味は、『真理の探究』ではなく「哲学的な思想に出会うこと」の意味だと思います。
(有名な哲学者の思想に限らずですね)
回りくどい言い方に成りますが「真理を探究した人が、真理には到達できないまでも、その真理に向かう思考の過程で持つに至った哲学的思想との出会い」ということに成るんじゃないでしょうか?
つまり、そこにあるのは「真理」ではなく、『いかにして真理に到達できなかったのか』という「不達成の記録」なわけですから、言ってみれば「不達成哲学の研究」が「哲学を哲学すること」ということに成るわけです。
だから、やっぱり「哲学すること」とは違うと思うわけですね。

ただし、だからと言って、そこに意味がないかと言えば、そうとは限りませんし、もちろん意味がある場合もあると思います。
ただ、『「哲学すること」とはチガウ』ということだと思います。

「他人の哲学思想に出会うこと」が「哲学を哲学すること」の意味であって、それは「哲学すること」の意味ではないということが意識されてさえいれば、その「出会い」にも確かな意味が生まれると思います。
でも、それとは逆に、「他人の哲学思想に出会うこと」を「哲学すること」そのものだと考えてそれを行ってしまうと、そこに「哲学的な意味」はなくなってしまうような気がします。

「哲学」とチガウモノを「哲学」だと思って「哲学する」わけですから、そこに「哲学としての意味」が生まれるわけないですよね。
ハッキリ言えば、そこからの「哲学への発展性」もほとんどないと思いますね。
「チガウ方向」へ向かってしまっているわけですから、離れていくことはあっても近づくことはできないんじゃないかと思いますよ。
最初に方向性がズレた位置まで戻ってからじゃないと難しいんじゃないでしょうか?
要するに、それまでに習得したものを、かなりのところまで切り捨てるような意識がないと、戻れないような気がしますね。
(まして、その「自分が習得した知識」にしがみついているんだとすれば)

一度戻った後で、自分の中から生み出された思想があれば、それがどんなに単純なものであっても、どんなに不完全なものであっても、それは「その人の哲学」であり、それを考えることこそが「哲学すること」に成るんだと思います。

『自分は、そんなこと初めからわかってやっているから大丈夫!』と思っている人が多いような気がしますが、実際には『そんなことわかっている人』は、初めから「他人の哲学」ではなく「自分の哲学」を追究するような気がしますね。

ただし、、これは、「師弟関係」のように、直に接した人から受け継がれる「思想」に関する話とは、ずいぶん違う話だと思います。
つまり、『本を読んだ』とか『授業を受けた』とか『大学で専攻した』とかと言うようなことに関する話です。
そういうことから、吸収されるのは、主に「知識」であって「思想」ではないと思います。
なぜなら、「本」や「授業」から「思想」を吸収するには、その人の中にすでに「その思想に匹敵するくらいのサイズの思想」が存在する必要があるからです。
自分より大きいものを吸収できるわけがありませんからね。

 ※その哲学者本人に、長い時間をかけて直に接することで、「その人の思想」を
  丸ごと吸収できる可能性はあると思います。
  その場合は、必ずしも「その人に匹敵する思想」は必要ないのかも知れません。
  これは、「師弟関係」に限らず「親子関係」において、親から子に受け継がれ
  る思想があることを考えればわかることだと思います。
  「子供」が初めから「親」に匹敵する思想」を持っているわけではないのに、
  「子供」は確実に「親の思想」をコピーしますから。

  でも、それも「学問」においては、研究者同士の師弟関係など特殊な関係に限
  られるでしょうね。

やはり、「知識」はあくまで「知識」として吸収して、あとに成ってから「自分の思想」に役立てられたらいいんじゃないかと思います。
「知識」を「思想」として捉えてしてしまえば、改めて「自分の思想」を築き上げるという多大な労力を要する作業を行うことはなくなってしまうのが普通でしょう。

さらに言えば、「哲学」のようなジャンルに関しては、「思想全体を吸収すること」であっても「思想のごく一部分を吸収すること」であっても、ほとんど同じ「受け手側の容量」が必要だということもあると思います。
だから、「他人の哲学思想に出会うこと」と言っても、「本」や「授業」だけでは、それは、あくまで「出会い」にとどまるわけで、そこからの「哲学への発展性」には、ほとんど期待できないと思うわけです。

 ※こういうの言うと、怒る人も居るでしょうが、『なぜ、自分は怒るのか?』
  と考ええてみてほしいですね。
  その人が、本当に、「他人の哲学思想との出会い」から「自分の哲学」を導
  き出せたんだとすれば、こんなこと言われたぐらいで怒らないんじゃないか
  と思いますよ。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

さて、ここで、いったん最初に話を戻します。

まぁ、要するに、「芸術を芸術すること」は、あまりに軽視されているし、「鑑賞」と「批評」も区別されていないような状態だということです。
そして、「プロの批評家」と「素人の鑑賞者」との間の関係も非常にアンバランスであって、それが「芸術」を停滞させている原因の一端なのではないのかと思うわけです。

そして、「哲学」においては、「難解過ぎる哲学」が「哲学の世界」を覆いつくしてしまっているために、それを修学するのに力を使い果たしてしまって、一番肝心な「哲学すること」が、そっちのけに成っているんじゃないだろうか?と思うわけですね。

さらに言えば、「そこで力を使い果たした人」こそが「教授」や「学者」に成っていくことに成るわけで、そうなれば、エラク成ったその人たちは、その後、その「難解すぎる哲学」を手放さなくなってしまうに違いないのです。
そうなれば、当然、その「教授」や「学者」から、さらに「難解すぎる哲学を修学すること」、つまりは、「哲学を哲学すること」に長けた人が、また、次も力を使い果たした後で、「教授」に成り「学者」に成るということです。
それで、ごく一般的な人が人生の中でたどり着いた、単純であっても「本当のその人の哲学」といえるものが、完全にナイガシロにされてしまうわけです。

要するに、「芸術の世界」では「芸術を芸術すること」があまりに軽視されているし、「哲学の世界」では「哲学すること」の方が、むしろ、除外されてしまうような環境が出来てしまっているわけです。
つまり、「芸術」と「哲学」において、まったく逆のことが起きていて、しかも、それらの反対のことがほとんど同じ結果を生み出してしまっているわけです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

ここで「芸術」と「哲学」において、なんでこんなことが起きているのか?ということです。

おそらく、これらのことは、「芸術」や「「哲学」において、本質が失われているということからきているんじゃないかと思うわけです。

「芸術」は「真実の美しさ」を表現しようとするものですし、「哲学」は「真理」を探究するものだと思います。
ところが、その「真実」や「真理」が、人間には到達できるようなものではないということがあるわけです。
つまり、「芸術」や「哲学」というのは、不可能なことを追求するという、人間にとっては極めて不条理で、不満足な作業の連続ということに成るわけです。
そこで、やっぱり達成感が欲しくなるわけですね。
その「達成感への渇望」が「芸術」と「哲学」において、共通して、本質が失われてしまった原因だと思います。

もともと、「芸術」は「現実(自然)」を表すことで「美しさ」を追求して来たわけですが、ある時から、それだけではもの足りなくなってきて、より「真実」に迫るようなものを表現しようとするようになります。
それが、印象派以前から続いてきて、現代の「抽象表現」に至った「現在の芸術の流れの源泉」だと思います。

ところが、その「抽象」が思ったほど自由でも簡単でもなかったので身動きが出来なくなってしまって、進むべき方向性を見失ってしまったというのが「現代美術」の現状だと思うわけです。

要するに、どうしていいのかわからなくなってしまったんだと思いますが、そんな無根拠な状態を無理やり肯定しようとしたために、「無根拠を自己肯定するための論理」が必要になって、「抽象以降の現代美術」には難解な論理がくっつけられるようになっていくことに成るわけです。

そして最終的には、「論理」の方に乗っ取られてしまい、「芸術」や「表現」が後回しにされるという本末転倒が起きてしまったということでしょう。
(この文章も「難解な論理」の一つだと思われるかもしれませんが、この文章に難解な所は無いはずです)

また、「哲学」においては、「真理」を探究するうえで、おそらく初めのうちは、自分たち人間のことや自分たちに見えている世界について探求していけば「真理」に到達できると思われていたのかもしれませんが、それでは「真理」の断片が垣間見えることはあっても、「真理」にまでは届きませんから、少しでも「真理」に近づきたかったんだと思います。
それで、どんどん難解になって行ってしまったんじゃないでしょうか?

でも、実際には、どんなに手の込んだ論理を立てたとしても、人間は「真理」に到達できませんし、本当のことを言えば近づくこともできないわけです。
それで、『もっともっと』とますます難解になって行って、最終的に「哲学」は「最も単純なことを最も難解に説明する学問」のようになってしまったんだと思います。

けっきょく「哲学」も「芸術」も「難解な論理」に乗っ取られてしまったんだと思いますね。
それで、本質を見失ってしまったことによって、「哲学すること」や「芸術すること」という、もっとも中心的な部分が失われてしまったんだと思います。


「芸術」の場合は、「芸術すること」が軽視されているわけではなく、前述のように、むしろ、軽視されているのは「芸術を芸術すること」の中の「鑑賞すること」です。

しかし、その結果、創作者だけが肥大化して、自己顕示的な創作者や創作物だけが、人目を惹くように成ってしまっていて、「自己表現」と「自己顕示」が取り違えられてしまっていると思います。

そもそも「自己表現」とは、作者自身の中にある「真の姿」、つまり、もっとも「その人である姿」を、余さず、隠さずに表現することだと思います。
どちらかといえば、作者は「人に見せたくない自分」を表現しなければならなくなるということですね。
それに対して「自己顕示」とは、作者本人が「人に見せたい自分の姿」だけを強調して表現することだと思うわけです。
つまり、自分の中の一番いいと思っているところだけを表現することに成るわけです。

だから、「自己表現」と「自己顕示」は近いように見えて、まったく逆の方向性を持っているともいえるわけです。
そして、その二つが入れ替わってしまっているとすれば、「芸術の本質」が失われるのは当然のことだと思うわけです。


一方、「哲学」では、「哲学全体」が論理に走りすぎたために、その「論理」を競い合うことを「哲学すること」であると勘違いされているような気がします。
(これを『勘違いではない!』という人もいるんでしょうか?)

しかも、「哲学を哲学すること」の場合、その「論理」は「その人の論理」ではなく「誰かの論理」であるわけです。

それが「哲学を哲学すること」であることを前提にしているのであれば、つまり、それが「自分の論理」ではなく「他人の論理」であるということが前提に成っているのであれば、その「他人の論理」を使って論理を競い合うことに意味がないということがわかりやすくなると思いますが、それを「哲学すること」つまり、「自分の論理」であるとして考えてしまうと、その議論が「自分の論理」に基づいた「自分の議論」であると思ってしまうでしょう。
しかし、「他人の論理」をそのまま議論に転用するのだとすれば、それは「議論」ですらなく、まして「哲学」ではないと思います。

もしも、その人が、「ある有名な誰かの論理」を非常に正確に理解していたとしても、そこに「その人の論理」が全く加えられていなかったとすれば、それは「その人の論理」ではないでしょう。
そうなれば、それは「その人の議論」ではなく、「ある有名な誰かの議論」ということに成ります。
それは議論と言えなくはないでしょうが、「その人の議論」ではないでしょうし、「その人の哲学」ではないと思うわけです。

その上、そういうケースにおいて、そういう人がその「有名な誰かの論理」を正確に理解していることなどほとんどありませんから、そうなれば、もう、それは知識を羅列しているだけであって、ウイキペディアの記述を読み上げているようなものではないでしょうか? 

要するに、「芸術」においても「哲学」においても、「論理」に、重点を置きすぎたんだと思いますね。
それで、「本質」が失われる結果に成ってしまったんだと思います。

 ※実際には、「論理的」であることが問題なわけではなく、むしろ、問題なのは、
  「非論理的」であることの方が多いのかもしれません。
  「芸術」や「哲学」が、「真実」や「真理」を提示して見せることが出来ない
  ことの弁解として、「不必要に難解な論理」を使ってしまっていることに本当
  の問題があるんだと思います。
  そして、そういう時の「不必要に難解な論理」というのが、有り得ないほどに
  「非論理的」であったりするわけですね。
  


でも、これらのことには、さらに、根本的な原因があると思うわけです。
つまり、どうして「論理」に頼るようになっていったのか?ということですね。

おそらく、その原因とは、繰り返しに成りますが、「芸術」や「「哲学」で追究するものが、「真実」や「真理」といった根源的なものであり、それらがあまりにも純粋過ぎるために達成不可能なものであるということが問題なんだと思うわけです。
要するに、「芸術」や「哲学」において、その「本質」に向かうということは、「不可能」に向かうということであって、「達成」を捨てる意識が必要になる作業であるということです。

そして、その「不達成感」を補う意味で「論理」が使われてしまったんだと思うわけです。

「難解な論理」によって、「論理の迷宮」を築き上げると、結果的に、その「論理」の中に必ず、本人にも解析しきれないような部分が出てきます。
当然、他人に説明することもできません。
すると、そこだけは、誰からも見えなくなるなるわけです。
「論理の迷宮」の中にそういう「死角」を作り上げて構築しきってしまうと、もう、ほとんどその「迷宮」が崩されることはありません。
「論理の迷宮」についての矛盾や疑問を追求していくと、どこかの時点で、必ずその「死角」に行き当たります。
そこだけはだれにも見えませんから、それ以上はだれにも追及できないわけです。
だから、崩されることはありません。

本人にも見えなくなってしまうわけですから、本人ですら崩せません。

つまり、それが「ある種の達成」となるわけです。
それは、厳密に言えば「達成」とは言えないでしょうが、「達成感」を味わうことはできるということでしょう。
このことによって、「芸術の世界」と「哲学の世界」において「論理」が不自然なくらいに偏重されてきたんだと思います。

 ※最も厄介なのは、この「論理の迷宮」は、その気に成りさえすれば、誰にでも
  築き上げることが出来るということでしょう。
  それどころか、『誰にでもできる』というよりも、むしろ、『必ずそう成ってしまう』
  と言った方がいいくらいだと思います。

  これは「言葉」が根源的に持っている「二律背反的な性質」による所が大きいわ
  けですから、「言葉」を使った「論理思考」においては、「逃れられない罠」のよう
  なものだということですね。
  つまり、「言葉」を使った「論理」においては、世界を限りなく細分化して詳細に
  説明していくことはできても、世界全体を把握したり説明したりするということは
  できないということです(だから、真理には到達できないんでしょうね)。
  そして、その「詳細さ」が極限に達した時点からは、同じ「論理」が少しづつ言葉
  を変えながらグルグルと回り続けることに成りますから、難解に成っていく一方で、
  そこから先には、ほとんど意味のない「理屈の羅列」があるだけに成ってしまうと
  いうことだと思います。

  このように、「論理」が「逃れられない罠」にハマった状態を、ここでは「論理の迷
  宮」と言っています。
  


ただ、これも「論理」自体の問題ではなく、「論理の使い方や目的」が本質から外れているということが一番大きな問題なんだと思います。

現在の「芸術の世界」と「哲学の世界」を客観的にみると、どう考えても不必要に難解な論理が横行しているようにしか見えませんが、「それぞれの世界」の中にいる人達にとっては、それこそが「芸術の世界の常識」であり、「哲学の世界の道理」なわけで、そこに疑問を持つことは、「それぞれの世界」からの撤退を意味するわけです。
(「論理の迷宮」が、鉄壁の要塞のように作用してしまうわけですね)

だから、「芸術の世界」には「芸術の世界の常識」を持った人しか居続けられませんし、「哲学の世界」には「哲学の世界の道理」を重んじる人しか居続けることが出来ません。
それで、それらの常道がさらに強化されて行ってしまうというわけです。

その結果、現在では、その「不必要な難解さ」や「無意味な競争」に対して違和感を感じる人すら居なくなりつつあります。
これは、それぞれの「世界の中」でも言えることですが、それらの「世界の外」にいる人たちでも、そこにあえて疑問を投げかけ、問題を提起しようとする人は、もう、ほとんど居ません。
要するに、諦められてしまったということでしょうね。

それぞれの「世界の中」に居る人は、それが当然だと思っていますし、そこに居心地の良さを感じていますから、そこから抜け出そうとはしませんし、決してその安全な場所を変えようとはしません。
また、「世界の外」に居る人が、そこに一石を投じるような機会はほとんど与えられていませんし、もし、何らかの疑問を提示したとしても、「難解な議論」に巻き込まれて、「絶対に崩せない論理の迷宮」に引き込まれますから、結果的にはかき消されてしまって、なんの影響も残せません。

そして、今、「芸術」と「哲学」という二つの分野は、完全に孤立して瀕死の状態にあると思うわけです。

現在、「芸術」と「哲学」において出来ることは、「不可能の追求」に立ち返ることだと思います。
その「不可能性の追求」という作業の過程で、現れてくる「迷い」の中に最も純粋な「その人性(そのひとせい)」が発露します。
その「迷い」の表現こそが、現在「芸術」と「哲学」において指標と成り得る唯一の「可能性」を持つものだと思います。


話が長くなりましたが、この辺で終わりにします。

もはや、「芸術」と「哲学」においては「達成」を求める必要はなくなりました。
もう、「競争」は不要であり、勝つことにも、上昇することにも何の意味もありません。
「達成」のないところに「競争」は存在しません。

自己の内に向かって問い続け、その「不達成」の中の「不可能性」に現れる「迷い」を表出することだけが、現在「芸術」と「哲学」に示すことが出来ることではないかと思います。

つまりは、今、「芸術」と「哲学」に言うことが出来ることといえば、ただただ、『できませんでした』と言うことなのではないのでしょうか?
そして、その『できませんでした』を言うために、どれだけの力を使い、どれだけの時間を費やしたのかを示すことぐらいしか、「できること」などないのではないのでしょうか?と。

 


まぁ、そんな風に思ったわけなのです。

 

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※この記事は私がメインでやっている下のブログからの転載です。

 

『come on me』

[Candi Staton - I'll sing love song to you]


www.youtube.com

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「詩のような題」=「ポエティック・タイトル」

 

『come on me』 
as
your naked

ok
i take off ​my extra stuff


※[take off my extra stuff]は「余分なものは脱ぎ捨てて~」と言う感覚で使いました。
「見栄や虚飾を捨てる」と言うのに近い意味だと思います。
『誰かが自分のために身を捧げてくれる時には、自分も大切なモノを捨ててその人のもとに近づいていこうじゃないか』
と言った感じですね。
(言うのは簡単ですが、これがなかなか出来ないんですけどね)

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※『 』 の中は「題の題」のようなものです。

その絵を呼ぶのに使う「呼び名(ニックネーム)」だと思ってください。

あぁ、言い忘れてましたが、「絵の題」としてつくっています。

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※上の記事に関連することを、下のリンクでも説明しています。

 

geijutuno20ctsousitu.hateblo.jp
  

 

「地上の楽園」

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よく南国の島に行くツアー旅行のキャッチコピーなんかで、そういう手つかずの自然が残っている場所を「地上の楽園」と言われることがありますけど、未開発の場所を「地上の楽園」と言うのならば、開発されマクリの「都会」とは、「地上のナニ?」に成るんだろうなと思うわけです。

「地上の地獄」っていうのは、いくらなんでも”怖すぎ”なのでやめといて欲しいと思いますけど。

でも、やっぱり「都会」と比べての「地上の楽園」なんだと思いますから、そうなると、どう考えても「都会」の方は、あまりいいイメージが出てこないような気がするわけですね。


しかし、よく考えてみると、「都会」と言うのは、人間が、ある意味で「楽園」を築きあげようとして開発を続けてきた結果なんじゃないかと思うわけです。

つまり、「都会」こそが本当の「楽園」であるハズなわけです。


実際、現在の「都会」での生活は、ほんの数世代前の時代の人から見たら、間違いなく「楽園」のように思えるものだと思います。

そんな中で、「未開の地」を「楽園」と呼んで、自分たちが長年かけて築き上げてきた「都会」を、「逆・地上の楽園」と呼ぶような事態になってしまったのだとしたら、どこでどう食い違ってしまったのだろうか?と思うわけですが、実際問題として、「都会」って、良くなったんでしょうか?それとも、悪くなったんでしょうか?

なんで、「都会」を「地上の楽園」であると感じられないんでしょうね?


まぁ、それは「ないものねだり」と言うことなんでしょうが、それだけでもなくて、「都会」の変化が速すぎるんだと思いますね。

『あぁ、「楽園」だなぁ』と感じる前に、もう次の形に変わってしまうから、「人間」が「都会」に追いつけなくなってきているんだと思います。


だから、「未開の地」に「楽園」を感じるのかも知れないですね。
つまり、一生懸命についていかなくてもイイと言うんですか?
そういう安心感みたいなものが「楽園」を感じさせるんだと思います。


「都会」に居ると、いつも「便利さ」に一生懸命ついていかないとならないし、いつも「新しい便利さ」を習得することを迫られる感じがするわけです。

もう少し時間を「スロー」にすることが出来れば、「都会」は信じられないほどの「地上の楽園」に感じられるように成るような気がするんですね。


そうすれば、『毎日が楽園生活』ということに成るわけで、万々歳だと思うんですけどねぇ。

どんなもんでしょう?


『そんなウマイ話があるわけないだろう!』

「そうですよねぇ」

まっ、もしも、そんな風に成ったらいいなっていう話ですね。

 

 

「ビンボー」と「貧困」の違い

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「ビンボー」と「貧困」は、ほとんど同じイメージだと思うんですが、でも、ナニカが違うという感じもあるわけです。


私なんかも、かなり「ビンボー」なような気がするんですけど(『いや、もしかすると気のせいか?』 『・・・あぁ、気のせいじゃなかった』)、「貧困」かと言うとそうでもなくて、実を言えば、かなり豊かな暮らしをしていたりするわけなのです。

確かに「おカネ」はないんですが、そんなに「おカネ」を使わないんで困ってないんですね。
つまり、「貧」だけど「困」ではないということです。


私の場合、今は妻の収入に頼って、絵を描くことに専念させてもらっていますから、「ビンボー」と言うのも失礼な話なんですけど(働いている妻に対してですね)、取り敢えず、困ってはいないですねぇ。


『女房を働かせといて、なにを偉そうなことを言っているんだ!』と言われそうですけど、一応、私なりに一所懸命にやっている結果がこうなっているわけですから、まぁ、その辺のところは、大目に見てやっているわけです。
(いや、自分が)


それはともかくとして、ここで言う「ビンボー」と「貧困」の違いって、いったいどこから来るんだろうかと思うわけです。
ただ単に、「困っているかどうか」と言うことだけでもないような気がするわけですね。

私は、「ビンボー」と「貧困」の決定的な違いは、「本人が受け入れているかどうか」だと思うわけです。


つまり、その「ビンボー」を本人が受け入れていれば「単なるビンボー」で、本人が受け入れていない場合は、「貧困」に成るんだと思います。
私の場合だと、むしろ積極的に「ビンボー」をやっているところもありますから、「豊かなビンボー」と言うことに成るわけですね。

逆に言うと、客観的に見て「裕福」でも、本人がそれを「裕福」として受け入れていない場合は、どこか貧しいという印象があって、それも、どちらかと言うと「貧困に近い貧しさ」と言う感じがしてしまうわけです。


そして、現代社会では、この「ビンボーを受け入れている人」が、
昔よりも少ないような気がするわけなのです。


例えば、江戸落語に出て来る「長屋暮らし」などは、「破れ障子にせんべい布団」と言うような、かなりの「ビンボー生活」だと思いますけど、ちっとも「貧困」は感じないですね。

むしろ、楽しそうです。

これは必ずしも「落語の中の世界」だからということだけでも無いような気がするんですね。


要するに、周りもみんな生活レベルが同じくらいで、当時の江戸は「江戸全体」が豊かだったんでしょうから、「食うのには困らない」と言うことがあったんだと思います。
それで、『宵越しの銭は持たねぇ』みたいな感覚があったんでしょうね。

これなんか、どちらかと言うと『すすんでビンボーに成ったろうじゃねぇか!』と言う感じですよね。
たぶん、「ビンボーを受け入れやすい状況」があったんだと思います。
さらに言えば、「ビンボー」を楽しむような状況があったといっても過言ではないような気がします。


ところが、現代社会では「食うのには困らない」と言うことが、「ビンボー受け入れの条件」にはならないみたいです。


貧困層」と言われる人たちでも「スマホ」や「パソコン」を持っていることはフツウでしょうし、「クルマ」だって持っているかも知れません。
また、かなり立派な家のローンを支払うために「ビンボー」に成っているというような、「貧困層」なのか「富裕層」なのかよくわからないような人たちも、場合によっては「貧困」に含まれていたりします。

つまり、それだけいろいろ持っていても、まだ「ナニカに困っている」と言うことですね。
要するに、現代は「ビンボーを受け入れにくい状況」にあるんだと思います。


現代と言う時代の中で、「ビンボー」を受け入れるにはどうすればいいのか?
まぁ、単純に言って、二つのモノのうち一つを諦めればいいんだと思いますね。

「二者択一」が発生した時に『自分にとって重要なモノを取って、他は捨てる』これだけでいいような気がしますね。


そうすれば、現代は「江戸時代」以上に、「ビンボーを受け入れやすい時代」に成るんじゃないかと思いますね。


現代人は、いつも二つとも取ろうとするんですね。
それで、二つとも取れないと悔しくてその状況を「受け入れられなく」なってしまうわけです。


私といたしましては、「リッチな貧困」よりも「豊かなビンボー」がいいんじゃないのかなと。


『どっちもよくねぇよ!!』という声が聞こえてきそうですけど。

「そんな馬鹿な?!」

と、そんな風に思ってしまうわけなのです。

 

「ウンチク」はどうして悲しいのか?

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「ウンチク」って言うと、あまりいいイメージがないですよね。
どちらかと言うと「知識のひけらかし」という感じで、スゴク・博識なのにスゴク・アホみたいな、そんなイメージなんじゃないかと思います。

でも、「ウンチク」が「豆知識」的な意味でけっこう面白いモノとして捉えられている時もあるわけで、その差は何なんだろうかと思うわけです。

そもそも、「ウンチク」って言うモノは、そんなに悲しいモノなのか?と考えると、必ずしも悲しいモノというわけでもないような気もしてきて、それなら、どうして「ウンチク」と聞いたとたんに『あぁ~、もう結構です!』みたいな話になってしまうのだろうか?と思うわけです。

「ウンチク」というのは、要するに「知識」でしょうから、本来はそんなに悪いものではないハズなんですが、なんで「知識」が「ウンチク」に化けた途端に「やや残念な感じ」になってしまうのか?ということですね。

というか、「知識」と「ウンチク」って、いったい何が違うんでしょうね。
その辺が、まず、よくわかんないわけですね。

で、よぉ~く考えてみたところ、だんだん違いが見えてきて、要するに「ウンチク」というのは「語るために覚えられた知識」なんだと思うに至ったわけなのです。
つまり、「知識」として、使用されることを前提としていない「知識」ということなんじゃないかと思うわけです。
もっと言えば、「ひけらかすための知識」ということに成るわけで、そうなると、『まぁ、それじゃ悲しいよねぇ』ということに成るのも当然だろうと思うわけです。
(「ウンチク」の本当の意味はそういう意味ではないんでしょうね、きっと)

しかも、今の時代には「ネット検索」が完全に普及していますから、そのような「ひけらかすためオンリーの知識」を、だれでも、いつでも、簡単に手に入れることが出来るように成ったわけで、もはや覚える必要すらなく成ったわけで、「あしたひけらかすウンチク」を今日調べて置けば、あさってには忘れてしまっても誰もそれを追求したりしませんから、「とっても便利でとっても悲しい世の中」に成ったもんです。

ということで、
「知識」は使うために覚えましょう!
もしくは、
使わない「知識」はひけらかさないようにしましょう!
もしくは、
使わない「知識」をひけらかしてしまう時には、ソートー・オモシロク話しましょう!
もしくは、
使わない「知識」をひけらかしてしまう時に、ソートー・オモシロク話す場合でも、頭がいいフリをするのは止めましょう!
だって、かなりアホでも1日くらいは覚えていられるんだから。

そんな風に思ったわけです。

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追伸:余談ですが、私は一時間しか覚えていられません。
問題:これはウンチクに当たるでしょうか?

答え:こういうのはウンチクではなく、クソ=ウンチですナ。

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※この記事は私がメインでやっている下のブログからの転載です。

 

「DNAが運んでいる情報」は「人間の情報」ではないんじゃない(のかな?)

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「DNAが運んでいる情報」について、その情報こそが、人間と言うものの実体であって、個々の人間は、それを世代から世代へつないでいくための”器のようなもの”に過ぎないと言う考え方があると思うわけです。

それは、それで一つの事実なのかなとも思うのですけれど、私は、「DNAが運んでいる情報」は「人間の情報」ではないと思っているわけです。

つまり、「DNAが運んでいる情報」とは、「物質としての人間」や、せいぜい「生物としての人間」の情報であって、人間自身が捉えている人間としての「人間の情報」ではないと思うわけです。


ここでいう、人間自身が捉えている人間とは、人間の中の「人間的な部分」ということです。

私には、この「人間的な部分」が、すべて遺伝子によるものだとは、到底思えないわけです。
と言うか、そこから外れた部分こそが、「人間的な部分」なのだと思うわけです。


例えば、「本能」は遺伝子に組み込まれているのでしょうが、人間は「本能」から外れたこともするわけです。
つまり、全てにおいて「遺伝子の命じるままに動かされている」とは言えないと思うわけです。


『いやいや、それも含めて遺伝子の指図したことなんですよ』と言われてしまえば、目に見えないことなので、『違う』とも言いきれませんが、このような『遺伝子が指示を出している』と言う考え方が、『それチョット違うでしょ!』と思うわけです。


実際には、遺伝子は情報を伝えているだけで、なにひとつ、指示したりはしていないわけです。

もっと言えば、情報を伝えてさえいなくて、情報を記録しているだけなわけです。


実は、それらの情報を管理していたり、使ったりしているのは、いま生きている個々の人間の脳なわけです。
そして、そこに生み出される一つの世界を、「精神」とか「心」とか「魂」と呼んでいるのだと思うわけなのです。

そして、それこそが正に「人間的な部分」なわけです。


確かに、その「脳」も遺伝子情報に基づいて構成されてはいるわけでしょうが、それは「脳」の組織についてであって、その中で、”今”生み出されている思考ではないと思うわけです。

つまり、ここでも「DNAが運んでいる情報」は、あくまで”物質的な範囲”のものであって、”人間的な範囲”にまでは及んでいないと思うわけです。


実際は、「DNAが運んでいる情報」が人間の実態なのではなくて、いま、個々の人間が行っている「行為」や「思考」が人間の実態であって、それらの「思考」や「行為」が情報源となってDNAに記録されていくのだと思うわけです。


これは「ニワトリが先かタマゴが先か」みたいな話になってしまうわけなので、どっちでもいいと言うようなものなわけですけれど、いま居る人間の創り出している情報が”サキ”で、遺伝子は”アト”だという方が理屈があっているように、私には思えるということです。


それから、『「DNAが運んでいる情報」こそが人間の実態である』と言っても、何も生み出せる気がしませんが、『今、人間が次の世代に伝える情報を作っているのだ』と言えば、何かが生み出せそうな気になれるということはあるのかなと。


そんなところで、よく知りもしないことを言ってみた。

どうもすいません。

 

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※この記事は私がメインでやっている下のブログからの転載です。

 

 

「AI」は「AI」を生み出すことが出来るか?「AI」は「突然変異」を起こすことが出来るか?

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最近では、「AI」と呼ばれている「人工知能」が、人間の「トップクラスの棋士」や「チェスの名人」などに勝てるように成って来たらしいですね。


それは「人間様」のプライドを打ち砕く事実なのかも知れませんが、実を言えば、「将棋」でも「囲碁」でも「チェス」でも、「AI」が勝利することは、ある意味では当たり前だと思うわけです。


そういう複雑で、智的なゲームにおいては、曖昧な判断や一種の機転なども要求されるわけですから、その手のゲームは「人間」が最も得意とする分野なわけで、だからこそ、そこで負けるとショックなんでしょうが、実を言えば、「AI」がそういうゲームで「人間」に勝つことは、「計算」や「情報解析」などで「AI」が「人間」を上回る能力を発揮するのと同じことで、単純に言って、『正確で速い』というだけのことだと思います。


現在の時点では、「AI」の能力は、すべて人間が「AI」に与えた情報をもとにしているわけで、要するに同じ情報をもとにして戦っているわけですから、『正確で速い』方が勝つに決まっています。


一見すると、「AI」が「曖昧な情報」を処理出来るように成ったことや、それどころか「AI」が「曖昧な思考」をするように成ったことで勝っているようにすら見えますが、その「曖昧な情報」のもとである「曖昧な思考」は、すべて「人間の思考」なわけで、実際に差がついているのは『正確で速い』の部分だと思いますよ。

前までは、「AI」はあまりにも「曖昧」が苦手だったために「曖昧」が出て来るたびに思考停止していたので、『正確で速い』が生かされなかったということでしょう。

それが、ある程度「曖昧さ」を処理できるようになったので、『正確で速い』の部分の差が出てきたんだと思います。


確かに、「AI」は長足的に進歩しているとは思いますが、必ずしも、「人間」はそこでショックを受けたり、『人間を超えられて、「AI」に支配されてしまうんじゃないか?』という危惧感を持つ必要はないんじゃないでしょうか?
(だから、現状でいいということではありませんけど)


『それじゃあ、どこまでいったら危惧感を持つべきなのか?』ということです。


まず、第一の関門は、『「AI」が「AI」を生み出すことが出来るようになること』じゃないかと思います。


現時点で、『人間」が一切手を貸さない』という前提で、「AI」を生み出せる「AI」が存在するのかどうかは知りませんが、おそらく、完全に不可能とまでは言えないと思います。

きっと、「そういうAI」だって作ろうと思えば作れるんじゃないでしょうか?

 ※現時点で、一番難しいのは「手先の器用さ」みたいな超アナログな部分なん

  じゃないでしょうか?
  部品作りとか、組み立て作業とかを人間が一切関与しないで行えるロボット

  はまだないような気がします。
  つまり、「将棋」や「チェス」の「名人」は越えられても、「町工場職人」

  はまだ超えていないということでしょうね。
  この部分って、「越えられそうで越えられない壁」だと思いますよ。
  何しろ、最新型の「人型ロボット」の歩き方が”あんな状態”ですからね。
  あれを見てると『こいつら、なんだかんだ言っても、マダマダだな!』って

  思えます。

そして、その次の関門が、『「AI」が自分で生み出した「AI」を進化させることが出来るように成ること』じゃないかと思います。
つまり、「子孫繁栄」ですね。

これには「遺伝」に当たるシステムが必要に成ると思いますから、けっこう難しいようにも思いますが、「ありえない」ではないのかも知れませんね。

でも、現時点では「AI」が生みだされてからの歴史が浅いですから、情報の集積があまりにも少なくて、「遺伝」と言えるほどの「壮大なプログラム」を創り出すことは出来ないでしょうね。たぶん。

 ※この部分でも「人間の情報」を使ってしまうと、「AIの進化」ではな

  くて「人間の進化」の後追いになってしまいますから。

おそらく、人間や動物は「遺伝」というプログラムを維持するために、「数億年」とかもっと長い年月の情報の集積を使っていると思いますからね。


そして、最後の関門が、『「AI」が「突然変異」を起こすことが出来るように成ること』なんじゃないかと思うわけです。

ここまでくると、もう想像すらできなくなりますが、取り敢えず、「当分無理」かな?っていう気だけはしますよね。


そんなわけで、今のところ「人間様の天下」は当分は安泰かなと。


とは言え、いつ「AIの突然変異」が起こるのかはわかりませんから、それを「人間」が先回りしておくことも、少しくらいは考えておいた方がイイのかなと。

つまり、『油断するな!そいつらナニしだすかわかんないぞ!』といつも思っていた方がいいのかなと。

そんな風に思いました。


 ※自分で言うのもなんですが、この世の中に、これほど役に立たない話が

  あるなんてビックリした!!

 

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※この記事は私がメインでやっている下のブログからの転載です。